missing tragedy

『最後の女優』 

 武田貫
   



 スクリーンの中の黒髪の美しい少女は微笑む。
 まっすぐな瞳に後悔は見えない。しかし嘲笑めいた口元と、まっすぐだが何者をも捕らえていない瞳は、これから行う事への恐怖を見る者に生々しく伝えていた。
 儚さと気高さを纏った彼女は目を瞑る。
 彼女は桜の中に吸い込まれるように画面から消えた。
 彼女の神々しいまでに美しい姿は映画の題名と重なり。日本中を虜にしたという。

 この闇に溶けるように、消えてしまえないだろうか。この空に無数に舞う桃色の花弁のように、どこかへ散っていくことはできないだろうか。
 そんな詩人気取りの戯れ言が浮かんで。俺は独り苦笑した。
 見上げたら見えるだろう夜空は、無限に広がっていた。足元の先にも、俺を迎える為の無機質なコンクリートが広がっている。
 終わりの見えないそれと、終わりしか見えないそれは対照的で、ひどく滑稽だ。
 決して踏み出してはいけない、そんな風に教わった。
 出した答えは正しくなんかないだろう。恐ろしく馬鹿で、愚かで、くだらない。
 それでも今の俺には、この『答え』しか結局出せなかった。足掻くことも、もがくことも、抗うことも、出来なかったわけではない。
 ただ、しなかった。
 だって、どうせ無駄だ。足掻いたって、もがいたって、抗ったって、その先に何かがあるとは思えない。
 可笑しくて、ばかばかしくて。スクリーンの中の彼女とまではいかないまでも、同じように死ねば最後に笑えるんじゃないかなんて。幼い頃、自分が憧れた姿に重ねて死にたいと最後に思った。
 頬を伝う冷たさに、変わらない虚しさに、瞳を閉じる。

『ここは私と貴方と、桜だけ。最後に美しい世界を見られて、悔いなんて無いわ』
 とある映画のワンシーン。真っ暗なそこへ吸い込まれていく途中で。名女優の台詞が頭を過った。



 住み慣れた都心から三時間かけて着いた先は、懐かしい潮の匂いがした。
 九歳まで住んでいたその街は、最後に見たその時から姿をほとんど変えていない。二時間半に一本のバスを寂しげに待つすすけた看板も、「商店街大通り」とはおおよそ呼べるか謎に満ちた駅前も、干された網とそのすぐ傍でくつろぐように浮かぶ漁船たちも。
「ここは変わってないんだな」
 変化のないこの街に、安堵と僅かな羨望を感じながら、十七になった俺は目的の場所に向かう。
 三か月の入院生活時の記憶は殆どない。ただ覚えているのは、両親に言った我儘だけだ。
『じいちゃんとばあちゃんの所に行きたい』
 その願いを、彼らは何も言わずに叶えてくれた。その時の父さんの表情と母さんの瞳を俺は見ていない。しかし今となっては、それがどうだったとしても関係のないことのようにも思える。
 大通りを真っ直ぐ進み、一本目の信号で右に曲がる。三百メートルも坂を登れば太平洋を眺めることができるそこに着く。じいちゃんとばあちゃんとは三時に落ち合う約束だ。
 腕時計は既に二時五十五分を指している。少し急がなければならない。
「あの、すみません、三〇一号室の、家族のもの、なんですけど」
 炎天下の三百メートル徒競走を終えるべく、俺は自動ドアに滑り込んだ。息は切れ、下を向けば眼鏡に額からの雫が落ちる。八月の暑さを差し引いても、以前より体力が落ちていることは認めざるを得ない。
「坂本さんのご家族の方ですね。突き当たりにエレベーターがあります。三階で降りて左に曲がって、一番奥の部屋ですからすぐわかると思いますよ」
 四十代前後の女性はにこやかに答えると、汗だくの俺に「無料のウォーターサーバーも同じ階にありますから」と付け足してくれた。
 若干の恥ずかしさを覚えながら、俺はお礼を告げてエレベーターに乗り込む。ガラス張りのそこからは大海原が見えた。
 光を反射して煌めく青と、どこまでも澄んだ青が柔らかな白で結ばれる。眩しい外の世界に俺は目を眇めた。分厚いガラスの向こうはいつも眩しい。
 目的の階に着いたことを知らせる電子音が鳴って、ようやく俺はそれから目を離せた。急いでエレベーターを出て言われた通り左に曲がる。
「じいちゃん、ごめん。待ったよね?」
「たりめえだ、くそ孫め」
 スライド式の扉を開けた先に浅黒く日焼けした懐かしい笑顔が見えた。
 顔をしわくちゃにしてにっかと笑うじいちゃんは、この街と同じく変わっていない。左に首を傾げて話す癖も、きらきら光る瞳も、目じりに入る深い笑い皴も。
 その笑い顔に、心のすぐそばを懐かしさと罪悪感が横切っていった気がしたけれど、俺はわざと見ないふりをする。
「ばあちゃん、ただいま」
 ただ一つ、変わってしまったベッドの上の人物に俺は声をかけた。
 波の音が聞こえるこの病室で、ばあちゃんは眠っていた。意識はとうにない。ただ機械で、俺とは違う形で、この世に繋ぎとめられているようだ。
 それでもその顔には微笑みが浮かんでいる。穏やかに、まるで昼寝を楽しんでいるかのようにばあちゃんは眠っていた。
「俺は仕事がある、しばらくここにいてもいいし帰っていてもいいからな。夜飯の時にでも話そう。まあ今は彩子に都会の話でもしたらどうだ」
「うん」
 俺はこくりと頷くと丸椅子に座り、部屋から去るじいちゃんを見送った。
 上下するばあちゃんの身体は生きてる事を証明しているはずなのに、そこに懐かしい声はなくて。柄にもなく目頭が熱くなる。
 会ったら、沢山のことを報告するつもりだった。沢山のことを謝るつもりだった。それなのに、俺は意気地がないのだろう。一つも言葉にすることができない。
 結局、俺は何一つ成長していない。
「ねぇ、あなた。今夜時間ある?」
 不意に後ろから聞こえてきた声に、こぼれ落ちそうになっていた涙が止まった。
 振り返れば俺と同い年位だろうか、年の頃十六、七歳の黒髪の少女が俺のすぐ後ろに立っていた。窓からの潮風に腰まである髪をたなびかせながら、柔らかく微笑んでいる。零れるような大きな瞳に上気した頬、ピンク色のふっくらとした唇。どこからどう見てもこの田舎にそぐわない美少女だ。
「きみ、私聞いてるのよ。今夜時間あるの? ないの? はっきりしてよ」
 ちょっと怒ったように少女は言うと、どこからが持ってきた椅子を隣にドン、と置いた。そしてどっかりとその上に座り、再び大きな瞳に俺を写しこむ。
「付き合ってほしいところがあるのよ。どうしても行きたいの。友達と」
 友達、という言葉に胸の奥がずくりと痛む。余計な記憶が溢れ出す前に俺は口を開いた。
「俺は君の友達じゃない」
「あら? なら今から友達ね。私は優子。あなたは?」
「俺? 俺は……」
 そこまで言って、言い止まる。流されるように自己紹介をしかけてしまったが、初対面の、しかもどこの誰かもわからない人間に名前を告げるのは危険ではないだろうか。
「坂本だけど」
 結局、俺は名字だけ正直に言うことにした。ネームプレートでばあちゃんの名前はわかっているのだ。だとしたら名字を言うくらいならば平気だろう。そう勝手に判断した。
 俺の返事に彼女は「ふーん」とさして興味もなさげに呟くと「まあいいわ」と付け足す。別にどうでもいいならば聞かなくても良かったのではないかとも思うが、それを聞くのは藪蛇な気がした。
 どうにもペースを崩される相手に俺は嘆息する。ちょっと苦手かもしれない。
 というか、病院であの第一声はないだろう。新手のナンパだろうか。少なくとも彼女は美少女だが変人の類だ。
「坂本くん、今夜の縁日、付き合って」
「いえ、結構です」
 勿論即答だ。いくら可愛いからといって、初対面の素性もわからない女の子と出掛けるほど俺は危機管理能力が薄い訳でも、浮かれたお花畑脳でもない。俺にもそれ相応の常識はある。
 しかし相手はそれがひどくご不満だったらしい。俺の反応が気にくわないとばかりに、唇を尖らせる。
「えー、いいじゃない。女の子と縁日デート、世の男子の憧れじゃないの?」
「どこでそんな情報仕入れたんですか。デタラメな……」
「いんたーねっとってやつよ。今流行りの」
「……」
 大分変わっている。あれか。箱入りのオジョウサマってやつかもしれない。
「なによ?」
「いえ。何も……じゃあ俺用事あるんで……」
 そう言って俺は逃げるように椅子を片付けた。こんな変わったヤツに付き合っていられる程暇じゃない。
「ちょっと、」
 ところが、何が楽しいかな優子と名乗る少女は、俺の後をひょこひょことついてきた。もっとばあちゃんといたかったところを無理矢理出てきたというのにである。
「ねぇ、あなた暇でしょう? 付き合ってよ」
「いえ忙しいんで」
「そこをなんとか! どうしても行きたいのよ」
「ほか当たってください」
 振り切ろうと足早に病院を出る。こんなに早く炎天下に戻ろうとは思ってもみなかった。せめてウォーターサーバーの水を飲んでおくべきだったと少し後悔する。
「ねぇ、お願い」
 坂を降りきり、じいちゃんの家へと道を曲がろうとした時に、とうとう優子は俺の進行を阻む強硬手段をとってきた。両手をいっぱいに広げての通せんぼである。
「なんなんだ……」
 俺は睨むために顔をあげた。そこで再び優子の濡れ羽色の瞳にぶつかって、思わず息をのむ。
「お願いよ」
 真っ直ぐ俺をとらえたそれは、『お願い』なんて生易しい色ではなかった。
 奥底に秘めきれなかった強い意志と焦りが瞳を染めている。三か月前の、踏み出す前に見た空を思い出した。
 事情なんて知らない。俺は関係ない。それでも何故かこれ以上抵抗の言葉を吐くことを全てが許さないような、奇妙な感覚。
「……わかったよ。待ち合わせ場所と時間」
 ため息とともに俺は折れた。あまり気乗りはしないが、たまには見ず知らずの美少女と縁日に行くのも悪くは無い。そう、たまには、だ。ここにはまだ知り合いもいないから揶揄われることもないだろう。彼女の気まぐれに俺も気まぐれで応える。それだけだ。
「ありがとう……流石坂本くん」
 優子はそう言うとへらりと笑った。まるで今にも泣きそうな顔で、目の前の俺ではない何かを見て。
 理由なんてわからない。しかしそれは俺の記憶の隅の何かを揺さぶり、心を掻き乱した。奥深くを探られるような感覚は何故か不快ではなかった。


「なぁ、んなそわそわして何かあったか?」
 夕食の支度を手伝っていたら、急にじいちゃんがそんなことを呟いた。
「いや、なんにも。ただ後で縁日に行ってみようと思って」
 俺はさりげなく、あくまでたまたまを装ってそう告げる。間違ってはいない。ただ誰と行くのかを言わないだけだ。
 俺が珍しく人の多いところへ行くと言ったからだろうか。じいちゃんは片眉を上げて、「へえ……」と意味深に答える。少年のように輝く瞳を向けられ俺は咄嗟に目を逸らした。
「まあ、元気に遊び回ることはいいこった」
 にかっと白い入れ歯を見せてじいちゃんは笑うと、しわくちゃの手で俺の頭を撫でる。
「俺ぁ、おまえがけえってきてくれて嬉しい」
「じいちゃん、恥ずかしいよ……あと手重い」
 拗ねたように吐いた言葉は照れ隠しと、何故だか零れ落ちそうになった涙を誤魔化すためだ。
 胸の痛みの詳しい理由はわからない。じいちゃんへの罪悪感なのか、はたまた前へ進むことが出来ずにいる自分へのもどかしさからなのか、変わらず受け入れてくれたことへの安堵感なのか。
「楽しんでな」
 そう言うと爺ちゃんはカッカッカッと豪快に笑った。


「遅い」
 待ち合わせ場所に着くとそこで待っていた人物は、開口一番不満を口にし唇を尖らせた。
 きっちりと綺麗に着付けされた浴衣から真っ白な手足が出ている。結い上げられた髪の毛から覗く項に自然と目がいってしまい、慌てて俺は視線を逸らす。
「坂本くん、女の子は待たせてはダメなんだよ? 今何時だと思ってるの?」
「待ち合わせ時間ぴったり」
「だから、それがダメなのよ。十分前集合でしょう?」
「君の慣習に倣う必要はあるの?」
 わざわざ来たのに説教を始めた優子に、僅かな対抗心が芽生えて俺は質問を質問で返した。しかしやはりその答えに納得いかなかったらしい。予想だにはできたことだが、彼女は深い溜息を吐く。
「私と同じじゃ駄目よ。最低十五分前には来るべきね。不測の事態にも備えるならば二十分前」
「そうなんだ」
 俺はただ感想を述べた。そうではないと論じてもどうしようもないし、次回からどうするとかいうことも彼女に言う必要はない。そんな前に来て、もし相手が遅刻でもしたら三十分近く待つことになるじゃないか、とは思ったけれど。それも言わない。代わりにわざと遠くを見る。
 待ち合わせ場所付近は、この街にこんなに人がいるのか疑うくらいの賑わいを見せていた。
 縁日会場の空は、ほんの少しの昼と夕方、端っこに夜の初めを見せている。薄い黄色と茜色と紫のグラデーションは乏しい国語力ではその美しさを表しきれないけれど、綺麗で俺は嫌いじゃない。ぼんやりとした灯りをともす提灯が遠くまで続く様は幻想的で、遠い太鼓の音と夏の虫の声と相まってひとつの世界を創り出している。
 腕まくりをし金魚すくいに没頭する少年、りんご飴を落として泣きべそをかく少女に、手を繋ぐのが初めてなのか、お互い真っ赤になっている男女等々。各々がその不可思議な世界を楽しんでいた。
「坂本くん! さあ! 行くわよ!」
 瞳を輝かせた優子が、不意に俺の手を引く。
 提灯の橙色の灯の元、眉尻を下げて優子は笑った。
 その笑顔に俺は目を眇める。泣きそうなほど温かいのにどこか寂しい、胸が締め付けられるような感覚と、イラつきにも似た焦燥感。それらがまるで頭上に広がる空のように、境界曖昧に混じる。
「あれやらない?」
 判断力を完全に鈍らせた俺は優子の手に引かれるがまま走り出す。自らの感情への困惑は、右手を包む温もりにあっという間に吹き飛んだ。

「お兄さん、もう一回! もう一回やるわ!」
 腕まくりをし、鼻息荒く優子はそう的屋のおっちゃんに言うと破れたポイを彼に差し出した。
 俺は仕方なく三百円を財布から出す。なんで俺が払ってるのかはわからない。ただ端的に言えば彼女が現金を持っていなかったからと言えよう。無い者は強し。
 無一文で縁日に行くということは、こいつはウィンドウショッピングならぬウィンドウ縁日からのお参りだけコースでも満喫するつもりだったのだろうか。
「坂本くん! ボーっと立ってないで貴方もやりなさいよ。金魚掬えるのは今だけなのよ!」
 生き生きとしたその声に、直前の考えをくしゃくしゃに丸めて捨てる。違う、これは完全に人の金で遊ぼうと思っていたやつだ。
 俺は大きく溜息を吐くともう三百円財布から出した。とんでもない奴に付き合ってしまった。今月の小遣いが既に三分の一になりかけてるんですけどね、と後で嫌味くらい言っても良いだろうか。
「はいはい。あの、俺もやります」
 おっちゃんに数分前に崩れたばかりの野口英世の残りを渡した。代わりに渡された薄い紙が張られたそれを水に浸す。金魚すくいなんてもう数年やってない。
 橙色の灯の下で無数の赤い尾が揺らぎ、目がチカチカしそうだ。
「君さ、他に一緒に行くやつ居なかったの? クラスの奴とかさ」
 金魚を目で追いながら俺は優子に尋ねた。何故そんな無駄とも言える質問をしたのかはわからない。ただ純粋に疑問に思ったのかもしれないし、間を保つ為かもしれない。
「もう居ないわね」
 優子はその問いにあっさりと言い放った。金魚が水しぶきを上げてポイを避けた。
 性格はどうあれ彼女の容姿ならクラスの男子でも誘えば断られることなんて無さそうなのにと思っていたが、そうか。もう学校では悪評高くなってしまったのかと俺は妙に納得する。
「そうだよな。皆、馬鹿じゃないもんな」
「どういう意味よ? 今年は、よ。別に毎年一緒に行ってた人なら居たし。ただ……彼とはもう多分一緒には行けないわね」
 呟く彼女の瞳は目の前の揺らぐ水面を映しながら、遠いどこかを見ていた。残念そうな声色に反して、その色は寂しくも悲しくもない。ただ穏やかに、慈しむようにその相手を見つめているようにみえた。
「好きな奴居るのに俺と遊びに行くのか?」
 そんなに大事な奴がまだ心に居るのに、なぜ優子は見ず知らずの俺と縁日に行きたかったのだろうか。友達と行きたいからなんて嘘までついて。
 俺のその感情は何かの代わりにされた悔しさでもなく、嫉妬でもない。強いて言えば、理解できない彼女の感情への憤りとか、モヤモヤとした気持ち。そんなものだったのだと思う。
 眉を顰め口をついて出てしまった言葉にハッとした時には、優子は目を丸くさせていた。
「貴方、恋愛の話とかできたのね!」
「……は? っていうか、話逸らさないでくれる?」
「はいはい。で、何だっけ? どうして坂本くんと今日ここへ来たか? だっけ? そんなの坂本くんと行きたかったからに決まってるじゃない」
「はあ?」
 何でもないことのように理解できないことを吐かれ、俺は眉を顰め後退った。一歩下がった後も優子は微笑みながら俺を見つめ続けている。意図せず僅かに頬が熱くなり、ますます混乱してしまう。
「照れてるの? 可愛いわね。その反応悪い気はしないわ」
「なっ……頭! 撫でようとすんな! 濡れるし!」
 いつの間にか破れてしまったポイを掴んだまま俺を撫でようとする優子の腕を掴んで抵抗する。的屋のおっちゃんの生温かい眼差しが居た堪れない。
 結局彼女から逃げるようにポイをゴミ袋に投げ入れた。
 俺たちの上に広がる空は、既にそのほとんどを夜に預け始めていた。

「なかなか良いお兄さんだったわ」
 一言、優子は満足そうに呟いた。
 まばらになってきた屋台はとうとうなくなって、辺りは急に暗くなった。唐突に現れた階段を俺たちは当てもなく上る。
 鼻歌交じりに一団飛ばしで上る彼女はひどくご機嫌なようだ。対して俺は暗闇の中の階段に苦戦している。そして彼女が右手に下げるビニール袋を見る度にちらつくそれに、益々ため息を吐きたくなった。
 金魚屋のおっちゃんのにやついた顔は、この先今夏最大の過ちを何度でも思い出すきっかけとなるだろう。
 気の毒な金魚は尾ひれを揺らす。コップ一杯ほどの水の中で律儀になのか、既に投げやりになっているのか、大雑把そうな新たな主に合わせて踊っている。
「良かったね。懐深いおじさんで」
 俺は哀れな金魚に目配せした。人の金を使ってポイを破り続けた彼女に付き合い続ける必要などないと。するとそれに気付いたのか、一瞬金魚がこちらを見る。俺はそっくりそのまま言葉を返された気がして、目を逸らした。
 あの後、たこ焼きとリンゴ飴、わたあめに焼きそばを奢った、もとい彼女によって購入へ踏み切ることを余儀なくされた俺。人――いや金魚のことは言えない。
「よし! このこの名前は『きんちゃん』にしよう」
「うわ……もう少しマシな名前にしたら?」
「何よ? もっと良い名前でもあるって言うの?」
 不満そうな声で厄介な代案を求められ、俺は再びちらりと金魚を見た。良く見れば尾ひれに切れ目が入っている。思いついたままにこれでいいかと、半ば適当に彼女に袋を返す。
「尾に切れ目入ってるし『|端(はし)次郎』でいんじゃね?」
「貴方もセンスないわね。却下」
 ばっさりと言い捨てると彼女は袋をつついた。不憫な「きんちゃん」は餌をくれると思ったのか、吸い寄せられるように彼女の指に近づいた。
「でもせっかくなら二匹くれても良かったのになー」
「貰えたんだからいいんじゃない? それに俺はいらないし」
「知ってるわ。私が二匹飼うのよ」
 何を言っているのかと言わんばかりの視線を感じる。金魚よ、残念だが主人である彼女はお前ほどできた奴じゃないみたいだ。
「へー。二匹飼うとか金魚好きなの?」
「んー。特別ではないわね。ただ二匹ならば寂しくないでしょう?」
 その論理はわからない。金魚だって俺みたいにひとりが好きな奴もいると思うし、きっとそうでない奴だっている。
 彼女の言葉に何も答えずに俺は階段を上り続けた。ようやく見えてきた終わりはあと十段ほどだ。ほっとしたのもあって、余裕が生まれた俺は彼女を見た。そして闇にだんだんと慣れてきた目が意外な横顔をとらえる。
「それに増えたら楽しいじゃない」
「君……、がね」
 途中まで言って俺は少しだけ息を飲み、しかし途中で止める訳にもいかずに予定通りの言葉を吐いた。
「そうね」
 どことなく陰がある笑顔は、満たされない月を思い起こさせる。
 思えば彼女は毎年同じ相手と縁日に来ていたと言っていた。もしかしなくとも今年も本当はそいつと行きたかったのではないか。物理的に「行けない」のでは無く、心情として「行けない」。その考えに至らなかったのは、人の機微に疎い俺のせいだ。
「なんだ、めんどくさ……」
 つい零れた言葉にハッとし、頭を過った陰に舌打ちした。好都合なことに彼女は気づいていないようだ。ただ俺より先に頂上に到着し空を見ていた。
 俺も気を紛らわす為に、倣った体を装い天を仰ぐ。
 見上げた先には夜空が広がる。無数の煌めきを身に纏い、何処までもそれは続く。
 自己主張の強い星、弱い星。青味が強いものもあれば赤味が強いものもある。ごちゃごちゃと沢山あって、詳しくない俺にはさっぱりどれが何の星なのかわからない。
 みんなどれも一緒くた、星の世界も同じなのか、と反射的に抱いてしまった感想に辟易した。
「綺麗ね」
「そう?」
 とても同意できずに俺は不貞腐れたように答える。彼女は笑ってその夜空のような瞳で俺を覗いた。
「何を見てるの?」
 その瞳と言葉にすべてを見透かされている気がして、俺は息をのんだ。一瞬答えに詰まって、しかし結局うまいことも言えず、結局再び空を見上げる。
「何も」
 それだけ、答えた。愚問には素直に愚答で応えたっていいだろう。そんな風に自分の心を誤魔化した。
 ところが彼女は俺の返答に案外満足しているようだった。穏やかな濡れ羽色が細められる。
「やっぱりね。何でちゃんと見ないの? 綺麗なのに」
「見たくない。それに俺には綺麗だと思えない。どれもこれもぎらぎら光って、有象無象。何が良いんだ。気持ち悪い」
 美しい夜空に、澄んだ隣の彼女に、不似合いな自分の汚い感情。
 気に食わない奴は暴力でねじ伏せる頭の悪い同級生、下世話な話に夢中になる部活の先輩、人を利用することばかり考えている担任。そして息子は楽しい生活を送っていると信じて止まない両親。
 俺はどこかで過信していた。世界は愚かで汚い人間ばかりで、だけど自分だけは違うと奢っていた。そして勝手に悲観して、俳優にでもなったつもりで世界を捨てようとした。
 なのにあの日の後。自分こそが愚者なのだと気付いてしまった。
「空は心を写す鏡って言うものね」
「誰が言ったんだよ」
「えー? 私よ? でも良いじゃない。それが今の君でも。いつか綺麗に見えるときが来るかもしれないよ? それに君が本当に見ていないなら、空を見たって何にも、眩しいとも感じないでしょう?」
 彼女は微笑む。まっすぐな瞳に後悔は見えず。しかしスクリーンの彼女のような儚さや恐怖は無い。
 ただただ、慈愛に満ちた瞳で俺を見る。
「……なんで、」
 言葉が、零れた。
 くだらない。そんなのただのこじつけで。俺の心はとっくに周りがみんな汚く見えるくらいには歪んでいるし、汚いんだ。都合の良い解釈なんて必要なくて、気遣う彼女の言葉にも反感しか抱けない。はずなのに。
「なんで、なんでだよ、なんでそんなこと言うんだよ」
 涙が、零れた。今はそれで良いのだと、なんてことの無い言葉が俺の心に響いて、木霊して。凝り固まった汚い何かを溶かしていく。
「心配性なのよ。それにほら、私欲張りだし? 最後に貴方と私と桜だけ見られれば良いなんて、さくらも私も本当はこれっぽちも思ってなかったのよ」
 彼女は満足したように笑う。既視感のある台詞と、どこかで見た笑顔に俺もつい笑ってしまって。
 滲む世界が揺らめいて、俺は再び真っ暗なそこへと吸い込まれていった。

「……見て、貴方!」
「おお、目を覚ましたか!」
 名前を呼ばれた気がして、俺はゆっくりと目を開けた。
 目の前には泣いている母さんと、母さんよりももっと顔をぐしゃぐしゃにして泣いている父さんがいた。見慣れない機械と電子音、嗅ぎ慣れないシーツの匂いに瞬きする。遠くに聞こえるのは忙しない足音と複数人の声。
「おうおう、やっと目覚めたかぁ」
 母さんの後ろから見覚えのあるしわくちゃの顔が覗く。左に傾げられた首と白い歯を見て、俺はようやくそれが久しぶりに会うじいちゃんだと気付く。
「……ばあちゃんは?」
 何かにくぐもる自分の声はびっくりする程掠れていた。
「クソ孫を連れ戻して安心したのか……逝ったわ。最後に意識が戻ってなぁ、心配してたぞ」
 一瞬、何を言われたかわからずに。俺はぐるりと辺りを見回す。
 父さんと、母さんと、じいちゃんと。ばあちゃんは、居ない。部屋の隅のカレンダーは七月。二十九日まで×印が付けてあった。
 頭の靄が晴れていく。頬を熱い雫が伝って、嗚咽が酸素マスクごしに漏れる。
「おけぇり。優(すぐる)」
 名前を呼ばれた。優しい子にと、ばあちゃんが付けてくれた大事な名前を。験担ぎだと照れ隠しの冗談を交えながら付けてくれた、大切な名前を。

 八月の初め、大手芸能事務所が大女優『桜木優子(まさこ)』、本名坂本彩子の訃報を伝えた。葬儀は近親者のみで密やかに執り行われたという。
 十六歳の時に映画『桜』で儚くも狂気に満ちた少女『さくら』を演じ、新人賞を受賞。その後十年で映画、ドラマ、舞台と数多の賞を総なめにし、二十五歳という若さで突然引退。それ以降は表舞台に一切立たなかった幻の大女優。

『心配性なのよ。それにほら、欲張りだし?』
 彼女の最後の大芝居。強かで愛らしく。まっすぐで美しい世間知らずの少女。
『坂本優子』の名台詞を知る者は少ない。