missing tragedy

今日も君とご飯が食べたい

乾燥きのこのあったかポテトスープ 前編

   柔らかな日差しが青々とした若葉と濃い鶯色の髪を照らす。

 爽やかな風が少女の汗ばむ額を撫で、薄桃色の花畑へと吹き込んでいった。季節は初夏。甘い香りが山間の村を包んでいる。

「よいしょ、っと!」

 少女が掛け声よりもずっと易々と大きな樽を持ち上げると、下から小さな蛇が飛び出した。

「ギュッ、ギュアッ! キュッキューッ」
「あっ、待っ! 怪我……」

 おおよそ姿からは想像できない声が響き、声の主は即座に消える。平たく潰れたつるバラをよけ、フィーネは元の位置から少しだけずらして樽を戻した。

(あの子大丈夫かな……?)

 軽やかな歌声で有名な鳥の羽色――モスグリーンの髪を持つ少女の名はフィーネ・クライン。ここ魔法王国ヒュームの東端、トリアータ地方のピゴスで生まれ育ち、女学校を卒業したばかりの十七歳だ。現在は遠方で仕入れに専念する父に代わって、小さな草店を営んでいる。

 大きな黄金色の瞳とふっくらした唇、きめの細かい肌は、見る者の瞳も心も奪うと噂される彼女の兄とそっくりだ。

 しかし如何せん、艶やかなモスグリーンの髪を纏める紅のリボン以外、彼女を着飾るものは一切無い。体型を隠すほどの大きさのシャツは簡素な生成り。足首までの野暮ったいスカートはくすんだ茶と、年頃の少女が履くにしては些か華やかさに欠けている。
 併せて同年代の少女よりも頭ひとつ大きい高身長は、彼女の第一印象を「大きい」に限定させるには十分であった。

「ああ、いたいた! フィーネちゃん! こっちこっち」
「あっ、はい!」

 フィーネは慌てて答えると、呼ばれた方へと駆けていく。腕にかけていた最後の布袋を玄関へと置くと、ふわりと薬草の香りが鼻腔へ届いた。

「ありがとね。花祭りの準備で忙しいのに薬草の他に染料とか、いろいろ運ばせちゃって。本当にごめんねぇ。でも助かったわ!」
「いえいえ! それよりわざわざ門の外まですみませんでした」
 フィーネはそう告げるとぺこりと頭を下げた。

 西側の一部を除いては山間部が多くを占める影響か、ヒュームの料理には薬草が多く使われる。その為野菜や肉、魚と同じような感覚で商店街には薬草店が並ぶのが一般的だ。フィーネの家も五代前からこの小さな村で食用専用の薬草店を営んできた。

 しかし人口流出や高齢化、若年層に広まる調理の簡略化などで年々顧客数は減少している。
 こうして薬草の配達を始めたのも、父母が大事にしていた店を長く守りたいと思ったからだ。大型百貨店やスーパーと並んで生き残るには、差別化や付加価値なしでは難しいと判断したのだ。

 荷物を届けた染物師のカノンもお得意様の一人である。彼女とはフィーネが物心つく前からの付き合いで、おしめを替えて貰った事もあるらしい。

「また良かったら持ってきますね。カノンさん」
「ありがとう。このお腹もあと少しだけどねぇ」

 カノンは大袈裟に肩をすくめながら笑うと、自らの大きなお腹をさすった。
 当初はお節介かと迷ったが、思いの外喜んで貰えたようである。来年の花祭りの頃には、きっと可愛い女の子が隣を歩いているのだろう。微笑ましい光景を想像し、フィーネは頬を緩ませた。

「へへへ」
「どうしたの?」
「あっ、うわ、いや何でも無いです!」

 うっかり漏れ出た不気味な笑い声に、フィーネは顔を真っ赤にさせる。

 すぐに感情が表情や声に出る癖はフィーネの欠点の一つである。ともすると一人で笑っている危ない人間に見えかねないこの悪癖。悲しいかな、気をつけていてもなかなか直ることがない。
 幼い頃はまだ良かったが、フィーネもあと少しで十八だ。変わった仕草も愛らしい、で済む年齢はとうに越している。最近は五つ上の優しい兄からも『このままでは嫁のもらい手が現れないだろう……』などと大きな溜め息を吐かせてしまっている。

「? まあいいわ。これからどこかへ一人で? 噂だと隣町で『影憑き』が出たらしいじゃない? その――可哀想だとは思うんだけれど、気をつけてね。どこに神様が残られているかわからないもの」
「あの……それって神様が降りるっていう? 神継者(かみつぐもの)……『神継ぎ』の方の事ですか?」
「そうそう。『神継ぎ』のこと。ごめんねぇ。古い人間で。今は『影付き』って言っちゃいけないんだったわね」

 カノンは苦笑いを浮かべると肩を竦める。フィーネは肯定も否定もせずに、ただ曖昧に微笑み返した。

 『神継者』とは特殊な体と鉱石、そして独自の能力を持つ者たちの総称名称だ。その起源は古く、『神が憑く者』或いは『神の能力を継ぐ者』として、三千年ほど前の文献にも活躍を記されている。

 現在、先天型が巨人族、獣人族、精霊族、人間等と同じように種族として存在し、定義が確立されているのに対して、後天型の定義や扱いは地域差が非情に大きい。

 特にヒュームでは後天型の評判は決して良いと言えない。それらは三百年あまり前、戦後の動乱期に後天型神継者が起こした凶悪事件に起因する。

 先天的に神の恩恵を受けた者は特別だが、後天的に神の恩恵を受けた者はその重圧に耐えられず力を誤って使ってしまう、力を継がせた神が試練の名のもとに大きな厄災を置き土産にする事がある、聖典に載る逸話や堕落した人間の描写とも特徴が重なる――凶悪な犯人への恐怖から多くの者はそんな様々な噂に縋ったのだ。

 近年の研究では先天型後転型問わず『神継者』である事と犯罪や問題行動には因果関係は全く認められないとの結果が出ている。また後転型神継者が現れた土地と以後の事件や事故の発生率と因果関係が無い事も、聖典の解釈とは異なる事も教会から正式に発表されている。

 未だ謎は多いが、鉱石や能力が綺麗さっぱり消えてしまう者もいる事から、突然変異による体質変化の一環だろうとの見方が濃厚だ。

 一方で国内一部地域での根拠の無い噂や偏見は根強く、後天的に『神継者』と診断された者の多くは地元を離れてしまう。国外に出る者もいれば、新天地では『先天型』だと名乗る者もいるらしい。

 『影憑き』という言葉はヒュームにのみ残る、忌まわしき事件から生まれてしまった差別用語、畏怖と未知なるものへの恐怖が残したものなのだ。

「気をつけてね! 神継ぎには凶暴な輩もいるし、近くに神様がまだ残られてるかもしれないわ。|魔物《ノラ》も不審者もいるからね! 一人で夜道を歩くのは辞めるのよ!」
「ありがとうございます。何かあったら、この拳で身を守ります」

 フィーネは苦笑いすると、わざと両手を前に出し相手を殴るような素振りを見せた。

(お兄ちゃんの友達も神継ぎになって、隣の国に行っちゃったなぁ。別れ際、あのお兄ちゃんが泣いてた……。最近は偏見が無くなってきたと思ってたけど……またみんな仲良く幸せに暮らせる日が来ると良いなぁ)

 甘い花の香りに、民家からの香ばしい小麦の焼ける匂いが混じる。遠くからは子供たちの笑い声が聞こえ、広大な畑では前掛けをした女性たちが薄桃色の花を摘みながら談笑していた。

 彼が幸せに暮らしていると良い。フィーネは祈るように平和な村の風景を眺め、息を吐いた。

 ポケットからメモを取り出し、午後の配達の残数を確認する。配達はあと二件。一時間半もあれば店に帰れるだろう。

「よーし。頑張るぞ!」
 大きくのびをして、フィーネは来た道を戻る。

 いつかもう一度。兄の友人と兄とで、美しい花畑と収穫と香りを祝う楽しい時間を過ごして欲しい。
 その時に自分の調合したお茶を飲んで貰えたら。

「へへへ……っ! いけない!」

 口元に手を当て、零れ出た不気味な笑いを慌てて抑えて。フィーネは再び赤くなる。周りには――薄暗い森と畑、珍しい青い花。幸運にも誰もいない。

「良かった……」

 ほっと胸を撫で下ろし、フィーネは火照る頬のまま歩みを再開させた。




 長身のフィーネの背を、カノンは窓から不安そうに見ていた。

「フィーネちゃん大丈夫かしら? いくら村一番の力持ちって言ってもねぇ。心配だわ」

 彼女に届けて貰った品を見る。薬草200グラムに染料となる草の実5キログラム。ほくほく豚の塩漬けが3キロにホロホロ鳥を一羽分。人参、ごろごろ芋、ボウボウ菜がそれぞれ5キロ。その他にも布袋六袋が玄関前に並ぶ。

「……頼みすぎたかしら? まあいっか。この子が生まれたらフィーネには旦那と一緒にお礼をしないと」

 フィーネ・クラインの第一印象は、多くの場合「大きい」に限られる。
 しかし彼女と少しでも関わった者は口を揃えて彼女の印象をこう言う。村長の言葉を借りれば『大きいと言ってもそれほどだよ。それよりもあの力。まさに神からの授かり物じゃ』と。

 そしてまた、フィーネは知らない。

 もう一つの村人共通の印象と、兄の言葉の真意を。

 「……ううん。やっぱり旦那はいない方が良いわね」

 とある個性的な人物を思い浮かべて。カノンは一人、嘆息した。


🍴🍴🍴


 
「ただい……んんっ、お邪魔します!」

 うっかり間違えてしまった台詞を咳払いで誤魔化して、フィーネは隙間風と共に友人の家の扉を閉めた。

 週に一度、多い時は毎日のように兄妹が世話になっている友人の家はこぢんまりとした一戸建てだ。温もりを感じる木目調の内装に、落ち着いた色合いの玄関マットとカーテン。品の良い小さな壁掛け時計。玄関脇にはどこかの地方のお土産であろう、可愛いがどこか不思議な置物が並ぶ。

 入ってすぐに食欲をそそるニンニクとバター、次いで燻製の香りが鼻に届いた。思わずよだれが出そうになるのを我慢して、右折し手洗いうがい。フィーネはそのまま迷い無く奥の居間へと進む。

「あ、フィーネ……っ!」
 フィーネの帰宅に、家主はパッと振り返るとその頬を緩ませた。

 彼の名はカイ・ハース。柔らかなココアブラウンの髪にキャラメル色の大きな瞳、随時下がっている太眉が印象的なフィーネの友人だ。細身の体にフィーネよりも頭ひとつ小さい背丈、童顔も相まってか、大抵は実年齢よりも相当若く見られてしまう。本人が強く否定しない事もあり、フィーネと同じ十七歳だと知らない村人も多い。

「ごめんね、遅くなって。お邪魔します」
「いえいえ。どうぞ」

 ぺこりと頭を下げるフィーネに、カイもまた両手を揃え会釈する。近所のよしみで友人となってから早十余年。フィーネは実家の手伝いを、カイは実家の近くに家を借り料理人見習いとして、互いに職を持った今も交流は続いていた。

「外寒くなかった? 休んでても大丈夫だよ」
「ううん、平気! 手伝うよ! あ、あとお兄ちゃんだけど少し遅くなるみたい。ごめんね」
「大丈夫。さっきシリウス君から電話があったんだ。研究が詰まってるって……大丈夫かなぁ」
 カイの言葉にフィーネは僅かに顔を曇らせる。元来の性質か、拘束時間が研究に左右されてしまう仕事柄か、シリウスは以前から仕事中毒(ワーカーホリック)気味だ。数ヶ月前からは実家の薬草店との兼業研究者になったものの、そんな事情を研究経過が考慮してくれるとは思えない。

「大丈夫……だと思う。お兄ちゃんなら」
 一抹の不安を残しながらも、過去の兄を思い出してフィーネは言い切った。

 忙しい、食べる暇も無いと言いながらもシリウスはそつなく仕事をこなし、約束の日には必ず食べ始めるまでには帰宅している。休日出勤になることはあっても、日付を過ぎて帰宅したことも今のところは無い。兄ならばきっと今日も、疲労を口にしながらもカイとの食事に間に合わせるはず。

「そうだね。シリウス君なら」
 納得したように頷き、微苦笑するカイにフィーネも自ずと同じ笑みが零れる。

 背が高く神経質で生真面目なシリウスと、小柄で穏やかな性格のカイ。彼らに共通するものは少ないが、かえってそれが良いのだろう。

「……ところでそれ、今日のご飯?」

 挨拶や待ち人の話はひとまずに、フィーネは抗いきれない魅惑的な香りのもとを指さした。
 カイの後ろ、コンロの上――手鍋の中ではきつね色のニンニクとじゅわりと油の染み出た厚めのベーコンが跳ねている。胃袋を刺激する魅惑的な香りはまず間違いなくこの手鍋からであろう。飛び出かけた催促の二の句をよだれと一緒に飲み込んで、フィーネはそわそわした様子で覗き込む。

「うん。まだ夜は寒いから、温かい乾燥きのこのスープでも作ろうかなって……っ、大丈夫だよ。今回はたくさん作るから」

 言いながらカイは顔を背け口元を覆う。必死に笑いを堪えているのだろうが、不自然な間と小刻みに揺れる肩が隠しきれていない。
 しかも最後の台詞もおそらく、前回のフィーネのうっかり発言を覚えていての気遣いだろう。

 長い付き合いだ。食い意地が張っていることも、大食漢なことも今更恥ずかしいとは思わないけれども。同時にその言葉に揶揄する意図が全くないと言うこともわかるので、尚のことフィーネは羞恥を感じてしまう。

(ううう……あの時は、美味しくてつい『まだ残ってないよね?』なんて聞いちゃったけど……! 違うって言うか、食いしん坊なのは認めるけれど、そこまでカイにして貰おうとは決して思ってないと言うか……! あああ私の馬鹿。さっきの言葉も考えたら図々しすぎるよ!)

 二の句が継げぬまま悶えるフィーネに気付いたのか。カイは慌てて顔を上げると身振り手振りを加えて付け足す。

「別に悪い意味で笑ったんじゃ無いよ……! 『美味しい』って言って貰えて、沢山食べて貰える事は料理人として素直に嬉しかった」
「カイくん……」
「いつもありがとう。フィーネちゃん」

 カイの眉がハの字に下がり、キャラメル色の大きな瞳が細まる。嬉しいような、くすぐったいような。胸に広がる心地良いそれに、フィーネの自然と微笑んでいた。

「私こそいつも……っああ! 鍋、鍋‼」
「うわあっ……」

 二人が友情と信頼を育む間も、空気を読まないニンニクとベーコンはどんどん焦げていく。すんでの所でカイが火を止め、
「……っぶなかった……!」
 二人は安堵の息を吐いた。

「邪魔しちゃってごめんなさい」
「いいよ、いいよ! 僕がぼーっとしてたんだし、ちょっと焦げたけど、香ばしくて良いかも? それよりお皿とか今のうちに出しといて貰える?」
「わかった」

 再び眉をハの字にさせて微笑むカイに、フィーネもまた同じ表情を返す。

 非常に香ばしくなったベーコンたちはカイに任せて。フィーネは食器棚から深めの皿を出し、ランチョマットとスプーン、フォークを三つずつ並べていく事にした。

 真剣な表情の友人をフィーネはそっと見つめる。
 学生時代から今日まで、良かったら料理の試食をと度々呼ばれご馳走になってはいる。が、食い意地が張っているだけのフィーネと几帳面で『自分で考えろ』が口癖のシリウスだ。アドバイスなど口実で、友人達を喜ばせたいという好意からだという事は鈍感な兄妹も気付いている。
 美味しい料理だけではない。カイの笑顔に、言葉に、フィーネもシリウスも幾度も救われ元気を貰ってきた。

 少しずつでも良いので感謝の気持ちを返したい。いつかフィーネにとってカイがそうであるように。誇れるような友人になりたいとフィーネは日々考えている。

「フィーネ……っ、良かったらそこにある皮を洗って、この鍋に水と一緒に入れてくれる?」
「うん? これ?」
「うん」

 示された先にはスープに使ったであろう野菜の皮や軸がまとめられていた。玉葱、ニンニク、ごろごろ芋にセロリ芋の皮。フィーネの店でも扱っているアネットやマジョラム、野良にんじんの切れ端もある。

「ベジタブルブロスも作るの?」
「うん。ついでに作っておけば保つから」

 ブロスとは簡単に言うと出汁の事だ。ベジタブルブロスは複数の野菜から、チキンブロスやビーフブロス、フィッシュブロスは骨や余った身を加えて作る。
 基本は水と酒を入れて弱火で煮込むだけ。炒めてから煮込んだり、ハーブを加えても良い。食べられない部分を利用した出汁は料理の世界をより深いものにする。

「セロリ芋の葉が混じっていたらそれは避けてくれる?」
「はーい」

 セロリ芋の葉は苦みが強く、食べることは滅多にしない。出汁を取る時も渋みが出るため、取り除くのが一般的だ。
 隣りのカイの手元では行く末が不安だったベーコンとニンニクに玉葱が加わり、見事に息を吹き返していた。甘い玉葱の香りに野菜を選別する手もおのずと緩慢になる。

(うわぁ! もうこれだけで美味しそう……!)

 コンロの上の手鍋には新たにセロリ芋と黄金かぶ、あけぼのかぶが加えられる。弱火にし、軽く炒めるのは根菜類に全て火を通さないため。些細な火加減ひとつで食べ応えのある食感をより楽しめるようになる。
 根菜類の周りが少し半透明になったら、炒めた小麦粉を入れ軽く混ぜる。淡い色彩からは想像できないほど豊かな香りだ。

「へへへ。良い匂いだね。美味しそうだね」
「だね。ところで今日はビーフブロスにしようと思うんだけど、どう?」
「わあ……! 良いね! 冷蔵庫開けるよ?」
 カイが頷くのを確認し、フィーネは後ろの冷蔵庫を開ける。中段と上段に目的のものを見つけ、大小二つの器を手渡した。

 共に中の液体は飴色や濃い琥珀色。大きい方の器には乳白色の油脂が見える。こちらが件のビーフブロス。牛肉や牛骨から取ったどっしりとした味わいの出汁だ。そしてもう片方は乾燥きのこを水で戻したもの。乾物特有の独特の芳香が鼻に届く。

「いよいよだね!」
「はは、もうちょっとね」
 瞳を輝かせて鍋を覗き込むフィーネにカイも釣られて笑う。

 かき混ぜながらブロスを加え、乾燥きのこも汁ごと注ぐ。マジョラム、キャラウェイシード、月桂樹の葉、塩コショウを加えてひと煮立ちさせ、一口大に切ったごろごろ芋を加えたらあと少し。

 コクのあるビーフブロスに乾物の深い香り、甘くスパイシーなマジョラムとキャラウェイの香りが絡む。生クリームを入れ少しだけ温め、器に盛ったら完成だ。

「美味そうだな」

 その時。聞き慣れた心地よい低音が二人の耳に届いた。
「お兄ちゃん!」
「シリウス君!」
「ああ、ただい……んんッ、邪魔したな」

 言いかけた言葉を濁すように咳払いをすると、シリウスはちょうど二人の間に割って入るように身を寄せる。

 彼の背は悠に百八十センチを超えている。手足は長く、引き締まった体には程よい筋肉。切れ長の瞳は妹と同じ黄金色だが、薄い唇と形の良い鼻梁は、抜けるような白い肌に神の采配とも言えるような絶妙なバランスで配置されていた。
 同じ長身でも印象はフィーネのそれと大分違う。

 唇を真一文字に引き結び、切れ長の瞳を更に鋭くさせ、眉間に深いシワを刻もうとも。くたびれきった白衣に身を包み、ぶっきらぼうに年下の幼馴染みを見下ろそうとも。短く切られた黒髪に朝と同じ寝癖が残っていようとも。彼にかかっては全てが『美』を表す素晴らしい演出に見えてきてしまう。

 男神のような精悍さと女神のような気高き美しさを併せ持った類まれなる容姿に、優秀な成績から異例の人事で国立研究室に勤務となった男シリウス・クライン。

 彼は自慢の兄であり、時に凡人のフィーネにはついていけない思考をする優秀な家族だった。

「遅くなって悪かった、カイ」
「おかえりなさい。シリウス君」

 言葉とは裏腹な剣呑な眼差しに、カイは太眉を下げて微笑み返す。邪気の全く無い反応に、シリウスの眉間の皺が緩まった。
「……ああ」
 僅かに上がる口角に果たしてカイは気付いているだろうか。長年の付き合いとは言え、兄の強面に後でフォローを入れるべきかフィーネは未だに悩んでしまう。

「良かったね、フィーネ。間に合って」
 そんな思いを知ってか知らずか、フィーネの耳の下をほっとするような柔らかな声が擽った。
 慌てて声の主を見れば、既に兄の仕事の愚痴を聞いている。視線だけはフィーネをとらえ、心配ないとでも言うようにキャラメル色の瞳が細まった。

(カイ……)

 嬉しいような、申し訳ないような、そわそわするような。自然とフィーネの頬も緩む。

 細工時計が夕食時を告げる。丸いテーブルを囲み、三人は各々の席へと着いた。

 今晩はスープの他にハーブ入りパン、焼いたソーセージにアスパラが並ぶ。

「いただきます」

 民を守る神様に祈りを捧げて。三人はスプーンを握った。

 まずは優しい琥珀色のスープをひとすくい。ふわりと鼻に届くのはマジョラムとキャラウェイの香りだろう。懐かしいような温かな香りの中に食欲を刺激するスパイシーさが垣間見える。
 口に入れれば生クリームに溶けた牛肉と野菜のうま味、併せて芳醇で深い乾燥きのこの香りが広がった。

「っ、~~!!」

 緩む頬と次のひとすくいを求める手は止められない。

 クリーミーなスープが染み込んだごろごろ芋とセロリ芋のぽっくりとした食感は、ほっとするような味がする。
 噛まずともじゅわりとスープが染み出る黄金カブと、すっと刃が通るような快感を思わせる食感のあけぼのかぶ。異なる二種のかぶの甲乙は、この国の人を時に二分するらしい。

 約束のアドバイスもカイへの感謝の言葉もすっかり忘れて、フィーネは口いっぱいにスープを頬張る。カイの言葉の通り、初夏といえども夜はまだ冷える。温かなスープは体に染みこんでいくようだった。

 ハーブ入りパンをちぎり、香ばしく焼けたソーセージと春先の柔らかなアスパラを咀嚼。再びスープに手をかけようとした時。ようやくフィーネはカイの視線に気付いた。

(あっ……私つい夢中になってガツガツと!)

 母が幼子を見守るような優しい視線と口元に浮かぶ微笑。それらは更なる羞恥を呼ぶ。スープ皿を空にする前だったのがせめてもの救いか。フィーネはコホンとわざとらしく咳払いをすると、にこにこと笑顔で見守るカイへの言葉を探した。

「あー……うん、その…………美味しい。その、マジョラムとかきのこが良い匂いで……美味しい……」

 料理への感動とは裏腹に、口から頼りなく漏れる語彙は乏しいものだ。

「良かった」

 はにかむカイにフィーネは眉を下げる。隣のシリウスはと言えば、フィーネを写したように次々と料理を口に運んでいた。
 この妹にしてこの兄あり。否、この兄にしてこの妹ありか。フィーネもシリウスも『いただきます』を発車合図に、停車駅を軽く通り越す勢いで夢中で食べてしまったようだ。
(なにか、なにかカイの手助けになることを……!)

「……美味いな」
「ありがとう。シリウス君」
「あ、う、ごめんね。兄妹揃って。その美味しい以外の言葉がすぐには……」
「良いって。美味しいかどうかは大事だよ」
「そうだ。最終的には美味いか、それ程でも無いか。楽しいか、楽しくないか。至って単純な話だ」

 何処吹く風か。淡々と兄は身も蓋もない話をする。なのに何故だろう。美しい兄が堂々と言葉を発すると、あたかも霊験あらたかな天啓のように感じてしまう。しかもカイ本人はさもありなんと言わんばかりに頷き、尊敬の眼差しでシリウスを仰いでいるのだ。

(うう……私もだけど、お兄ちゃんの言い方も随分じゃない?)
 フィーネは自身の行動を棚に上げ、兄と人の良い幼馴染みをねめつけた。

 しかしそんな不満は長く胸には留まらず。無表情な兄の口元に浮かぶ微笑と幼馴染みの下がり眉を見て、雪のように溶けてしまった。
(まあいっか。カイも喜んでくれているし、お兄ちゃんも嬉しそう)

 感想は後で伝えれば良い。美味しい食事に、にこにこと嬉しそうな幼馴染み。満更でもない様子の兄。満たされていくお腹と胸に、シリウスへの不満が入る余地はとっくに無くなっていた。

「へへへ……」
「フィーネ、お代わりいる?」
「うん! でも大丈夫、自分でよそってくるよ」
「別に好きに呼べばいいだろう……俺の分はあるか?」
「もちろん」

 フィーネに続いてシリウスも席を立ち、台所へとお代わりに向かう。
 嬉々として台所へと向かう二人にカイは更に笑みを深めた。

「それよりカイ、明日からリィンに行くと聞いたが」

 ふと、台所から戻ったシリウスの顔が曇った。平静を装いつつも、明らかにしょんぼりとした様子にフィーネは噴き出しそうになってしまう。

「ああ、うん。仕入れに。料理長が勉強になるからって手配してくれて」
 リィンとはフィーネたちの住むピゴスから西に50キロ程離れた地方都市である。ヒュームの中心よりやや東、宿場町として栄えた歴史を持つ小都市だ。大型百貨店、首都や他地方都市へ繋がる鉄道駅、映画館、ホテル、国立大学、魔術院分院等々。様々なものが揃っており、港町や首都への定期便もほぼ毎日出ている。
 リィンから先、首都へと続く広大なリィノスト平野で取れる農産物をはじめ、西部海岸周辺で採れる魚介類、首都で流行する品々などが豊富に揃うため、食材や日用品、洋服などを求めて遊びに行く者も多い。

 当然、カイのような料理人や支配人が仕事としてリィンへ出向かうことも珍しくなかった。

「そうか……その、帰りはいつ頃になるんだ?」
「十四日、明後日の夕方には。シリウス君の好きなマ・レーヌのケーキも買ってくるね」
「本当か!  是非四つ頼む! そう言えば期間限定のフレッシュベリーチョコタル……いや、手間になるならば良いんだ、お前が無事に帰って来れれば良い。暗くなると危ないからな、うむ」
「買ってくるね。なるべく早くも帰ってくるよ」

 まるで祖母や母のように微笑むカイにフィーネは頭が上がらない。

 それにしても。カイはシリウスに甘過ぎる。それこそ期間限定フレッシュベリーチョコタルトよりも数倍甘いのではないだろうか。

「いつもごめんね。とりあえず五千グルで足りそう?」
「えっ、良いって! お土産だし……」
「そうやって! お兄ちゃんとか皆にお土産ばっか買ってると破産しちゃうよ!」
「あぁ……うん、なら千グルだけ預かろうかな」

 カイは太眉を八の字にさせ、遠慮がちな数字を示す。兄妹揃って散々甘えておいて言える立場ではないが、彼はいつか悪い人間に騙されてしまうのではないだろうか。そんな不安が胸を過ぎる。フィーネ達だけでなく、皆に優しく面倒見が良いのは彼の美点だとは思うけれども。

「カイ! 本当に、ほんとうに気をつけてね……!」
「フレッシュベリーチョコタルト、だ。覚えにくいだろうが」
「うん。気を付けるよ。フレッシュベリーチョコタルトも、ね」
 各々眉間にシワを寄せる兄妹に、カイはふにゃりと頬を緩ます。

 今日も今日とて、微妙に噛み合っていないような、意外と噛み合っているような。不思議な会話はきっと温かな食卓と優しい幼馴染みのお陰で成り立っている。

「ところで今日はチーズケーキと聞いていたのだが……」
「うん、先輩に美味しいクリームチーズを貰ったから。ちょっと待ってて」
「へへへ、カイのチーズケーキ美味しいんだよね」
 カイとフィーネはほぼ同時に席を立ち、足取り軽く台所へと向かう。

 台所の窓は白く曇り、無数の雫の跡が朧気に見えた。

(寒いと思ったら雨かぁ。この時期は天気が変わりやすいなぁ……。折り畳みの傘あったかな……?)

「ところでカイ、明後日の夜は空いているか?」
「空いてるけど……?」
「話がある」

 カイの手元、好物のチーズケーキに視線を留めたまま。

「妻を紹介したい」

「「え……」」

 息を飲むフィーネとカイをよそに、シリウスはチーズケーキを口いっぱいに頬張った。