missing tragedy

過ちて、改めざる是を何と謂う

兎の想いは天に届くか 第一夜 ② ★

 火照る身体を持て余し、フィン・ウィンディッシュは深く呼吸した。

 倦怠感を伴うこの時期は幼馴染みの彼女をつい想ってしまう。昔の心地よい記憶を辿り、ふわふわと浮くような感覚に身を委ねているうちは良い。そのうち妄想の中で彼女に悪戯し始めたら危険信号だ。もう止まれなくなって最後まで、犯してしまう。
 現実では羞恥や申し訳なさでとても言えないような淫らな言葉を囁き、時には蕩けきった彼女を抱き締めて口付けながら中を穿つ。
 恥ずかしさから真っ赤に怒って素直になれない彼女を後ろから、或いは涙目で「フィンが悪いんだから!」と積極的に上に乗る彼女を突き上げるように……と妄想は留まることを知らない。

 どうしようもない馬鹿みたいな妄想を――それも発情期には頻繁に、普段の夜もたまに――するようになったのは彼女と離れる少し前だ。
 実際は彼女を想像して、昂る自身を自分で慰めるという虚しい行為で。終わった後の罪悪感と虚無感は凄まじい。


 彼女と一緒にいた時も、なんとなくは感じていた。自分には彼女だけで、きっとそれは一生そうなのだろうと。他の相手は考えられなかったし、まず考えるという段階にも至らなかった。
 それは離れてからも同じで、寧ろ時間は短くとも、彼女以外の老若男女様々な種類の人間や獣人と接する機会自体は多くなった今の方が強く感じられる。
 別に彼女でない誰かが嫌いな訳では無い。普通に皆好きだし一緒にいて心地良いと感じる相手は異性でも同性でもいる。


 しかしただ、それだけなのだ。彼女のように特別に思えるようにならない、それだけだ。

――重症だ……。というか僕がこの森に住むようになった時点で、手遅れなのか。
 フィンは深い溜息を吐いた。夜は特に、火照りと倦怠感が増す。怠くて怠くてかなわない。

 狼の獣人は基本的に生涯ただ一人を伴侶とし番になるらしく、発情期も番と過ごす者が大多数を占める。しかし未だ相手のいない者は発情期、周りに異性がいるだけで何となくそわそわするし落ち着かないと言う。大抵は行為にまでは至らないまでも、そういう興奮は覚えてしまうし、特定の相手にだけということはないのだそうだ。
 また昨今多くなってきたフィンのような人間との混血はまた違う。人間の血の方が強く遺伝するのか、多くはそういう時期自体がない者や倦怠感のみという者がほとんどだ。

 自分が三種類の種族の混血だからなのか、はたまた偶然なのか。少なくともフィンがその時期に発情してしまう相手は彼女だけだ。獣人とは違うが、人間でもない。そして同じような混血の者たちとも少し違う。とても曖昧で不可思議とも言える。
 これらの知識を得たのは黒の森に住むようになってからだ。ごく少数の特定の相手から聞いた話なので、信憑性については疑問が残るが、あながちすべて間違っている訳でもないのだろう。


 ともかく、当面フィンはこの発情期に悩まされそうだった。これが始まると一月半程は確実に倦怠感が抜けない。
 この時期の夜、一度彼女を思い出してしまえば簡単に火がついてしまう。ちなみにこの昂りを彼女以外に慰めたりしてもらう、という考えはどうしても受け入れられなかった。仕方なく毎回自分で慰める、ということを繰り返している。


「……っルナ」
 熱い吐息と共に彼女の名を呼ぶ。届かない想いは募っていくばかりだ。
 彼女が住む王都からこの森へは馬車でも七日間はかかる。早馬で飛ばしても道の関係上、五日はかかるだろう。彼女を少しでも思い出さないように、数時間かかる一番近くの街へと行く回数も必要最低限にしているというのに、その効果は薄い。
 あと十年、いや二十年くらいしたら叶うだろうか。彼女がフィンの事を完全に忘れ、婚約者の元へ嫁ぎ、子を授かり、幸せに暮らすという残酷で望まねばならない願いが。
「……っはぁ……ダメだ」
 フィンは枕に顔を押し付けた。涙はもう出ないが、胸が苦しい。
 そんな未来、願う前に到底考えられない。想像すること自体難しい。別に彼女の一番でなくても良い。友達や知人ならば、せめて年に何回か思い出してくれれば良い。何より彼女が幸せであるならば、それで……。
「……良いわけない……会いたい……抱き締めたい……」
 抱き締めて愛を告げたいし、彼女にも同じ気持ちになって欲しい。想いが通じあったら何度も何度も口付けて舌を絡め合って大事に大事に素肌に触れて、彼女にも触れてもらって。愛しい名前を呼びたいし自分の名を呼んで欲しい。彼女の全てを知って、自分の全てを彼女に知ってもらって――。

「……そんなの無理なのにね」
 乾いた笑いが口から漏れる。零れた言葉は、事実でもあり自分に言い聞かせるためでもあった。


 彼女を守ることも、救うことも出来ず。それどころか当初は勘違いまでして自らの人生に絶望し悲観した。彼女がフィンの為に嘘をつき、心にもない言葉を吐き、守ったのは冷静に考えれば明らかだったのに。
 情けない。力のない自分も、力が無いことを理由に彼女へ会おうともしない自分も。かと言って心から幸せを祈ることもできない自分も、みんな。

――三日後、か……。

 風の噂で聞いた式の日だ。それはまるでフィンの死刑宣告の日のようだ。
 彼女は幸せを見つけているだろうか。少しでも穏やかに暮らせているだろうか。もう自分のことなど、忘れてしまっただろうか。

 もやもやとした胸の不快感は拭えない。どんなに想っても恋焦がれても、届かない。触れられないことがたまらなく苦しい。
 街で聞いた話によると、伯爵は彼女を決して蔑ろに扱ってはいないらしい。衣食住はもちろん、きちんとあの力について学ぶところまで与えてくれていると聞いた。
 当時、彼女が伯爵に惹かれているという感じはしなかった。またフィンの身を盾に彼女に迫った伯爵を、すぐに受け入れたとは考えにくい。
 しかし伯爵はフィンにはとても用意できない素晴らしい環境を惜しむことなく彼女に与えてくれた。理由や経緯はどうあれ、身分の低い婚約者を物のように扱う者もいる中で、そこは感謝すべきなのだろう。
 そしてそんな伯爵だからこそ、彼女の心が今どうであるのかはわからない。
 第一、確かに彼女は自分を好いてはいてくれたが、その好意が友人に対してなのか、家族のようなものに対してなのか、はたまたフィンと同じ生涯唯一の人に対しての特別なものなのか。それはわからないし、今となってはもう調べる術もない。


 火照る身体に反し、心は冷えていくようだ。それなのに、発情期というだけであらわれた口の中と頭上の違和感にため息が出る。
 この時期の夜に興奮を覚えると必ずと言っていいほどあらわれる、出来損ないの短い兎耳と鋭い牙は不釣り合いだ。

――なんで、って言うのは愚問なんだろうな……


 幼い頃に生き別れた父と母との思い出は少なかった。
 ただ母のくるくると変わる表情とともに元気に動いていたのは確かに兎耳だったし、フィンをあやす為に普段の人の姿から獣の姿になって背に乗せてくれた記憶の中の父は梔子色の毛を持つ狼だった。毛先だけがほんのりと赤く染まるそれは、フィンの髪色に酷似している。
 他に幾人か家族がいてとても賑やかだったのは朧気に思えていて、少なくともきっと自分は兎と狼の獣人の血を引いているのだろうとは思っていた。

 そんな自分が何の種族なのか明らかになったのは十三の初夏、発情期を初めて迎えた時だ。

 同じ屋敷に住み込みとして暮らしていた彼女の前で初めての感覚に卒倒した。
 彼女に敏感になっていたことや、初めてのおかしな気持ちのコントロールの仕方がわからなかったことからだったのだろう。発情期で具合の悪いフィンを心配し、彼女がいつもより甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたのも助長したのだが、そんな彼女にはなんの非もない。
 卒倒し、兎の耳があらわれた自分を見て病気だと思い込んだ彼女は、断るフィンを押し切って屋敷の主人に内緒で医師を呼んだ。それも自身がこっそり貯めていた貯金を全て使って。
 呼ばれた顔見知りだった医師は直ぐに見当がついたのか、笑顔で彼女を部屋から出し真実を伝えてくれた。何となく獣人なのではないかと記憶から疑っていたものの、発情期というものを全く知らなかったフィンは驚き、そしてとても落胆した。彼女に反応してしまう自分に自己嫌悪し、酷く落ち込んだことは今でもはっきりと覚えている。

 しかしそんな自分を救ってくれたのもまた彼女だ。笑いながら彼女がくれた言葉と笑顔は今でもフィンの心を温かくする。

『でもフィンはフィンでしょ? 別になんの血が入っていようと変わらないけど? それよりその耳! とっても可愛くて好きだなぁ……私だってほんの少しは獣人の血が入っているはずなのに何にもないのよ……羨ましい』

 可愛いと言う言葉に複雑な感情を抱きながらも、自分は自分だという肯定の言葉は嬉しかった。
 そしてフィン自身でないにしても自分の一部を久しぶりに「好き」と微笑んでくれた彼女に、真っ直ぐな言葉に胸が踊った。
 図らずも、自分が狼の獣人と兎の獣人と人間の三つの種族の混血児だとはっきり確かめられたのは半年前だが、今もそのことを彼女は知らない。


 その時、静まり返った部屋に耳に残る機械音が響き、フィンは重たい身体を起こした。
 床に散乱した無機質な機械類が視界に入って、さらに気分が重くなる。
 それらを作ったのも、当然たった今機械音を発した通信機器を開発したのも、彼女に求婚し支えていく為の資金源に好きな研究が活かせたらと考えたからだ。
 結局、世の中の常識を覆すほどのそれらの発明をしても、一年前の自分には発表し商品にするまでの伝手も、すぐに信じてくれる相手を見つけることも出来ず。残ったのは沢山の発明品と研究資料、そして無力感だけだったが。

『おい、フィン! 俺だよ、俺。寝てるのかー?』
 この大きな声は一番上のリュートだろう。十か月ほど前に出会った、実の兄だ。
 リュートはとにかく騒がしい。二番目のシオンはあまり喋らないが、三番目のリムはやはり騒がしいので、父か母どちらかの血なのかもしれない。
 これでもリュートはここから南の湾を超えさらに早馬で五日ほどかかるところにある小国の次期国王なのだから、人間や獣人は本当に一面で判断してはいけない。

「起きてるよ……何? こんな時間に」
『何って、明日のことについて話しておこうかと思ったんだが……お前兄ちゃんに冷たいなぁ』
「そんなことないよ。それより、何? リュート兄さんの予定でも変わったの? 僕今ちょっと具合悪いから手短にして欲しいんだけど」
『大丈夫か? ってあー……そんな時期か。個人差あるけど一人だと辛いよなぁ』
「……ありがとう。でも平気だよ。怠いけど別に生活に不便するまででもないし」

 そう答えると機械から長兄の大きなため息が聞こえた。ぶつぶつと「そうじゃない、そうじゃないんだよな~」という呟きも続く。
『お前、いい子いないのか? 好きな子とか気になる子とか』
「何でそんなこと……」
『え? だって発情期はもともと番を見つけて一緒に過ごす時期だぞ? ついでに言うと子作りの時……』
「わああああ! いい! 続きはいいから!」
 フィンは赤面し、無意味なこととは感じながらも機械を押さえた。リュートは恥ずかしげもなくこういうことを話す。既婚者の余裕なのか、ただ単にもとからの性格故かはわからないが、フィンには少し刺激が強い。
「いないから! 誰かと番になる気もない!」
『えー……俺フィンがお祭りで好きな子に花かんむり渡してるところ見たかったな~』
 盗み見る気でいたことは明らかだ。我が兄ながら悪趣味極まりない。弟とその恋人がいちゃいちゃしているところなんて見て何が楽しいのだろうか。リュートたちは微笑ましく思うかもしれないけれど、見られるこちらとしては落ち着かないし居た堪れない。ルナだってきっと恥ずかしがって――。

 そこまで考えて嘆息した。他愛ない想像の中でも、フィンの相手は彼女なのだ。もう少しで完全に手の届かない相手になってしまうというのに、未練がましい自分に呆れさえ覚えてしまう。

『どうしたんだー? もしかして好きな子いるのか? 花かんむり渡したい相手がいるんだな?!』
「……違う。……もう、渡したんだ」
 吐き捨てるように呟いた声は小さく、吸い込まれるように消えていく。
『ん? 悪い、聞こえなかった! いるのか? 居るなら明日是非会わせて欲しいんだが!』
「そんなの……」
 否定の言葉は途切れてしまった。
 花かんむりなんて、そんな風習など知らなかったときに渡してしまった。あの時はただ喜んでほしくて、彼女の笑った顔が見たくて。後から渡す意味を知って、恥ずかしくなったけれど本当に嬉しかった。
 でも、もう。
「……無理だよ」
『……大丈夫か、フィン? まあ、あれだ。無理な時もあるよな。良くわからないが相手が居ないならばこっちに来て探すか? 俺も手伝うぞ?』

 どうやらリュートは勘違いしたようだ。騒がしいまま次の話題へと移っていく。
 フィンはそれらに適当な相槌を打ち、三十分ほど話し通信を終えた。賑やかな声が無くなると抗えないほどの急な眠気が襲ってきた。怠い身体を寝台に投げ出し天井を見る。

 この辺りは夜になると夏でも肌寒い。いくら身体が火照ると言えども初夏の終わりに近いこの季節、布団を掛けないでいれば風邪をひいてしまうかもしれない。

――ああ、最悪だ。何もかも。変える勇気が無いのは、僕だけれど。
 布団に潜り、重たい瞼を閉じた。

 時が止まってしまえばいいのにと、ぼんやりと考えていた。