missing tragedy

学者君と慣れない『僕』 

第一話

 『学者くん』。それは彼女だけが使うソルへの特別な呼び方だった。

 彼女はよく笑う。あと少しだけ人との距離が近い気がする。物理的にも心理的にも。
 しかし何故だか彼女の顔は見てて飽きないし、距離が近いことをソルが不快に思った事は無い。
 また短く切りそろえられた透けるような金の髪と、大きな翡翠色の瞳は人の容姿の差について疎いソルが見ても純粋に美しいと思う。朝日が反射してきらきらと光っている湖面を思い出すそれに魅入ってしまう。のんびりとした喋り方とソルよりも少しだけ高い声も、不思議と聞いていて心地良い。
 そんな好奇心旺盛な彼女は、ソルの読む本に特に興味があるようだった。
 ソルは毎日暇さえあれば村の外れにある樫の木の下で本を読んでいたのだが、彼女はそんなソルの隣によく来た。夢中になって本を読んでいると、いつの間にか隣に居る。ふと顔を上げると大抵翡翠色の瞳がこちらをじっと見ていて、最初はひどく驚いた。
 彼女がソルの読書の邪魔をすることはない。ただ決まってキリの良いところまで読み終わると話しかけてくる。
「ねぇ学者くん、」から始まるその質問は、それこそなんてことのないものから、真理を突いたものまで様々だ。情けないことに幼いソルには半分以上は答えられず、そんな時は二人で一緒に調べ、幼いなりにない知恵を絞り論じた。
 彼女の発想やそれに基づいた突発的な行動は、時にソルを驚かせ慌てさせたけれど。ソルは彼女が嫌いではなかった。

 彼女が笑うとソルも嬉しい。見つめられると恥ずかしくて困ってしまう。一緒に居る時間は心地良い。

 あと彼女の匂いは嫌いじゃない。
 異常に良い嗅覚はソルに流れるほんの少しの獣人の血の証で、同時に今までソルにとっては要らない能力でもあった。それは昔、獣人がより自分と合ったツガイというものを探すために備わった能力らしいのだが、ソルは別にツガイなんて要らなかったからだ。傍らには本と植物と家族さえいればいい、そう思っていた。
 しかしそれは彼女に出会って変わった。
 こう表現すると変態じみているかもしれないが、柔らかい彼女の匂いは落ち着く。ソルの好きな古びた本の匂いとも、天気の良い初夏の花畑の匂いとも違うけれど、安心するしずっとそばに居たいと思う。
 それを両親に言ったところ、彼らは古びた本のくだりで微妙な顔をし、しかし結果的には大変喜んでくれた。
 そして二人からどんな子なのか、名前はなんと言うのかと尋ねられ、ソルは困ってしまった。
 何故なら後者について、ソルは完全に失念していたからだ。

 思えば彼女について知っていることは驚く程少なかった。
 この村に来て間もないこと。どうやら事情があってきっかりお昼から日が暮れるまでしか外に出られないこと。おそらく自分と同い年くらいなこと。
 彼女を人に説明する際の一般的な項目について、ソルは殆ど知らなかったのである。

 返答に困ってしまったソルは翌日早速、彼女本人に確かめようと樫の木の下で待った。
 しかしその日夜になっても彼女が来ることは無かった。
 次の日も、その次の日も、そのまた次の日も。
 そして寂しさと不安を覚え始めた一週間後。堪らなくなったソルは勇気を振り絞り村の子供に彼女の事を尋ねた。そして無邪気な返答にソルはいくつかの事実と大きな間違いに気付いた。

「ああ! あいつか! 貧弱なあの金髪の『僕』野郎だろ? レンテリア家のお坊ちゃんで……たしか|レオ《獅子》とか言ったっけ? もう居ないから言えるけどどう考えても名前負けだよな」

 療養に来ていた『彼女』は既にこの村には居らず、しかも『彼女』は『彼』だったのだ。