missing tragedy

cock-and-bull……¡

変わらないもの、変わっていくもの ①


「エリス姉ちゃん! 聞いたよ! 病院作るんだって?」
 通りを歩くエリスを呼び止めたのは、近所に住む茶の髪の少年であった。手に棒切れを持った彼の瞳は、魔鉱石よりも美しく光り輝いている。
「良かったよ本当に! これからはじいちゃんの発作がいつ起こっても安心だね」
 エリスは満面の笑みを浮かべる少年と目線を合わせるために屈んだ。
「そうね。でも安心は言い過ぎよ。発作は無い方が良いわ。ジウもお爺ちゃんのこと、あんまり困らせちゃだめだからね」
「ちえっ……この間のこと母ちゃんから聞いたの? あれはちょっとした冒険だったんだよ」
 唇を尖らせる少年に苦笑する。この年の子供にとっての「ちょっとした冒険」は時に大人の肝をおおいに冷やす。彼と同じように、エリスもまた過去サラやハンナの肝を何度も冷やした。
「元気なのは良いけれど、程々にね」
「はいはい。またね! ねーちゃん」
「気をつけてね」
 少年は白い歯を見せると、踵を返し走り去っていく。

 空は茜色に染まり、夜はすぐそこまで来ていた。あれから、ノアと再会した日から、既に十日の時が経つ。
 あの日からエリスは度々考えても仕方の無い事を考えては悶々としていた。

 一つはノアとのこと。
 これまでの経緯をサラに聞く勇気は未だ出ず、このまま待って全てを聞いたとして何も変えられないという無力感にも似た感覚は拭えない。それに信頼してくれているフェリクスや期待に満ちた村の者の瞳を自分一人の都合で裏切り、全てを捨てて身分違いの恋に溺れるほど、エリスは愚かな人間にはなりたくなかった。

 そしてまた一つは、フェリクスとのこと。
 あんなに頻繁にきていた連絡があの日からぱったりと止んでしまったのだ。当然医師の斡旋の話も進められず、それどころか土地や建物の契約書も届いていない。
 忙しいのかもしれないが、今まで三日と空けずに連絡を取っていたフェリクスの性格を考えると、何かあったのではないかと心配になる。
 これまで一度もエリスからフェリクスに連絡を取ったことはなかったが、もう三四日経って音沙汰がないようならば、一度手紙を出し状況を確認した方が良いかもしれないと思っている。彼の身に何か大きな災いが降ってないと祈るばかりだ。

(経った十日なのに、胸騒ぎがする……。ベークマンさんの事は忙しいと考えるのが妥当だし、ノアの事だって……十日で連絡がくるわけがないのに)
 エリスは余計な考えを振り払うように首を振った。開院に向けて、今出来ることをするのが最善だと自らに言い聞かせる。
 治療院で使う器具や消耗品については、そろそろ入手先と話し合いを進めなければならない。備品についても現物をある程度見ておいた方が良いだろう。
(週末にでも隣町へ行って準備を進めなきゃ。ある程度の納品の期日なら出せるだろうし……帰りに家具店にも寄って……)
 エリスは思考を意図的に近い未来へと向けさせ、歩みを早めた。


 ∞∞∞

 牛舎の横を通り、白く塗られた木戸を開けたエリスは、微かに耳に入ってきた甲高い声に目を瞬かせた。
 発生源はおそらく庭の奥、エリスとサラが住む屋敷からだ。穏やかでない声にエリスの表情もこわばる。
「サラ姉っ」

 玄関の扉を跳ね除けるように開け、居間へと向かった。廊下に立てかけてあった箒を掴んだのは念のためだ。古びた扉を壊さんばかりの勢いでエリスは居間へと飛び込んだ。
「大丈夫?! なにかあっ……ノア!?」

 開け放った扉の先、ダイニングテーブルに向かい合って座る二人の陰にエリスは息を飲む。
 一人はエリスと現在同居する義姉、サラ。こぼれるようなアーモンド型の大きな瞳をつり上げ、鬼のような形相で目の前の男を睨んでいる。
 そしてもう一人はこの国の第三王子であるノア。眉間には深い皺が寄り、元より色白の顔は心なしか青く見えた。
 二人の間、卓上には大きな薔薇の花束と隣町の高級菓子店の紙袋が置かれている。不穏な空気を纏う空間には不似合いな代物に、エリスは状況をつかめずに瞬きした。

「エリス……」
 箒を持ったまま呆然とするエリスとノアの瞳が合う。困惑するような表情と悲しげな色の瞳にエリスは言葉を失ってしまった。
「エリス、お帰りなさい」
 いつもと同じ出迎えの言葉だというのに、背中が薄ら寒くなる。
 外まで聞こえた甲高い声はどこへやら、サラは落ち着き払った様子だ。ただ発せられた凍えるほどの冷たい声音と表情は、エリスに幼い頃に見た――ほんの出来心でいたずらをしてノアに怪我をさせてしまった時の――彼女を思い出させた。
 自分とノアの為に叱ってくれたことには感謝しているが、成長した現在も怒った彼女の表情にはどうしても身体が強ばり、背筋に薄ら寒いものが走ってしまう。エリスにとって既にそれは条件反射と言っても良かった。

「あの、えっと、サラ姉……ノアは……」
「『この方』、貴方に会いに来たそうなの。ふざけたことを仰るから今すぐお帰り頂くところ」
「サラ姉、僕はふざけてなんか……」
 身を乗り出すノアに、サラは刺すような視線を向ける。エリスからだとサラの横顔しか見えないが、正面から見たらさぞかし迫力があるだろう。
「『うちにいたノア』は死にました。それに『ノア殿下』がこのような場にいらっしゃるはずがございません。よって『ノア殿下を語る不審者』としてこの世から居なくなりたくなければお帰りください」
「でも……」

 引き下がらないノアにサラの眼差しが更に鋭くなった。そして。
「でも? ですって?」
 ドンッという大きな音と共に、その場の空気が震える。サラが両手で食卓を叩いたのだ。
「お帰りください。貴方たち兄弟にはほとほと困ってるの。いつだって自分勝手に力を利用して、相手のことも周りの事もお構いなし。強引に事を運ぼうとするから、好きな女の心一つ、まともに得られないのよ」

 彼女はうなるような低い声でノアにとどめを刺すように告げると、エリスへと視線をやる。あまりにも鋭いそれに、エリスまでびくりと肩が揺れた。
「エリスもお帰り頂いて欲しいでしょう?」
「えっと……サラ姉、落ち着いて」
「エリス……!」
 ノアは勢いよく立ち上がると、そのままエリスに駆け寄り両の手を取った。美しくも儚く悲しげな表情にエリスの心臓が跳ねる。
「の、ノア……」
「ごめん、エリス。本当にどう詫びて良いかわからないけれど……本当にごめん」
「う、うん?」
「事情があって……ううん。言い訳になるね。全て僕の責任だ。君に辛い思いをさせたこと、すまなかった」
 ぎゅっと目をつむるノアのまなじりにはうっすらと涙が浮かび、エリスの両手を握るそれは震えている。
「良いよもう。別に。変な意味じゃないからね。会いに来てくれてありがとう」
 その言葉は、すんなりとエリスの口から漏れた気がした。しかし続きは喉が詰まってうまく続けられない。
「私もきちんと……きちんと話をしたかったの。まずはこの間の……ノアの気持ち、嬉しかった」
「エリス、それって……」
 不安げな表情のままのノアに、精一杯の笑顔を向けた。涙が出そうだが、今泣いてはいけない。

(大丈夫。このまま言おう。ちゃんと言える。笑って送り出さなきゃ。会いに来てくれて、あの時のことを気にかけて貰ってたってわかって本当に嬉しいもの。それで十分、それ以上は期待しちゃだめ……)
 恐れていたよりも自分はずっと整理がついていると、心の中で繰り返す。揺れるノアの青い瞳は、見えないふりをした。

「三年の間の詳しいことはわからないけれど、また会えて嬉しかった。元気そうで良かった」
「エリス? 何か勘違いしていない? 僕は諦める気なんか――」
 瞬間、ノアの声を遮るほどの大きさの、乱暴なノック音がする。続けて野太い男の声がした。
「おい、居るのはわかってるんだ。エリス・オルブライト!」
「は、はいっ?!」

 突然自らの名を呼ばれエリスは反射的に返事をしてしまう。それが失敗だと気付いたのは数瞬後。耳をつんざくような音をたて居間のドアを蹴破られた後、男の侵入を許してしまった時だった。
「悪ぃな。脆そうな扉だったんでつい」
「どなたですか? ……ってお答えしてくれそうな方とは思えませんけど」
「そうだな。名乗るほどのもんじゃねぇよ。ただのしがない金貸し、それだけだ」
 男はニヤリと口角を上げるとサラとエリスを交互に見やった。警戒したノアがエリスを背に隠し、更に二人と男の間にサラが入る。
「あんたじゃない……な。だとしたらその優男に守られてる嬢ちゃんが……あーやっぱりな。お前がエリス・オルブライトか」
 そう言うと男は一歩前に出る。借金などした覚えは全くない。もちろん金貸しを名乗る彼にも見覚えなどなかった。

「だとしたらなんなのかしら? 勝手に家に上がり込んで、貴方随分とお行儀が悪いのね」
 エリスの代わりに、サラが答える。心底呆れるような深いため息を吐く彼女とは対照的に、ノアの背中からは殺気にも似た緊張が伝わってきていた。
「お行儀良くしてると返してもらえるもんも返して貰えなくなるからな」
「返すも何もエリスは借金をするような子ではありません。何かのお間違えでは?」
 首を傾げ出口を指し示すサラに、男は噴き出すように笑い出す。
「ハハハ、確かに! 確かに俺から借金なんかしちゃいねぇ。だがな、フェリクスっつーオルブライト嬢の大事な旦那は俺から沢山借りてるのよ」

 その言葉にエリスは驚きを隠せなかった。確かに彼は調子の良い所はあったが、羽振りが悪いとは思えない生活や身だしなみをしていたし、タチの悪い金貸しからわざわざ金を借りるような浅慮な人間には見えなかったからだ。
「はぁ? 旦那って、ベークマンさんのこと? 彼はまだエリスと結婚してないわ。何の義務もないはずでしょう?」
「そりゃただの婚約者ならな。ただ保証人となれば話は別だ。婚約者だろうが友人だろうが、たとえそれが何の関係の無い人間だって責任はとってもらわにゃ困るんだよ。あいつはもうこの国にはいねーし、あんたから取るしかねーだろ」
 そう告げると男はポケットから一枚の紙を取り出す。その文面とすぐ下に書かれたサインにエリスたち三人は息を飲んだ。
「ほら、ここにもあるだろう? フェリクスの野郎とオルブライトさんのサインがよ。『フェリクス・ベークマンが期日までに金8000万グルを返済できない場合、利息分も含め二週間以内に下記の者が代わりに返済または代償を払うこととする』ってよ」
「そんなの偽物よ」
 一蹴するサラの言葉にひょうひょうと男は答える。
「偽物じゃないが写しだ。本物破られちゃたまんねーからな。つーことで、警察に突き出されたくなけりゃ、返してもらおうか。利息含めて1億5000万グルを」
 男のぎょろりとした目がエリスを捉えた。

 1億5000万などポンと簡単に返せるはずがない。そんな大金、この辺ならば余裕で広大な庭付きの大きな屋敷が二軒は買える。
 しかし男の見せた紙のサインは間違いなくエリスのものだ。紙自体は見たこともないけれども。
 サラとノアの視線までもがエリスに集まる。信じられないとばかりにひそめられる義姉の目と、不安げに揺れるノアの目にエリスまで自信がなくなった。
(あんなサインした覚えない……第一サインをするような事なんて……)

 そこまで考えて一つの疑惑が生まれる。そう言えば最近エリスはサインをした。それもフェリクスの作った契約書に。
「む、無理です……そんな急に」
「別に俺も鬼じゃねえ。あんたが家を処分したり他から借りたりする時間くらい待ってやるよ。ただその期間の利息も含めてきっちり払っては貰うぜ。最終的に足りない時のあんたと姉さんのシゴトや保険だってちゃーんと用意してるさ」
「そんな……」

 その時、震えるエリスの肩に温かい何かが触れた。そのまま懐かしい香りがエリスを包む。
「僕が払います。エリスの夫はこの僕ですから」
「ノア!」
「なっ……!」
「本当か?」
 言葉を失うエリスとサラをよそに、ノアは淡々と嬉々とする男に続ける。
「本当です。1億5000万グルですよね? 小切手で良いですか?」
「ああ、構わねえ」

 男は用意してたかのように胸元から用紙とペン、インクを出した。ノアはまるで買い物メモをするかのごとく気軽さで金額を書こうとする。
「ノア、辞めて。大丈夫だってば」
「三枚に分けておきますか? それとも一枚で?」
「じゃあ三枚で頼む」
「ノア……!」

 ノアを止めるためにペンを持つ腕をエリスは掴んだ。しかしやんわりとその手はいなされる。
「君を失いたくないんだ」
 切なげな瞳と声にエリスは何も返せなくなってしまった。原因を作ったのは全て考えの浅いエリスで。責任を取るべき人間は決してノアではない。
 今すぐにでも止めなくては。そう思うものの、男の吐いたサラを巻き込むような言葉を考えると言葉さえもどこかへ行ってしまう。
 止めることも出来ず、かと言って今の状況をを打開する策も金もエリスには用意できないことが情けなかった。

「ハハハ。オルブライト嬢の相手はおかしな奴ばっかだな。あのくそ野郎も、女顔のにーちゃんもよ」
「すみません。原本を。エリスに渡せるように、持っているでしょう? 本物がないのならサインは出来ません」
「ちゃっかりしてるとこも野郎にそっくりだな。嬢ちゃんの趣味か」
 ノアに急かされ原本を差し出した男が、エリスの肩に触れようと手を伸ばす。しかしその手はノアによって遮られてしまった。 

「誤解しているようですが、その『フェリクス』という男とエリスは何の関係もないですよ。婚約の話も彼の勝手な思い込みじゃないですか?」
 ノアの射るような視線に、男は一瞬だけ怯んだのか続けようとしていた言葉を見失う。
「……ああ、そうだな。そうかもな」
「書けましたよ。玄関はあちらですので」
 ノアは男ににこりと微笑むと、掴んでいた手を離し玄関を指さした。柔和な笑みに反して、瞳からは全く温もりを感じられない。

「じゃあまた、機会があれば。な」
 男は作り笑いを浮かべながら大股で部屋を出ていった。
 残されたエリスは呆然とその背中を見送る。難はひとまず去った。
 しかし結局エリスは全く関係のない彼に、とんでもない額の借金を肩代わりさせてしまった。
 彼は恐らくきちんと話せばエリスが共に居てくれるだろうと踏み、これからの生活を考えて払ったに違いない。これから共に人生を歩む相手だから、助けてくれた。
 そしてエリスはそれを理解し、応えられないことを知りながら傍観していた。卑怯者と言わずになんと言おう。

(ノアの気持ちをこんな形で利用するなんて……私最低だ……)
 目頭が熱くなる。悔しさと罪悪感と無力感でエリスの心中はぐちゃぐちゃだった。
 せめてこれ以上卑しくならないように、エリスは涙を堪えた。強く握りしめた拳が震えるのを必死にもう片方の手で押さえる。

「エリス……?」
「ノア、ごめんなさい!」
「ええと……それは……?」
 首を傾げるノアにエリスは頭を下げる。ノアの疑問にエリスが答える前に、サラが言葉を次いだ。

「私からもお礼を言うわ。1億5000万も……。あの人が本物にしろ偽物にしろ、今大事にならなくて良かったわ。しかし本当にベークマンさん、海外に逃げたりしたのかしら? あの契約書だって正式なものだか……」
 ため息交じりにぼそりと呟かれたサラの言葉にエリスもハッとなる。突然扉を蹴破り、大きな声で告げられたためすっかり信じてしまっていたが、サラの言うとおり信憑性は全くない。

「と言うことで。ノア、お礼にって訳ではないけれど、今日ここに泊まることは許可します。でもきちんとエリスに話したら帰って。辛いだろうけれど、貴方の居るべき所はここでは無い。返済に関しては……私とエリスで少しずつでも返していくから。ね? エリス?」
「あ、う、うん」
 サラの言葉にエリスは曖昧に頷く。
「ごめんね。ノア。ありがとう。ちゃんと返すから」
 エリスとサラの言葉にノアは心外だとばかりに眉をひそめた。
「ちょっと待って。エリスもサラ姉も……。僕は迎えに来たんだよ。返済なんていらないし、サラ姉にもきちんと認めて欲しくて」
「ノア。私はエリスをオルコット家の養女にするのは反対よ。エリスを王家になんてやれない」
 きっぱりと告げられたサラの言葉にエリスは刮目する。

「ど、どういうことノア……?」
 答えを求めてノアに視線を向けるも、ふいと逸らされてしまう。ノアは床を見つめながら、難しい顔をしながら口籠もる。
「それは……」
「とにかく。話をするのは勝手だけれど。後で二人で、二階のノアの部屋でしてちょうだい。貴方がもしエリスに少しでも無理強いするようなことがあった時は……」
「しない」
 サラにハッキリと返すノアの声は、聞いたことがないほど冷たい。サラの表情もまた、いつになく険しいものだった。
「ま、そうでしょうね。良い? ノア。信用を取り戻したいのなら、協力して欲しいのなら正直に話すことね。私をだまそうなんて、百年早いのよ」
 ふっと緊張が解けたように息を吐き、サラはきびすを返す。

「エリス、たくさん話したいことはあるんだけど、まずはご飯にしようか。先に作ってて良い?」
「あ、ええ。ノアが作るの?」
 驚くエリスにノアは満面の笑みで頷く。
「簡単なものでも良い? 明日からはもっと凝るから」
「え、ええ??」

 ノアの発言に更にエリスは瞬きする。まるで明日からずっと、この家に居座るような口ぶりだ。
「着替えてくるね……私も手伝うから」
 痛む頭を押さえながらエリスは階段を上る。ノアの突然の来訪といい、フェリクスの事といい、ノアの口ぶりといい、一気に色々なことが起こりすぎて処理が追いつかない。長年の夢である治療院の事を考えれば、白紙になってしまったも同然で。もっと落胆しても良いはずなのに。

「エリス、着替えるの手伝う?」
 後ろからからかうような、本気とも取れるようなノアの柔らかな声がして。
「必要ないってば!!」
 振り向いた先、心底嬉しそうに瞳を細めるノアを見て。

 頬だけでなく、項までもがあっという間に朱に染まってしまった。