missing tragedy

学者君と慣れない『僕』 

第一話

「大丈夫なの?! アリエス? まず貴方、男性に囲まれて普通に話せるの? 相手はあのケダモノみたいな男なのよ?!」
 女学校時代の友人であるノエリアに『計画』を話すと彼女は開口一番そう言った。
 二人のいる部屋には暖炉が寂しげな炎を抱えていた。家具らしい家具は年季の入ったティーテーブルのみ。それさえも彼女の為に物置から壊れかけの物を引っ張り出したとは言えない。日差しによって色褪せたカーテンの向こうに人影は見当たらなかった。あるのは連なる蒼い山々を背景とした畑と畑、ほんの少しの牧草と牛、そして畑である。
「いい?あの男なのよ!」
 美しい栗毛色の巻き毛を揺らし、ノエリアは伯爵令嬢らしからぬ剣幕で身を乗り出す。机が揺れてカップの中の紅茶が波打った。
「大丈夫だよ。お父様もレオも従兄弟のルカ兄さんもジェスさんも、農場のみんなも、全員男性だけれど女性と違うところなんてないよ。皆普通に話せるし優しいし。あと学園には女の子もいるよ」
 安心して欲しいとの想いを込めて、アリエスはにっこりと微笑む。男性だから危ないというのはいくら何でも極端だ。要は隠しきれればいい。弟のレオが回復するまで。長くても三、四か月と言われているし、アリエスだって努力するつもりだ。
 それに今更後には戻れない。ノエリアには伝えていないが、父親に頭を下げられてしまったのだ。
 地方の貴族であるアリエスの家にとって、これは好機に他ならない。長男であるレオが王都の学園に特待生として合格したのだから。
 近年の日照りで農業中心の領民の生活は苦しくなりつつある。多方面で手を尽くしているが、有力な人脈がないことに父が落ち込むことも多く、アリエスは間近でそれを見ていた。自分の結婚を利用して欲しいとアリエスは申し出たが、両親は渋り弟のレオは猛反対した。
 結果、アリエスの家で飼っていた美しい馬が二頭売られ、使用人の半分に他家への推薦状を書くことになった。領民への生活に大きく響かなかっただけまだ良かったのかもしれない。
 だからこそ今回、頭を下げた父の想いは理解できるし、無下にも出来ない。
 それにこれは姉弟の中で自分にしか果たせないことだ。レオに瓜二つの双子の姉、女学校を卒業し時間の出来たアリエスにしか。

「それほとんど身内でしょう?! ジェスさんも使用人だし、農場の人もアリエスだから優しいのよ! アリエスは本物の男を知らなさすぎだわ! 同年代の男なんて特に! 食うことしか考えてない恐ろしいケダモノよ!!」
「私も食べるの大好きだよ。それに人間にとって食べることは大切なことだよ」
「そういう意味じゃないっ!」
 では一体どんな意味だと言うのだろうか。ほとんどが山林か農地である小さな町と、大差ない隣町の女学校で育ってきたアリエスにはわからない。男性をよく知らないというのは本当だが、少なくともアリエスの知ってる人にノエリアの言うような恐ろしい者はいない。
 それにその表現は獣に失礼だ。獣だから恐ろしいとは限らない。人間と同じく可愛い獣もいれば優しい獣もいるだろう。現に、売られてしまった馬はとても人懐っこくて可愛かった。優しい眼差しが大好きだった。
 また、減ったとはいえ獣人がいるこの国ではその表現は誤解を招く。彼女に意図はないにしろ自分が獣や獣人だったら微妙な気持ちになる。
「そんなに心配しなくても平気だって。それに『学者くん』は身内じゃないけどとっても優しかった。瑠璃色の瞳が綺麗でね、植物の話になるとほっぺが少しだけ赤くなって……」
「はいはい。ほっぺが赤くなって可愛いんでしょ? と言うかまたそれ? そんな男いる訳ないじゃない。夢か幻か、美化されすぎたか、男でないかのどれかよ」
 ノエリアは呆れたようにそう言うとカップのお茶に口をつけた。夢か幻とばっさり言われアリエスはしゅんと項垂れてしまう。
「そうかなぁ……」
 八つの時に弟の療養の為、ひと月だけいた村で出会った「学者くん」。
 名前は知らない。教えて貰った気もするが、あだ名の方が印象が強くて忘れてしまった。
 漆黒の髪は先が少しだけ赤みがかっており、たしか何回かそれについて素直な感想を述べたと記憶している。
 大きな瑠璃色の瞳は大抵手元の本に集中していて、大好きな草や木の話をする時だけ真っ白な頬はほんの少し赤くなった。
「学者くん」と話すのは面白く、一緒に過ごす時間は心地よかった。

 ただあれから「学者くん」には会えてない。一年経って再び療養の為に訪れた時にはもう彼はそこに居なかった。村の誰に聞いても「学者くん」について詳しく語ってくれる人は居なかった。

 ノエリアの夢か幻でないかという言葉には困ってしまう。違うと言い切れないだけに戸惑う。
 彼は男の子でないどころか、人間でもなかった、森の妖精だった、そんな風にも思えてくるからだ。
「アリエス……私は貴方が心配なのよ。男装して学校に通うなんて、すぐばれるわ」
「大丈夫だよ。これでも小さい頃はレオとよく間違えられたし、どっちが男の子かわからないって言われたんだよ?」
「そんなのいつの話よ」
 ノエリアから再び大きなため息が吐かれた。カップの中のお茶はもう温かさをとっくに失っている。
 それは伯爵令嬢であるノエリアがわざわざアリエスを訪ねて来てくれると知り、父親が王都から取り寄せてくれた高級品だ。父の気遣いを思うと申し訳なさと不甲斐なさが混じって泣きたくなる。
「ごめんねノエリア。お茶入れ直すね」
「結構よ。私それより搾りたての牛乳が好きなの。それかヤギ。今度からそっちがいいわ。あとアリエスの笑った顔がもっと見たいから、さっさと面倒くさいこと終わらせて無事に帰って来てちょうだい」
 ノエリアはそう言うとアリエスの両頬を包む。親友の怒ったような顔は泣きそうだ。
「うん。ありが、うぐっ……」
 アリエスの素直な気持ちはノエリアが力一杯頬を挟んだことによって途切れた。親友の精一杯の照れ隠しについ笑ってしまう。
 同時に自分の顔が変形してレオになれなくなったら、と途中まで考えた。



 ※※※


「なぁ、そう思うよな?レオ?セレドニオなら出来るよな!」
「あ、うん。たぶん」
 大柄な金髪の少年に同意を求められ、アリエスは曖昧に微笑んだ。放課後、茜色の教室で、レオらしく、十七歳の少年に見えるように笑顔を貼り付けた。

 アリエスの実家から馬車で七日ほど離れた王都へやってきて三週間。男性が皆、恐ろしいわけではなないことは入学後すぐに確かめられた。
 穏やかな者もいれば気性の荒い者もいる。性格も容姿も喜怒哀楽の表し方も考え方も、みな違う。当たり前だ。
 しかしそれとアリエスが男性だけの会話の中で普通に話せるかということは全くの無関係だったようだ。返答に困ることはしばしばあった。全くわからない話題には適当な合図地を打つことしか出来なかった。
 このままではいつか自分が男でないと、レオではないと疑われる。三日でそれに気付いた。
 そこでアリエスはなるべく人と関わらないよう努めた。挨拶と最低限の付き合いだけで済ませる、逃げに徹しようと決める。
 しかしそんな器用なことは土台アリエスには不可能だった。

 話しかけられれば、相手の気の済むまで話を聞かなければならないと思ってしまう。困っている人がいればお節介だとは思いつつも放ってはおけない。遊びに誘われると嫌だとは言えないし、頼まれれば得意ではない力仕事でも断り切れず結局は請け負ってしまった。
 喜んでもらえて「良かった」と思う度に、利用されたとわかって「まあいいや」と思う度に、決意を新たにしたが効果は薄かった。二日、もたなかった。

 自分が世間知らずで、その上要領も悪い令嬢だったことに今になってようやく気付いたアリエスは、しかし何も手が打てずにいた。

 疲労は音もなく、しかし確実に、じわじわと溜まっていく。体力的なものではなく、精神的なものだ。

「なあレオ、お前は誰だと思う?」
「えっと……」

 遠くを見ていたアリエスへ、クラスメイトの少年が再び話しかけた。良く言えばフレンドリーな、悪く言えばやや横柄な態度の彼は、たしかジムだったと思う。制服のシャツがきついのか、首元のボタンをいつも二、三個開け、ネクタイはしていない。その割にズボンは踏みそうに長いので採寸を間違えたのだとアリエスは思っている。
 彼は放課後、一刻も早く寮にある自分の部屋に帰りたいアリエスを毎日引き留める。
 理由はジム本人が話してくれた。彼が言うにアリエスの顔には女の子を呼び寄せる魔法がかかっているらしい。一緒に居ると放課後の雑談が楽しくなる、と彼は言っていた。
 それについて完全に理解はできないが、一緒にいて誰かが楽しくなるならそれは喜ばしいことだ。それに何れこの場には本物のレオが立つことになる。弟の為に多少息苦しくても、良好な交友関係は今から築いておくべきだ。
「だから、このクラスの中で誰だと思うって聞いてるだろ?」
「あ……じゃあジム?」
 話を聞いていなかったとも言えず、アリエスは仕方なく適当に答えた。
 先程まで足の速さの話題だったから、的はずれな答えでないとは思う。ジムはたしか運動が得意だったはずだ。
 気付けば周りに女子生徒はもう居ない。居るのは数人の男子生徒のみ。どうやら彼女たちは帰ってしまったらしい。だとしたらもうアリエスは居なくても良いのではないだろうか。複数の男子に囲まれるのは慣れない。ものすごく帰りたい。
 しかしいきなり帰るのもどうなのだろう。失礼ではないだろうか。ジムがアリエスとも話したいのなら付き合うべきかもしれない。
「お前、気持ち悪いこと言うなよ。このクラスで誰が一番おっぱいでかいかって話だろ? 聞いてたのか?」
「え、ええ?!」
 アリエスの頬がみるみる真っ赤になる。対してジムは眉間にしわを寄せ、信じられないとばかりに顔をゆがめていた。
 そんなの聞いていても答えられるわけがない。適当に名前を上げるわけにもいかない。どうしろと言うのだ。
「俺はライカとマリーが一番だと思うんだよな。でかくね?」
「そうか? 俺は案外ミーアとか大きいと思うんだよな」
「ええー絶対フレイだろー」
 次々と同じクラスの女子生徒の名が挙がる。先程までこの場に居た者まで、容赦はない。とても上品とは言えない笑い方をするクラスメイト達に囲まれ、アリエスは泣きたくなった。
「なあ、レオはどうなんだよ?」
 ジムの太い腕がアリエスの肩に回される。悪気はないとわかっていても、背中に走る嫌悪感はどうしようもできなかった。幼い頃父親や叔父に抱っこされた感覚とも、子牛が無事に生まれ農場の皆と歓んで手を叩き抱き合った感覚とも全く違う。アリエスの頬はもうその色を青へと変えていた。
(うう……ジムに悪気はないんだ……ジムはあくまで友達と交友を深めたいだけ……フカメタイダケ……!)
「そろそろ下校時刻だよ」
 その時、教室の扉から呟くような声が聞こえた。落ち着きのある大人びた声だが、その印象は冬の朝のように澄んでいる。振り向くと呆れたような瑠璃色の瞳が眼鏡の奥からこちらを見ていた。
 黒曜石を思わせる澄んだ黒髪は先の方だけが赤みがかっている。透けるような白い肌とアリエスとさほど変わらない身長、シャツから出た細い手首は少年らしさには欠けていた。整った幼い顔立ちと相まって、彼は着るものを選べば少女と偽れるとアリエスは思う。長めの前髪と分厚い眼鏡では隠しきれない鋭い眼光さえなければの話ではあるが。
「ソル!」
 思わず少年の名を呼ぶと、彼はチラリとアリエスを見やり、すぐにその視線を床に戻した。
「なんだよ、ソルか。邪魔すんなよ」
 忌々しそうにソルを睨むジムの腕が緩む。ようやくアリエスは解放され、ほっと息をついた。
「悪かった」
 それだけ答えるとソルは教室の端、廊下側の机へと進んで行く。忘れ物でもしたらしい。
「なんだよあいつ」
「さあ?」
「あの僕、そろそろ帰るね。時間だし」
 首を捻り話題に戻ろうとしたジム達に、思い切ってアリエスは帰ることを告げた。ソルの言う通りもう午後四時半だ。ここが女学校だったら皆帰宅している時間である。
「あ、そう」
「じゃ、レオ」
 引き留められるかと不安だったが、杞憂だったようだ。アリエスの方へ視線を向けることなく彼らの片腕が一回だけ上がる。
 ソルは既に目的を果たしたのか教室を去ろうとしている。扉の近くの背中をアリエスは急いで追いかけた。
「ソル!」
 教室を出て廊下を進み、階段の途中でようやく追いつく。再び名前を呼ばれたソルはぴたりと動きを止めると、ゆっくりと振り向いた。
「何?」
「一緒に帰らない?」
「…………いいけど」
 アリエスの提案にソルは暫し逡巡し、一言だけ言葉を返す。その表情は先程ジムに話しかけた時とあまり変わりはない。ただほんの少し吃驚したように瞳が大きくなっただけだ。
 アリエスが隣に並ぶとソルもゆっくりとその歩みを進め始める。
「忘れ物取りに来たの?」
「うん……探し物」
「そっか。教室にあった?」
 その問いにソルは首を振る。視線は相変わらずアリエスの方へは向かない。前を見たままだ。
「そっか。なら僕も帰って一緒に探そうかな」
「クレト喜ぶと思う……」
 その言葉にようやくアリエスは失くしものをしたのがソルではなく、もう一人のルームメイト、クレトだとわかった。彼はややそそっかしい部分がある。ソルが失くしものとは珍しいと思ったが、クレトならば納得だ。
 階段降りて、長い渡り廊下を歩いた。突き当りを左に曲がればそろそろ男子寮の入口へ着く。
「あのさ、ソル……」
 アリエスは唇を開いた。そして確かめようと思った事を今日も飲み込む。視線を逸らすと男子寮の入り口の銅像と目が合った。生気のない目をした彼とのアイコンタクトは日課になりつつあった。
「……今日の夕食何だろうね」
「シチュー……じゃないかな」
 ようやくこちらを見てくれたソルの口角が、ほんの少しだけ上がって、瞳が僅かに細めらる。困ったように下がった眉を見て、アリエスは急激に恥ずかしくなった。
「あの、別に食べる事だけを楽しみにしてる訳ではないからね?! でもさ、ほら、美味しいから、学食! シチュー、シチュー美味しいし! クリームもブラウンもいいし、魚介とかお肉のとか野菜だけのとかも良いよね?!」
「そうだね」
 アリエスの口からいつもの三倍の速さで二倍の量の言葉が出る。全て言い終えてから、もっとまともな誤魔化し方はなかったのかとため息がでた。
(また確かめられなかった……でも確かめて、ソルが『学者くん』だとして……私はアリエスじゃない。それに覚えてくれてるかもわからない)
 寂しさを振りほどくように首を振る。アリエスがここに来たのはレオとしてしばらくの間生きる為だ。目的を忘れてはいけない。それに再び彼に会えた。今はそれだけで十分だ。
 ソルの瞳はもうこちらを捉えてはいない。ただただ真っ直ぐにその瑠璃色は前を射抜いていた。
(もう少しお話できたらなぁ……っていうのはわがままだよね。それは私が努力しなきゃいけないことだし)
 胃に響くような重低音が鳴る。きっかり五回鳴り終えた時には、アリエスとソルは東寮のさらに東の端、八号室に足を踏み入れていた。