missing tragedy

過ちて、改めざる是を何と謂う

兎の想いは天に届くか 第八夜 


 目の前の男性を見てルナは目を瞬かせた。毛先にかけて段々と赤味が増す梔子色の髪はフィンとの血縁関係を色濃く示している。獣耳の形や大きな尻尾、薄茶の瞳の色は違うけれど笑った顔はとても良く似ていた。
 フィンと気安く話していたことからも兄弟か従兄なのだろう。彼は黒の森でひとりぼっちだと聞いていたのでほんの少しほっとした。
「ルナ、僕の一番上のリュート兄さん。ここから更に南に行った所で……人を纏める仕事をしてる」
「そうそう、今は父親の補佐程度だけどなー」
 途中フィンの紹介に間が空いた事が気になるがルナは頭を下げる。フィンの実家は商家や領主など何処かの土地を治めている家なのかもしれない。
「ルナ・アルティアです。えっと……」
 その続きをどう言おうか迷った。もう使用人ではないし、伯爵の元婚約者というのも違う気がする。それに今現在ルナは逃亡者なのだ。この先のことも考え正直に話していいものか躊躇う。
「僕の番で未来の奥さん。……前話した僕の幼馴染……」
 続いたフィンの言葉にルナは赤面する。フィンの頬も同じくかあっと染まった。
「おー! あー! あのフィンをぼこぼこにした伯爵のとこに行った!」
「兄さん!」
 リュートの言葉に崖を突き落とされたような気分になった。そう言われても何もおかしくない。それは事実だし彼の家族が許してくれないことくらいわかっていたことだ。慌てて頭を深く下げてルナは謝罪の気持ちを表した。
「あの……本当に、図々しいとは思ってます……」
 身体が震えてしまう。きちんと言わなければいけないと思っているのに声は掠れうまく話せない。今何を言ってもそれが言い訳にしかならないことは明らかだった。厚顔無恥な自分が情けなくなってルナは唇を強く噛む。
「うんうん、フィンあの時殴る蹴るボッコボコになった挙句君に振られちゃって大変だったよなー。仕事はクビになるしヤケ起こして弱い酒飲んだり抱けないのに慣れない女の子買ったりさ。ケンカなんて毎日……」
「兄さん! これ以上ルナを責めたり変なこと吹き込んだら……」
 フィンの視線が険しくなり刺すようにリュートを睨んだ。掴みかかりそうな勢いの彼を止めるように服の裾を引く。
 知らなかった。フィンが黒の森に移り住んだことは知っていたが苦手だったお酒に手を出したことは初耳だ。ましてや女性や喧嘩なんて穏やかな彼からは想像できなかった。
「やめて、フィン。リュートさん、本当に申し訳ないと思ってます。そんなに……いえ、本当にフィン、リュートさん……ごめんなさい」
 もう一度頭を深く下げる。フィンはルナを庇ってくれるつもりらしいが、リュートはただ事実を告げているだけだ。何を思われても言われても仕方のないことだし、大切な家族ならば文句の一つや二つ言いたいだろう。
 前に進むためにも泣いてはいけない。贅沢かもしれないがフィンの家族にも謝罪し、理解してもらいたかった。
 何よりもフィンと共にこの先も歩んでいきたいから。
「ルナ……」
 ふわりと温もりに包まれたが、ルナは瑠璃色の瞳を上げることは出来なかった。背中に回った腕の力は強い。
「僕は感謝してるから……昨日も言ったよね?」
 真っ直ぐな瞳を向けられて肌が粟立つ。発せられた声には今にも散ってしまいそうな儚さと、強い願いと意思が相反しながらも共存していた。
 涙が視界を揺らす。彼はいつも、申し訳なくて、しかし嬉しくてたまらない言葉をたくさんくれる。
「離れないで」
 フィンにもう一度抱き締められ耳元で囁かれた。ぎゅっと彼の袖を掴む。頷くことも、気持ちを言葉にすることは難しかった。それが精一杯だった。
「これ以上ルナに何か言うなら出てってくれる? ルナを困らすならもう二度とこの家には来ないで」
 彼は冷えた目でリュートを見据える。奥底に静かな怒りの炎が揺らめいて、眼差しに負けず劣らず冷たい声が部屋に響いた。
 緊迫した空気が走る。
 リュートはおそらく様子を心配して来てくれたのだ。それにルナに強く言ったのもフィンを心配してのことなのだろう。だからつい、ルナは口を挟んでしまった。
「フィ、フィン! お兄さんにそんなこと……」
 自分が言える立場でないとはすぐに気付いたが、咄嗟に出てしまった言葉は取り戻せない。間違った選択だということはわかったが、何が正しいものだったのかもわからなかった。
 しかしそんな重たい雰囲気はすぐに壊れた。
「ぶっ……く、はは!」
 リュートが突然笑い始めたのだ。
「何なの? 兄さん……」
「だって、お前……! めちゃくちゃ怒ってさ、可愛いよなぁ!」
 笑い続けるリュートをフィンは苦虫を嚙み潰したような顔をさせて睨む。しかし露骨な態度もリュートには皆『可愛い』に変換されてしまうようだった。
 その『可愛い』弟の頭をリュートはがしがしと撫で笑い続ける。そして呆気にとられるルナの頭も同様に反対の手で撫で始めると瞳を輝かせて相好を崩した。
「揶揄ってごめんな! でもやっぱりルナちゃんもめちゃくちゃいい子だなぁ! めちゃくちゃ可愛いし!」
 どうやらリュートの先ほどまでの態度は悪い冗談だったらしい。もしくはルナやフィンの様子を窺いたかったのかもしない。どちらにしろ悪い意味でなかったことに安堵した。
 しかし安心したルナは今度は急激に恥ずかしくなる。フィンの家族に、しかも彼に雰囲気の似た義兄に褒められ撫でられているのだ。素直に嬉しくて照れくさい。頬を染めるとフィンに肩を引かれた。
「兄さん……ルナに触んないで」
 リュートの手を払い除けルナを背に庇うように間に入ってくる。対してリュートは目を瞬かせると、すぐにまたにやにやと笑い始めた。ピンと立った獣耳も興味ありげとばかりにそわそわし出す。
「そっかぁ……やっとだもんな! まだヨユーないよなー!」
「うるさい!」
「ねぇねぇ、ルナちゃんうちの弟どう? 一途だけど、しつこかったり愛重かったりしてない? 独占欲強い感じじゃない?」
 間に入ったフィンをひょいと避けリュートはルナの手を取った。じっと見つめられ近づいた顔にどきりとする。やはりリュートはフィンに似ている。髪の色だけではない。穏やかな目元や口角の上げ方、笑い方が似ているのだ。
「ちょっと、兄さん!」
「すごく優しいです……」
 気恥ずかしかったがするりと素直な言葉が口を突いて出る。リュートに掴みかかろうとしていたフィンが振り返って目が合った。驚きに丸くなった瞳と真っ赤な頬に咄嗟に瞳を伏せる。耳まで熱くなり続けようとしていた言葉は雪のように溶けてしまった。
 優しくて、温かくて、純粋で、一生懸命で、頼もしくて……自分には勿体ないくらいだ、と伝えようと思っていたのに。
「ルナ……」
「でしょー? でしょ? でも未練がましい奴なのは本当だよ? 君のこと忘れられなかったしね。それでもいいの? 俺しつこい性格はマイナスポイントだと思うんだよなー」
「逆に嬉しかった……です」
 いつの間にか表れていたフィンの獣耳が後ろに倒れて真っ赤に染まる。感極まってか、潤んだ瞳でルナを見つめた。
「ありがとう、ルナ……」
「フィン、お兄ちゃんいるからなー」
 リュートのその言葉に、ルナの方へ伸ばされていたフィンの手が止まって下ろされる。
 真っ赤になりながらも、気まずさを振り払うようにフィンはわざとらしく咳払いをすると「ところで、」と凡庸性の高い接続語で話題を切り替えた。
「兄さん、実はこの間の道具と設計図を今度ある人に売り込みたいんだけど……条件付きで」
 彼の顔が真面目なものになる。真っ直ぐにリュートを見つめる瞳は昨晩のような甘い蜂蜜色ではない。
 遠くの何かを見据える鋭い色は澄んでいる。
「ある人って言うのは?」
 リュートの顔からもいつの間にか揶揄うような色はなくなっていた。ただ射るようにフィンを見ている。
「それは――」
 フィンが口にした名前に、ルナは瞳を丸くさせてしまった。

※※※

 フィンがその名前を口にすると案の定彼女は驚いていた。リュートはと言うと予想の範囲内だったようだ。眉一つ動かさずに話を続けてきた。
「フランシスカ王女って、フィンの居たハイレンのお姫様だろ? 随分とやり手だと有名な」
「うん。この間も魔晶石を動力とした農工具の開発を推し進めてたし、彼女なら利害だけじゃなくこちらの事情も含めて考えてくれるかもしれないから」
「事情……?」
 リュートの鋭い視線がフィンへと向けられる。フィンは了解を得るためにも不安げな表情のルナに目配せし微笑んだ。そしてその瞳に拒絶が無いことを確かめると再びリュートの視線と向き合う。
「ルナが昨日また魔法を暴発させてしまって……もちろん意図してではないけど、ハイレン王国刑法典第三十六章の二百三条にこのままだとひっかかるかもしれないんだ」
「二百……は? お前、冗談だろ? 時空魔法はそんなに簡単に発動するもんじゃ……」
 片眉を上げ信じられないとばかりにリュートは訝しむような目を向けた。俯いたルナの顔が青ざめていくのが見え、フィンはそっと震えていた彼女の手を握る。
「うん。普通はそんなに簡単に出来るものじゃないと思う。でもそれで良いんだ。止まった時間は数十秒、長くて数分みたいだし、範囲も広くない。相手も伯爵様一人だし、おそらく目撃者も少ないから出来ると思う」
「それは?」
「相手の気のせいだった、それが一番事実として受け入れられやすいとは思わない?」
 ニヤリとリュートが笑った。話の方向性を理解してくれたのだ。

 時空魔法を一人でやってのけた、そんな話は前代未聞だ。だからこそ今なら出来る。
「で、その後はその法律自体も改正させる方向へ話を持ち込む……ってことか?」
 隣でルナがひゅっと息をのんだ音がした。驚き目を見開きこちらを見ている。大丈夫だと伝える代わりにフィンは彼女の手を握る力を強めた。

 また魔法の暴発で彼女が時を止めてしまう可能性はある。ならば有耶無耶にするだけでなく、その行為自体を縛る法も変えてしまおうと思ったのだ。
 運の良いことにフィンにはまだ切り出せる手札がある。それに今ある中で一番効果的なあの道具を売り込むには法改正は必須だ。特に時空魔法に関する条項が今のままでは、試用さえもハイレン王国では出来ない。

 生活に役立つ道具だという自信はあるし誰かを傷付けたりする物でもない。現にリュートの国を始めとした幾つかの近隣国では秘密裏に研究が進められている。が、気のせいだったという事実にする為、取引をすることには変わりはない。だから正攻法とは言い難い。
 王女に無償で提供する代わりに協力を仰ぎ、既存の法も変えていく――それはあまり褒められたことではないし、容易なことでもないと思う。しかしフィンが今ルナを救うために思いつくことは限られている。やると決めたからには簡単に退くつもりもない。

 リュートは大袈裟にため息をつくと頭をかいた。
「でも俺はただの隣の国の第一王子だぞ? 話を持ち掛けるのはどうなんだ?」
「兄さんは王女様と僕が会う機会を作ってくれれば良い。王女様はルナと面識があるし協力してくれると思う。損はしないしね。世間に発表する時は『第四王子が世話になった謝礼として南の国から贈られた」とでもすれば済むよ。そこら辺は王女様と兄さんで相談して欲しいけど」
「うっわ……簡単に言うけどな、こっちもこっちで研究進めてるんだからな」
「なら……兄さんには研究資料送らない……」
 ツンとそっぽを向くと慌てたようにリュートがフィンの肩を掴んだ。少し狡い気はするが、今回ばかりはフィンの力だけで王女との謁見の機会を作るには時間がかかる。兄の力が――南の狼の国の次期国王の力が――必要なのだ。

「わかってるよ! ったく、お前にはかなわないよ」
「ありがとう……頼りにしてるよ、兄さん」
 やれやれと言わんばかりのリュートに微笑みかけフィンはルナの手を握る力を緩めた。無言のまま見つめていた彼女の方へ視線を向けて、指を絡める。そのままそっと彼女の指を撫でながら、潤んだ瑠璃色の瞳に微笑んだ。
 戸惑うルナの表情は複雑だ。突飛な案であるしどう反応して良いのかわからないといった風なのかもしれない。
「伯爵様のことだからルナを追いかけてくる可能性もある。だから早めに手を打ちたいんだ。万が一のために調べておいて欲しいこともある」
「ああ。わかった。調べ物とやらについては後で詳しく聞く。で、早めに手を打ちたいんなら明日にでも王都へも向かうか?」
 リュートの案にフィンは賛成の意を込めて頷いた。王都に着いてもすぐに謁見できるわけではないだろうが、早いに越したことはない。
「俺の乗ってきた飛竜なら三人いけると思うんだ」
「ううん、ルナにはここか別の安全な場所で待って貰おうと……」
「ルナちゃん置いていくのか?」
「それは危険だし……」
 その言葉は続かなかった。ルナに強く袖を引かれ、真っ直ぐな瞳で射るように見つめられたからだ。
 フィンだってルナを置いていくのは不安だし嫌である。一時も離れたくないし傍に居たい。しかし安全面を考えれば犯罪者を取り締まる騎士が多く、魔術師協会の本部もある王都に彼女を近づけるのは極めて危険だ。
「フィン、邪魔するつもりはないわ。足手まといにもならないよう気を付ける。それにフランシスカ様に協力を仰ぐならば私も行くべきだと思うの」
 フィンの決心が揺らぐ。彼女の言い分も一理ある。
「でも……」
「ラスに今夜頑張ってもらえば城の私設飛行場へ直で行けるしな。そこからこっそり向かってもいいし、ばれても城内で、しかも隣国の王子の同行者としてならばすぐに連行なんてこともないだろ」
 リュートがルナに助け舟を出した。ラスとはリュートの使い魔の名前だ。彼は有能な使い魔を伝書鳩代わりにし直接王城へと乗り込もうと言っているのだ。
「そんなこと……」
「できるさ! 俺なら」
 そう言ってリュートは驚くフィンとルナに白い歯を見せて笑った。
 いくらリュートとは言えそんなに急に勝手に決めることができるものなのだろうか。ハイレン王国とは普段から交流があるとはいえ、懇意にしているから融通が利くというレベルではない気がするのだが。

 訝し気な顔をしているとリュートは「いやーコネとか借りとかは積極的に作っておくものだよな!」と満面の笑みでフィンの背中を叩く。
 どのような手を使ったのかは聞きたくない。が、フィンはこの先も兄には勝てないと思うには十分なものだった。


 それからフィンとルナ、そしてリュートの三人は細かい打ち合わせをして夕食をとった。
 久しぶりのルナの手料理にフィンの食欲も半ば当然のように出てしまい、彼女だけでなくリュートも驚かせてしまったが、食事をこんなにも楽しく美味しいものだと感じたのは久しぶりだった。リュートもフィンのように体形に似合わない量を食べるので、燃費が悪いのは血筋なのかもしれない。
 冗談を言い合いながらルナと笑い合って幸せを噛み締める。台所に立つ彼女を見て決心も固くなった。つい、リュートの前でにやけてしまい揶揄われはしたが。
 王女と交渉し必要ならば伯爵と対峙する。もちろんそれぞれへの準備も考えてはある。いつものように自信なんてものは持てないが、やりきると決めたのだ。それを曲げるつもりはない。今度こそ彼女を守りたいし、その先もずっと一緒に居るために絶対に負けられなかった。
「フィン、ところで俺は今日何処に寝るんだ?」
 一人物思いにふけっていたフィンをリュートが現実に引き揚げた。
「え? あ……」
 ルナは入浴中でいない。持っていたグラスが傾いて、中に入っていた紅茶が零れた。鮮やかな紅が机の上をすべる。
 フィンはすっかりこの家の収容能力を忘れていた。