missing tragedy

cock-and-bull……¡

呪われた子

 薄暗い部屋の中で、エリスは真っ赤に晴れた目元を袖で拭い唇を噛んだ。

 その行為は今日でもう何度目だろうか。こんなに泣いたのは義母のハンナが死んでしまった八つの時以来だ。優しい彼女が居なくなり、三人の生活になってからもう五年経っていた。

 目の前の少年の額には玉の汗が浮かんでいる。眉間にはしわが寄り、絵本に出てくる王子様やお姫様のように整った顔はいつもよりもずっと青白い。
 絹糸のような金の髪には所々に乾いた土。首から右腕にかけての真新しい包帯がエリスのしてしまったことの大きさを物語っている。

 全てはエリスのせいだ。彼がもし万が一死んでしまったら……そう考えると恐ろしさに震えさえ覚えた。今更後悔しても仕方がないことはわかっている。エリスに出来ることと言えば、ノアの無事を祈りながら介抱するだけだ。

 ノアが横になっているベッドの脇で祈るように手を組む。
 外の風がガタガタと窓を揺らす。雨粒がガラスを打つ音と交じってそれらはエリスの心を更に不安にさせた。

 裏山へ薬草を取りに行こうとノアを誘ったのが悪かったのか。帰り道に足を滑らせた行商人を助けようとしたのが悪かったのか。はたまた到底叶えられぬ夢のまねごとをしようとしたのがそもそもの間違いだったのか。

 少なくともわかっているのは、行商人を庇って崖から転落したエリスを更にノアが庇い、結果彼のみが大けがをしてしまったということだ。

 行商の人を助けて自分が怪我をするのはまだ良い。ある程度の怪我は予想していたし、エリスは割と頑丈な方だ。よく怪我をするせいか治りも人より早い。
 だがノアが怪我をするのは仕方ないでは済まされない。彼は昔から身体が弱い。そして彼が転落するエリスを庇う可能性があることは、緊急時でも容易に想像できたはずだ。

 エリスが無茶をしなければ。勉強の為にも実際薬草を取りに行こうなどと言わなければ。後悔と共に心の中でノアに謝罪を繰り返す。
 思えばエリスは何度、こうしてノアに迷惑をかけて悔いただろうか。繰り返す愚かな自分に唇を噛む。

 今回もノアのおかげで、転落したもののエリスはほぼ無傷で済んだ。代わりにノアは左肩に大けがをしてしまった。
 辛うじて家まで運び、急いで隣村の医者を呼び治療したが、思いの外ノアの傷は深く。彼は高熱を出し、もう丸一日もの間うなされている。

「ノア……ノア……お願い。死なないで」
 その願いに応えるのは荒い息遣いだけだ。うなされているのか、ノアは更に眉間にしわを寄せると首を緩く振る。
 その動きに合わせて、冬の夜空を思い出すような澄んだ青の石がノアの胸の上を滑った。

 エリスはノアとはもう十年以上一緒に暮らしているが、そのペンダントがノアの胸元を離れたのを見たことが無い。

 肌身離さず持っていることから、余程大切なものなのだと言うことはわかった。ノアもまた、エリスと同じように孤児である。もしかしたら母親か父親の形見なのかもしれない。

「う……んぅ……」
「ノア!」
 寝返りをうとうとするノアの首に、鈍色の鎖が絡まる。汗をかいているし、このままでは怪我にも触れてしまいそうだ。

 エリスはそっとノアの首に手を伸ばす。金具を外してペンダントを取ってあげた方が良い気がしたのだ。

「ノア、ごめんね。一旦はず……きゃっ‼」

 瞬間、青白い光がエリスの手を弾く。ノアの胸元の石が眩い光を放ち、ふわりと宙に浮いた。

「なに……これ……?」
 宙に浮いた石がぱちぱちと、小さな稲妻を幾つも纏いながら震える。薄暗かった部屋は石から発せられる青白い光で真昼のように明るくなった。
 美しくも異様な光景にエリスは茫然とする。しかし窓が風で大きく揺れたことで、ようやく我へと帰った。

「……っ! サラ姉! 大変! ノアが!」
「エリス、大丈夫だから……」
 不意にノアの柔らかな声がエリスの耳へと届く。
「大丈夫、そのうちおさまる、から……」
「ノア!」

 弱々しくノアは笑うとエリスの手を握る。すると彼の言葉の通り、ペンダントはパチリと一回大きく音を立て、その光をいっぺんに失った。
 糸が切れたように石がノアの胸の上に落ちる。あっという間の出来事にエリスは口を開けたまま呆けてしまう。
「ね? 大丈夫、これは変なものじゃないから……大切な、ものなんだ……これがあったから僕は……」
「ノア……?」

 その言葉の続きは彼の口から紡がれなかった。代わりにノアの瞼が落ちて、健康的な寝息が聞こえてくる。

 繋がれたままの手の温度は、いつの間にかエリスとさほど変わらない程度にまで下がっている。
 峠を越したのかもしれない。安堵の息が漏れ、緊張が一気に解けたことでどっと疲れが身体にのしかかってきた。

「ノア……早く元気になって」

 エリスはノアの手を両手で包む。頬を寄せると、急激な眠気に襲われた。
 病弱な彼を守ってあげなくては。沢山学び、早く大きくなって。治療院を作って、彼や村の皆を救えるような人間になるのがエリスの夢だ。

 彼は大切な大切なエリスの家族だ。かけがえのない存在で、そして――。

 そして一体何なのか。答えを出す前に、エリスは深い眠りへと落ちて行ってしまった。

 ∞∞∞

「あら、エリス寝ちゃったの?」
「うん。エリスには迷惑かけちゃったね。サラ姉にも。ごめんなさい」
 サラに頭を下げると、ノアは膝の上で健やかな寝息を立てるエリスを見つめた。穏やかな青の瞳を細めてノアは一昨日のことを想い出す。

 本当に一昨日は驚いた。エリスがいきなり走り出したと思ったら、行商人を庇って崖から落ちたのだ。
 異変に気付き後を追ったから助けられたものの、危なかったことには変わりない。場所が裏山ではなく、村の外ならば確実に助けることは出来なかっただろう。

「エリス……」

 彼女の茶の髪を撫でる。太くて艶やかな髪は、先が様々な方向に跳ねている。それをボサボサと揶揄する輩もいるが、ノアはそうは思わない。元気な彼女らしくて、とても可愛い。
 温かみのある琥珀色の瞳も、健康的に焼けている肌もすごく素敵だ。日に焼けたのも、夏頃から腰を痛めた隣のロダス爺さんの代わりに畑仕事に出ているからで。優しい彼女をノアは誇りに思う。

 ただ、自分が手伝えないのは悔しい。畑が村の外でなければ、絶対に自分も手伝っていたのに。一緒に居られる時間だって増えたはずだ。

 この身体が不便だと思ったことは少ない。が、時々もどかしく思う事もある。
 別に村の外に出られなくても、エリスの傍にはいられる。が、四六時中となるとそれは難しい。
 一方でこの身体にならなければ、彼女の傍に居られなかったというのも本当だ。彼女と会うことも叶わなかっただろう。

 だから自らの身にかかる魔法には感謝している。
 それにこれは未だ会えない母の愛でもある。息子を守る為に、身を切る思いでかけてくれたことはノアにもわかる。

 月に一度の手紙でしか知ることの出来ない本当の家族のこと。この先も決して生きて合うことはないが、それで十二分だ。

 今も自分を忘れないでいてくれる血の繋がった家族と、ただの「ミニアム村のノア(そのままの自分)」を愛してくれる今の家族がノアにはいる。自分が誰よりも幸せな人間だと言い切ることがノアには出来た。

「サラ姉、確認だけどエリスに怪我はないよね?」
「ええ。ないわ。右足を少し擦りむいたけどそれだけ」
「えっ⁈ 消毒は? 医者には診てもらった? 手術は必要⁈」
 顔色を変えて身を乗り出すノアに、サラは苦笑する。

「落ち着きなさいよ。落ち着きのない男はエリスも嫌いだと思うけど」
「嘘⁈ わ、わかった……気をつける」
 ノアは深呼吸を繰り返し、息を整えるとエリスを見た。

 守りきったと思っていたのに、彼女は無傷ではなかった。情けない。

 自分がもう少し強く頑丈な人間だったら、運動神経が良く俊敏に動ける身体だったら。
 ノアは悔しさに唇を噛んだ。

「サラ姉……この間の話だけど……」
 徐にノアは口を開く。昨日サラに相談した内容を、彼女は検討してくれただろうか。

「ああ。ラングロワさんに口利きして欲しいって話? 駄目」
「なんで!」
「子供だから」

 真っ当な返しでサラはノアを一蹴する。
 ノアはぐうの音も出ない。確かに自分はまだ十三。この国では十四歳以下の者を雇用してはいけない。それは法律で決まっている。
「でも……」

 医者になる為には早い段階から専門的な勉強をするべきだ。この図書館もない辺境の小さな村で、ノアが医学を学ぶには専門書が比較的多い薬局に勤めるのが一番手っ取り早いと思ったのだ。通いの医者との接点も作れる。そして何より、働けばお金を稼ぐことが出来る。

「お小遣いを増額して欲しいなら私からも頼んで……」
「いい。それじゃあ意味が無い。薬局じゃないと。……それに僕が稼いだお金じゃなきゃ指輪は買えない」
 ノアはきっぱりとサラに告げ、悔しそうに唇を噛んだ。
 ところが至極まともな事を言ったはずなのに、サラは目を丸くさせる。

「ちょっと待ってノア。あなたなんの指輪を買う気なの?」
「サファイアかルビー? ただオパールも綺麗だしシンプルにプラチナだけでも良いかなって。迷ってる」
「そうじゃなくてねぇ……どのみちそんな高価なもの、この村じゃ目立つわ」
 サラの言葉にノアは「そっか」と納得し頷く。

 確かにこの村では目立つ。胸元のペンダントでさえ、銀の鎖である事が皆に知れたら子供が日常的に身に付ける物ではないと噂になってしまうかもしれない。杞憂かもしれないが、念のためにもノアはいつもペンダントを服の下に付けていた。

 この村でペンダントを持っていると知っているのはサラを除けばエリスだけだ。そしてこの先しばらくは、意味を知るのも彼女だけで良い。

 ノアは頬を緩ませると膝の上のエリスを撫でた。きめの細かい滑らかな頬に触れる。
 目立てば彼女に迷惑をかけてしまう。指輪に宝石を使うのは辞めよう。繊細なつくりにすれば、他の金属でも見栄えは良いかもしれない。

「まさかあなた……それ結婚指輪じゃないでしょうね? 誕生日のプレゼントよね?」
「違うよ。婚約指輪。エリスの誕生日に渡す予定だけどプレゼントはまた別だよ。結婚指輪は医者になってエリスとの夢を叶えた後もう少し良いやつを……」
「ちょっ、ちょっと待ちなさい! あなたエリスに告白もしてないでしょう⁈」
「それはまだ、ちゃんとしてないけど……」
 ノアは頬を真っ赤にさせると眉を下げた。

 確かにまだ告白さえもしていない。
 しかしエリスは自分のことが好きでなくとも大嫌いではないと思う。
 彼女が特別に思いを寄せる相手も見た所存在しなさそうだし、逆にエリスに告白してきた輩も幸運なことに今まで見たことが無い。

「どうせ外堀から埋めようとしてるんでしょう? 打算的で狡い人間はエリスが一番嫌うと思うけど?」
「うっ……サラ姉はそればっか……。でも、そうしないと……」
 確かに真面目なエリスなら、婚約すれば相手の事を意識してくれるだろうという思惑はあった。

 でも仕方ないではないか。エリスが「|ミニアム村のノア(そのままの自分)」を親子や兄弟のように愛してくれているという自信はあっても、生涯の伴侶として選んでくれるという自信がノアにはない。

 身体も弱く、村からも出られない。お金がある訳でもなく、権力や地位がある訳でもない。
 比較的容姿は悪くないとサラには言われたが、エリスが良いと思ってくれているかはわからない。
 自分が良い人間だという自信もなければ、魅力的な人間だとも思えない。ノアが持っていないあらゆるものを、何か一つでも持っている人間はこの村にも沢山いる。

 そんなノアを彼女に意識して貰うには、最終的に選んでもらうには。告白とともに婚約を申し込むのが一番良いと思ったのだ。

「僕はいつまでもエリスの弟扱いだよ……」
 エリスの傍を離れないことで、エリスにはノアが居るのだと牽制を含めたアピールも続けている。おかげか、今ではエリスとノアは二人でワンセットという扱いだ。

 しかしそれは「元気な姉」と「お世話をする弟」から抜け出せていない。村の人に口々に「そろそろエリス(おねえちゃん)のお世話なんかするのは辞めたらどうだ」なんて言われ続けるのはもう耐えられない。

「あまりノアが構うとお互い結婚出来なくなるぞ」「もしかして好きなのか? 他にもっと可愛い子狙えるだろう?」に関しては相手を殴らずに笑ってやんわりと否定した自分を褒めて欲しい。

 誰が姉だ、弟だ。エリスとノアは同い年だ。
 それにエリスとの結婚はノアがする。将来の夫が妻の心配をするのは当たり前のことだ。ノアがエリスを愛しているということが悪いことだとでも言いたいのか。第一、エリス以上に可愛い子などこの世に存在しない。

 ノアは未だエリスよりも背が低いが、これからぐんぐん伸びる予定だ。
 いつか彼女を片手で抱え上げられるくらい力だって強くなるはず。その為に日々、体調に響かない程度には身体を鍛えている。エリスに見つからないように、剣や表立って言えないような戦い方(後ろ暗い戦闘術)もサラに見てもらっているのだ。

「エリス……」
 真っ赤な彼女の唇に触れる。
 ふにふにと柔らかな感触を確かめて、自分のものと合わせられない事に、どうしようもない焦りともどかしさを覚えた。

 彼女の心が欲しい。エリスにもノアだけが特別だと思ってもらいたい。

 この世界がノアとエリス二人だけだったら、彼女はノアを間違いなく選んでくれるだろうか。口付けを受け入れてくれるだろうか。
 彼女が許してくれるならば今すぐ閉じ込めて、ノアもそこに入って暮らすのに。

「ままならないものがあるのね。あなた達のような人間にも」
 クスクス笑うサラが誰と自分を一緒くたにしているか理解し、ノアは唇を尖らせた。
「あるよ。特に僕は兄上達とは全く違う。ただ血が繋がっている、それだけだ。何も持ってないから……だからエリスに選んでもらう為に頑張るんだ」

 エリスはまだぐっすり眠っている。上下する肩にはノアの上着がかかっているが、そろそろベッドへと運ばないと風邪を引いてしまうだろう。
 このままノアのベッドへと運んで抱き締めて寝たら……それは怒られてしまいそうだ。もう少し幼かったら、ご飯もお風呂も寝る時も。ずっとずっとくっついて居られたのに。

「エリス……」
 ノアはエリスの頬に唇を寄せた。ちゅっと軽く音をたてて口付ける。

 今はこれだけ。でもいつかは唇にする事を許される間柄になりたい。それだけは、どんなことがあっても誰にも譲れず、諦めることなど出来なかった。