missing tragedy

cock-and-bull……¡

変わらないもの、変わっていくもの ③


 夜空には真っ白な月が浮かんでいた。その周りには自らを繋いでいた枷によく似た輝きの星々が無数に散らばっている。
「なんでだろうな。気分が良い」
 悪魔は口角を上げる。
 面白いことになるという自信があったから、当初ナールは黙っていた。

 三男(ノア)にかけられた呪いは、その魔術の特性から限定的だ。触れれば自らの命は消え相手をも傷つける強力なものだが、近付いた距離に応じて互いの身体と精神を同様に蝕むという特性は、呪いとしては厄介な部類だろう。直接的なものだけではなく、送った手紙や発した言葉にも魔力の残り香が残っていれば影響は避けられないという点もよく考えられている。
 複雑に組み上げられた魔術式によって生物の感覚器の精度を操作する――原理だけ説けばよく使われる一般的な魔術と大差はない。
 しかし一方で言葉や強い想いにも宿り影響をもたらす『魔力』に着眼した点や、その人間が恋い焦がれる相手にまで対象を広げている点などは呪いをかけた者の性格をよく表している。対象の人間の性格を最大限に利用した、実にいやらしい術だ。
 この純粋で浅はかな男が呪いの真相を知ったらどうするだろう。当初はそんな単純な疑問が発端の、完全なる暇つぶしだった。

 激昂し、呪いをかけたジーニアスや黙認したカルロを殺すか、自らの運命に嘆いて罪悪感や責任感から死を選ぶか。どちらも簡単に予想できる未来だが、人間が悩み、苦しみ、絶望の底に沈んでいくのは悪魔にとっては最高の食事だ。
 だからノアに会う一瞬前まで、愚かな男が何を選ぼうとどうでも良かったのだ。

「しかし、吹っ切れるとは。あの性格で? 今まで散々ウジウジしてきた癖に。あの女が絡んだのに? 目標が目前だから断行したのか? いやでも……」
 悪魔の脳裏にあの光景が映る。ノアと初めて直接出会った、あの瞬間(とき)。

 まっすぐな青の瞳は澄んでいるのに、その底は見えなかった。浅いのか、深いのかもわからず。儚いのか、強かなのかも判断できなかった。ただまっすぐに、遠くの何かを見ていたあの瞳は胸をざわつかせた。食事のことはすっかり忘れ、ナールはノアに話しかけていた。
「……あいつは誰かに似てるんだ。もう覚えてねーけど」
 悪魔はくるりとその場で一回転すると空を見上げる。ぐぅと腹が鳴った。

「どうして俺は人間の不幸より面白れーことが好きだったんだっけな」
 ぽそりと吐かれた言葉は薄闇に溶けていく。今はもう、答えられる者は誰も居なかった。


∞∞∞


 屋敷の二階、東側の一番奥の部屋の前で。エリスは動機を抑えるために深呼吸をした。
(ちゃんと話そう)

 心は決まっていた。再会した時も、告白を受けた後も、今だってエリスの答えは変わらない。ノアには誰よりも幸せになって欲しい。突き詰めればそれ以外の答えはない。
(今までみたいに、嘘や誤魔化しで取り繕って説得したって意味が無い。正直に現状と気持ちを伝えた上で、理解してもらおう。ノアは確かに少し情熱的な面があるけれど、ちゃんと人の気持ちを理解しようと努力してくれる人だし、現実から目を背ける人じゃない……)
 ノックを三回。返事の代わりに扉の向こうでガタリと大きな音がする。
「エリス!」
「っ……ごめんなさい。遅くなってしまって」
 息を弾ませ扉を開けたノアの顔が、エリスの硬い表情を確かめて僅かに曇った。薄雲のように胸に広がる罪悪感を振り払って、部屋へと入る。五年前まで彼の部屋だったここに、掃除以外で入るのは久しぶりだった。
「座って」
「だ、大丈夫です。私はここで」
 部屋に一つだけの椅子に平民のエリスが座るわけにはいかない。慌てて一歩下がるとノアの顔は更に暗くなる。
「じゃあベッドの上でどう?」
「えっ」
「前はよく二人でベッドに座って話したり、お茶を飲んだりしたよね? 大丈夫、エリスの嫌がることは絶対にしない」
 寂しそうに微笑まれてしまえば、エリスもそれ以上何か言う気にもなれなかった。勧められたそこへと座ると、ノアもまた隣へと腰を下ろす。

「エリス、まずは前にも伝えたけれど、改めてきちんと謝りたい。三年以上も……本当にすまないことをした」
 その声は少し震えていた。言い終わった後も下げ続けられるノアの頭(こうべ)を見つめ、エリスは唇を噛む。
(こういうところ、変わってないなぁ)
 何のためらいもなく頭を下げるノアはエリスのよく知る彼だ。柔和な印象に似合わない真面目さも、要領が良さそうに見えて意外と不器用な所も、あの頃と変わらない。
「君を傷付けて沢山泣かせてしまって、本当にすまなかった。……サラ姉から、さっき聞いたよ……僕が王都へ行っていた間のことを」
「そっか。情けない所を……いえ、私のことはどうか気になさらないで下さい。顔をあげて下さいませ、殿下」
 砕けてしまった言葉に慌てて今の彼に相応しい言葉遣いに直せば、ノアの表情が明らかに強ばった。
「その敬語、やめてくれないか」
 吐かれた声音は冷たく、研ぎ澄まされた刃を首筋に当てられたような錯覚に陥る。思わず肩を揺らしたエリスに、ノアは焦ったように言い直した。

「違うんだ。怖がらないで欲しい。僕はただ……エリスには一人の人間として、許して貰いたいだけで……」
「一人の人間、として……?」
「ああ。ただのノアとして。到底許されない事をしたのも図々しいのも承知の上で、許しても欲しい……諦められない」
 潤むノアの瞳がエリスを捕える。決心したばかりの心は揺れ、エリスの内で悪魔が囁き始めた。

(このまま受け入れれば、すべてに理由を付けられるわ。ノアの望みだって叶う……。でも……!)
 ゆっくりと深呼吸をし、エリスはノアを見つめる。彼の澄んだ瞳にざわめいた心も凪いでいく。心の靄は姿を消していった。
「ノア。ノアの気持ちはよくわかった」
「エリス……!」
「でも、私はノアには応えられない」

 膝の上の手が震えないように、泣いて問題から目を逸らさないように、己を叱咤する。真実を告げ、自分をさらけ出すのは勇気が必要だ。だが、ノアを偽るような真似だけはしたくない。
「私はベークマンさんを利用したわ。困っている彼の弱みにつけ込むように契約を持ちかけて……自分の失敗に宛てようとしたの」
 エリスにはノアにまだ伝えてない事があった。フェリクス・ベークマンとの事だ。

 元々彼とは常連客の紹介で出会った。眠りが浅い事に悩んでいたフェリクスの相談に乗るうちに、彼が大きな秘密を抱えていることを知ったのが始まりだった。
 有名な劇場で活躍する歌姫との恋は激しく、障害の多いものだった。未婚だからこそ付く客もいる為、二人の関係に支配人は良い顔をしなかった。しかし当初は真実の愛故の障害だとそれほど深刻に考えなかったらしい。むしろ密かに逢瀬を重ねることに酔いしれていたとフェリクスは語った。
 ところが事態は急変する。フェリクスが両親から身を固めるよう強く迫られるようになったのだ。
 『彼女にも夢がある……』そう嘆くフェリクスを見て、エリスはひどく気の毒に思った。愛し合っているのに結ばれない二人を見て、自分とノアに似ていると錯覚していたのかもしれない。

 一方、エリスは自らの不注意で、貯めていた開業資金の全てを盗まれてしまった直後だった。自分が医師になれぬのなら、せめて医師を雇い治療院を作ろうと準備を進めていた矢先の出来事だ。村ではどこから聞きつけたのか、既にエリスの治療院開院の計画は噂となっていた。

 『せめて目を逸らす事が出来れば……君と私が契約結婚するとかね』
 フェリクスの突拍子ない冗談はあっという間に真実になった。当初抱いていた眠れぬほどの罪悪感も、フェリクスの人となりを知るうちに薄れていった。

「村に治療院が出来れば病気になった人に適切な治療がすぐに出来るようになる、皆だって望んでる、ベークマンさんもお金で恋人と一緒になれるなら、誰も不幸にならない……そうやって沢山の言い訳を探したわ。だから彼に騙されたというのは違うわ。借金はベークマンさんを利用しようとした当然の報いよ」
 いつも穏やかで優しいノアの瞳が困惑の色を浮かべている。座っているだけなのに息が苦しく、見つめられる事にエリスは恐怖を覚えた。
「身分で釣り合わないからじゃない。私が狡くて卑怯な人間だから、ノアには結婚して欲しくないの……」

 じっと耳を傾けるノアにエリスは続ける。せき止めていたものは徐々に外れ、想いは意図とは真逆に溢れていく。
「……ノアは私の自慢の幼馴染みよ。努力家で、真面目で、優しい人だって思ってる。だから、罪悪感や昔の恋心なんかに惑わされずに、安心していろんな所に行って欲しいの。沢山の人に会って焦らず相応しい人を見つけて幸せになって欲しい。私は、私は今でも……」

 そこまで口にして、出かけた言葉を飲み込んだ。エリスは唇をぎゅっと噛み、涙をこらえノアの瞳を見つめ直す。
「……貴方のことを尊敬してるのよ」
 代わりに別の本心を添える。一気に話した喉はカラカラに枯れていた。

 ところが。返ってきたのは意外な答えだった。

「知ってる」

 一言。そのまま噛みしめるようにゆっくりとノアは告げる。
「全部、みんな知ってるよ。全部知って、僕はやっぱりエリスが良いと思ったんだ」
 青の瞳が和らぎ、次第に熱を帯びていく。ノアは戸惑うエリスの手を取ると、はにかむように微笑んだ。
「話してくれてありがとう。そうやってまた真っ直ぐ僕に接してくれて……すごく嬉しい」
 そんな風に優しい瞳が返ってくるなんて。覚悟も決意もエリスの全てを受け止めた上で、共に居て欲しいと思ってくれるなんて。想像もしていなかった。
「でも……ノア、あの……私、ベークマンさんの次はノアを……」
「それはないね。エリスには出来ないよ」
「でもっ……」
 当惑するエリスの唇にノアの細く長い指が触れる。

「じゃあお互い様で。どう?」
 困ったように眉をはの字に下げるノアに、とうとうエリスも言い返せなくなる。
(お互い様って、確かに形だけ見ればそうかもしれなくもないけれど……!)
 エリスの手を取りノアは跪いた。一瞬前までの柔らかさは消え、瞳は夕闇を映した湖のように深く青く、どこまでも澄んでいる。

「エリス。もう一度、僕との事を考えてくれませんか?」
 視界が滲む。温かな雫が頬を滑り落ち、返事は嗚咽となり言葉にならない。一時前の覚悟も決意もエリスの全てを受け止めた上で――――。
(ノアは一緒に居て欲しいって……思ってくれてたんだ……)
 温かなランプの光の下、エリスはゆっくりと頷いた。
「ありがとう。エリス」
「ノア……」

広げられた両腕に吸い込まれるように、エリスはノアを抱き締める。耳元を吐息がくすぐっている。
 涙に視界が奪われる中、彼がほっとしたように微笑んでいることだけはハッキリとわかった。