missing tragedy

cock-and-bull……¡

それぞれの苦悩 ②

  言葉を失うエリスに、ノアは飛びつかんばかりに駆け寄り強く抱き締めた。最初に鼻に届いたのは爽やかなベルガモットの香り。それからすぐに懐かしい香りが届く。春の日差しのような柔らかなノアの香りに、エリスの心は乱される。

「会いたかった。僕の可愛いエリス。ただいま」
 淡い金の髪が頬をくすぐり、早鐘を打つ音がエリスを包む温かなそれを通して伝わった。同時に瞬く光の中で何か細かいもの散っているが見えて。それがノアの鼓動と、彼が持っていた花束から散った花びらだと気付くまで数秒かかる。
「の、ノア⁈」
 ノアの腕から逃れ、エリスは改めて目の前の青年を見つめた。
美しい面立ちは変わらず、しかし少女と紛うような儚さは薄れ、代わりに凜々しさが加わっている。真夜中を映す湖のような青の瞳がこちらを見つめる色は変わらず熱く、甘やかなものだ。左耳には、エリスが贈った赤いピアスが以前と同じ位置に光っていた。
 ただ、エリスにわかったのはここまでだ。あとは訳が分からない。何故彼がここに居るのかも。告げられた言葉の真意も。そもそも目の前にいる青年がノアだと言うことさえ、にわかには信じられない。
「うん。ノアだよ。君のノアだ。君だけの僕だよ」
「……っ」
 目を瞬かせるエリスの唇にノアの唇が触れる。下唇を舐められ、エリスはぎゅうっと目を瞑った。
 それはノアとエリス二人だけの合図だ。深く口付けたいと、口を開けて欲しいと強請る時の、三年半前は当たり前のようにしていた合図。

「っ……の、ノア‼」
 エリスは胸を押し返し、ノアを引き離した。今度はノアが瞬きし、首を傾げる。しかしすぐに困ったように眉を下げ、瞳を細めた。
「ごめん。つい嬉しくて。誰も居ないし良いかなと思ったんだけど……」
「そういうことじゃなくて!」
「……? ああ。びっくりさせたかったから少し予定を早めたんだ。驚かせてごめん」

 一人納得したようなノアの反応にエリスの目眩はひどくなる。幻影を見ているのだろうか。第一、王族であるノアがこんな所に供の者も連れずに来るなんて、信じられない。
(何を言っているの? 大体この人は本当にあのノア?)
「驚いたも何も、なんで……こんなところに一人で、大体政務はどうしたの?」
 エリスの様子に、ノアの澄んだ青の瞳が僅かに揺れる。硬くなった表情からは、困惑の色が見て取れた。
「えっと、してるけど? 一人って……? サラ姉から、聞いてない?」
「何も聞いてないわ。ノアの話自体ここ二年近く一度も」

 その言葉にノアの表情が固まり、大きく見開かれた瞳が困惑と恐怖に染まっていく。
「あのさ、エリス。確認なんだけれど……もしかして、王都へ行った後のこと、サラ姉から聞いてない? 僕が帰ってくることとか、こっちの様子とか」
 震える唇から告げられた言葉にエリスは絶句する。そんなもの一切聞いたことがない。ノアの様子どころか、エリスが一人で夢を叶えると決意したあの日から、サラとの間で彼の話題が出ることすらなくなった。もちろんノアと連絡を取っていたなど、初耳だ。
 エリスがやっとの事で首を縦に振ると、ノアは脱力したようにその場にうずくまる。それ以降微動だにしないノアに、エリスもどう声をかけて良いかしばし躊躇う。

 未だ状況はつかめずとも、何か行き違いがあり、それにサラが一枚噛んでいることは間違いない。そしてノアがショックを受けていることもまた。
 膝をつくノアにエリスも屈み、肩に手を伸ばす。事情を知らないどころか、現状すらよく飲み込めていない自分がかけられる言葉は少なく、エリス自身混乱もしている。だが、それでも衝撃に膝をつく大切な幼馴染みに、手を伸ばさずにはいられなかった。

「ノア、大丈夫……? とりあえずここはこれから冷えるし、サラ姉に話して家に……」
「エリス……」
 伸ばした手を掴まれる。向けられた瞳にエリスは再び言葉を失った。今にも泣き出しそうなそれに、眉間に寄せられた皺と引き結ばれた唇に、心臓が止まりそうになる。

「もしかして三年半の間、一度も僕から連絡がなかった?」
「……え、ええ」
 正直に答えればおそらくノアを傷つけてしまうだろうことは薄々気付いていた。しかしほかにどう答えれば良いのかエリスにはわからない。仕方なく素直に首を縦に振ると、ノアの瞳から全ての感情が消える。しかしそれもすぐに痛々しいまでに悲しい色へと変わった。

「ごめん……」

 たった一言に息が止まりそうになる。しかしそれもつかの間。俯いていたノアはパッと顔を上げると、再びまっすぐにエリスを見つめた。近づいた澄んだ瞳に迷いは見えない。
「エリス、出来たらきちんと話をしたい。サラ姉にも確認したいことがあるし、本当は今すぐ家で話したいのだけれど……この後またすぐに王都に戻らなくてはいけなくて」

 段々と声が小さくなるノアに、エリスは眉を下げ微笑んだ。胸の奥が鈍く痛む。
(なんだ。やっぱりそっか。ノアが本当に帰ってくるわけないよね)
 思いの外、自分はノアの帰還が一時的なものだということに落胆しているのだと思い知る。
 先ほどの口付けも、彼にとっては旧友への挨拶程度、或いはまだ正式に別れていない恋人への挨拶程度だったのだ。「君だけのノア」だなんて言葉も言葉の綾か、突然の再会に驚いたエリスの聞き間違えに違いない。
 なのに、もしかしたらエリスの元へ帰ってきてくれたのではないかと思ってしまったなんて。自分が今から治療院を開くためだけにしようとしている事も全て忘れて、彼との未来をもう一度想像しかけたなんて。
 浅はかな自分を恥じてエリスは俯く。現実を忘れて妄想に逃げようとするなんて情けない。

「わかったわ。連絡して貰えればサラ姉にも話しておくから、急いでるんでしょう?」
「ごめん。本当にすぐ、済ませてくるから。その時は全部、全部君に話したい」
 そう言いノアはエリスの左手を取った。そして驚いたように目を丸くさせ、固まる。
 見つめる先は左手の薬指。先ほどフェリクスから貰った指輪が周りの光を反射して微かに煌めく。
「あの、これは……」
 固まるノアに対し、咄嗟に説明しようとするものの、唇から出るのは意味をなさない言葉ばかりだ。
 ノアにはきちんと話さなければならないと思った。しかしフェリクスや治療院の事を話せば、おそらくノアにはそれが契約ありきの結婚では無いかと疑われてしまうかもしれない。家族や幼馴染みだけでない、恋人でもあったノアに、隠し通せる気はしない。

「なに、これ……」
 呆然と呟くノアを見続けることは出来なかった。
「指輪……」
「そうじゃなくて、これエリスが自分で買ったの? ……僕が贈った指輪、気に入らなかった?」
「違う……けど」

 まるで喉の奥に何かが詰まってしまったようだ。きちんと答えたいのに、答えなければならないのに、うまく言葉が出ない。
 視線を彷徨わせ、しどろもどろになるエリスをノアはじっと見つめた。そしてしばしの沈黙の後に深く息を吐く。
「…………わかった。そのことも含めて、ちゃんと話したいから……」
 凜とした声に思わず顔を上げると、寂しそうな深い青の瞳が映る。やっとの思いで首を縦に振ると、ほんの少しだけノアの頬が緩んだ。
「愛してる。これからしばらく、また不安にさせてしまうだろうけど、絶対に全部話すから。……また君の隣に立たせて」

 耳元で囁かれたものにエリスの胸はざわつく。告げられた内容よりも、その声音に、得体の知れない不安を覚えた。
「ノア、」
「っごめん、もう行かないと……」
 離れていくノアの温度にエリスは手を伸ばしかける。しかし今更何が出来るのかと、冷静な自分がそれを阻んだ。

「気をつけてね」
 何度も振り返りながらも、離れていくノアの背中へエリスは叫ぶ。口が裂けても奥底にある 望み つづき はいえない。無事を祈る言葉だけ、それが最善だ。
 まだ混乱はしていた。情報量の多さに、思考も感情もついていけない。それでも、再びノアと会った際の答えは一つしかない気がした。

(そうよ。今の私には何も出来ない。何もしちゃいけない。ノアを支えるなんておこがましいわ……今でもノアが望んでくれているのなら、尚更よ)
 再び静けさを取り戻した洞窟内で、エリスは唇を噛む。

 もしも、三年間何かしらのすれ違いが意図的にあったとして。ノアやサラからきちんと説明があったとして。一体今更何になるのだろう。断ち切れない想いに終止符を打つどころか、超えられないものを再確認し想いだけがお互い残って、その先に何かがあるとは信じ難い。簡単に幼馴染みに戻れるとは思えない。
(私にはもうベークマンさんとの約束がある。約束がなくたって、ノアは王族。私は一般市民。なんでノアが帰ってくれば、またあの幸せが戻ってくるなんて、一瞬でも思ったの? 幼馴染みとしてノアの手を取ることさえ出来ないのに……)

 エリスは糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちる。足下できらきらと輝く『魔鉱石』が転がって、何かに当たって、消えた。