過ちて、改めざる是を何と謂う
ルナは目の前の相手をきつく睨み、掴まれた両手首を振り払おうとした。
「辞めてください」
しかし目を血走らせた伯爵の力は強く、びくともしない。男女の力の差が恨めしかった。
涙は出ないが、何をしたいのかは疎いルナも覚り湧き上がる嫌悪感に震えそうになる。先ほど少しだけ触れられた頬も、掴まれた腕も切り離してしまいたい衝動に駆られた。
「来るんだ」
そう伯爵は告げるとルナの手首を掴んだまま歩き出す。向かう先は先ほど真新しいシーツに取り換えられた寝台だ。
「やっ……! フィンっ……」
助けを求めこぼれ出てしまった彼の名は不可抗力にも近かった。それでも目の前の男には聞こえてしまったのだろう。歩みが止まり、振り返った相手の顔は歪んでいた。
「まだあの出来損ないの獣人のことを考えているのか?」
苛立ちを隠さない声でそう問われ唇を噛んだ。自分に彼を想う資格なんてない。それに穏やかで争いを好まない優しいフィンでも、一年前のあのことに限ってはルナを許してはくれないだろう。
あの状況で命を懸けて求婚してくれた彼を振って、よく知りもしない裕福な貴族の婚約を受けたのだ。実際がどうであろうと想い続けることが本当は良くないことは承知しているはずだった。
「貴方の子供は必要ならば産みますし、子供も……愛しますから……」
そんな言葉を口にしつつもできる自信はない。それどころか、正直なところ想像すらつかない。
ただ、子をなす行為がどのようなものか詳しくは知らないものの、どんなものだとしてもこの男と何か一緒にすることは苦痛でしかないのだろうとは思う。生まれた者含め幸せになれないことは容易に想像できる。
苦しいことでも一緒に何かしたいのは、辛いことでも一緒にすればそれを楽しみに変えられるのは、おそらくルナにとってフィンだけだ。
あどけなさの残る柔らかな笑みが浮かんでは消える。それを見ることはもう二度と叶わない。そのことがたまらなく辛くて、死んでしまいたくなる。ただ死ぬ前に最後、一目会いたい。
ルナは複雑な模様をなす上質な絨毯を見つめながら、きっぱりと伯爵に告げた。
「……でもそれは今ではないでしょう? 式を終えてからでは? あと申し訳ないですがこの先も決して貴方を愛すことはないのでその点は……っ」
そう言い終える前に頬に激痛が走った。殴られた衝撃でよろめき床に手をつく。唇の端を切ったのか咄嗟に抑えた手が赤く染まる。
「黙れ! 魔力が多いだけの薄汚い売女が……! 来い!」
そう言うと伯爵は右腕を掴み無理矢理立たせ、再び寝台へと引きずるように引っ張っていった。抵抗を試み必死にもがくも伯爵を止めることは出来ない。
「辞めてください!」
「やはりあいつをあの場で殺すべきだった。ああ……今からでも遅くないか。二度とお前が抵抗できないように探し出して目の前で切り刻んでやってもいい」
「お願いです、それだけは……」
ルナは血の気が引いていくのをはっきりと感じた。殴られ熱を持っていたはずの頬さえも冷えていく。がくがくと身体の震えが止まらず悲鳴のような声しか出ない。
「ルートスの北にある黒の森にいるらしいじゃないか?」
嘲笑と共に言い放たれた言葉に、目の前が真っ暗になった。
もつれる足を必死に動かし、ルナは走っていた。
もう幾度かは既にわからない。しかし言い逃れできない程には、繰り返してしまった。
たった今飛び出してきた屋敷の様子を思い出す。
部屋のカーテンは吹き込む風に煽られたまま宙で止まっていた。
目の前の男は動かず、時計の秒針も止まっていた。
外の梟の羽音と鳴き声は健在で、すべての時を止めてしまった訳ではないと証明していたが、ルナが魔力の暴発によりこの国最大の禁忌を侵してしまったことだけは確かだ。
――会いたい……迷惑だろうけど、でも……
滲む涙を堪えようとした時、空気を切る音と共に再び周りの景色が一変した。
「……フィンっ」
死を前に、ただひたすらに彼を求めて、ルナは走っていた。
※※※
叶わないと思いながらも、望んでいた匂いを感じてフィンの意識は僅かに浮上した。
乾いた喉が水を求めるが如く、飢えた獣が血の匂いに反応するが如く。それは身体を熱くさせおかしな気持ちにさせる。
しかし同時にその匂いは忘れかけていた様々な温かで優しい感情と記憶を心に呼び起こさせた。
――ここに居るはずがないよ……僕は夢を見ているのか……?
ならばもう少し、この心地良い夢を見ていたい。たとえ目覚めたときに泣いてしまうとしても。まだ泣けるかどうかはわからないけれど。
しかし願いも虚しく、再び押し寄せてきた強い眠気に意識が遠のく。抗う隙も与えずにそれはフィンを呑み込んでいく。
やはり心地よい夢は長続きしないのかと諦めかけた時、頬に温かな雫が触れた。
霞みかけていた意識が一気に覚醒し始める。
雫の正体を知りたい。そしてこの欲しくて堪らない、懐かしく安堵感を与える匂いが誰なのか確かめたい。
胸を騒がせ、身体を熱くもさせる匂いの心当たりは一人しかいなかった。
フィンは重たい瞼をゆっくりと開けた。
「ル、ナ……?」
そこには痛々しくも頬を真っ赤に腫らして涙を流す幼馴染みの少女がいた。月明かりに照らされた彼女は、その瑠璃色の瞳でフィンを見つめている。ぶわりと血が逆流するような感覚と上昇した体温に、目は完全に覚めてしまった。
真っ赤に晴れた頬がしっかりと視界に入り、直ぐに上がった体温が下降していく。全身から血の気が引いていき、慌ててフィンは目の前の少女――あどけなさが残るが、年齢的にはもう大人の女性に近いかもしれない――ルナの肩を掴んだ。
「ルナっ……その顔、どうして?!」
乱れた瑠璃色の髪に真っ赤に腫れた頬、そして口元の血の跡は何か穏やかではないことがあった証拠だ。
何を? 誰に? どうして? そんな疑問が次々と頭に浮かぶ。
「えっと……」
驚いたようにルナは一瞬目を丸くすると、それを伏せた。
「ルナ……」
フィンはルナの頬にそっと触れ、唇を噛む。もうこれ以上に泣くことなどないと思っていたのに、いとも簡単にそれは溢れてしまう。
情けなくもぼろぼろと涙が零れる。格好悪い姿を彼女には見せたくなかったが、それどころではなかった。
「泣かないで……フィン」
困ったように名を呼ぶルナに抱き着く。びくりと肩を震わせ強張る彼女を今度こそ手放さないように力強く。
「でも、ルナが……ルナが……」
「大丈夫だよ」
苦笑するように答えたルナを抱く腕の力を緩めるとフィンは涙を拭いた。そして熱くなる身体を叱咤しベッドから飛び降りる。
「薬、持ってくるからちょっと待ってて」
ルナにその場で待つように告げ、散らかった床を器用に飛び跳ねながら寝室を出た。
居間に常備薬や傷薬の入っている救急箱があるはずだ。まずは彼女の傷の手当てをしなければ。
訳が分からなくて混乱はしている。そもそもどうしてルナがここに居るのかもわからない。
でも目の前の彼女は現実だ。夢などではない。
好ましい匂いも、柔らかな髪も、月の光のような優しい光を湛えた瞳も、恋焦がれていたルナのものだ。
そして、赤く腫れた滑らかな肌も間違いなく。
思考が真っ黒に染まりそうだった。噛み締めた唇からは血の味がした。