missing tragedy

cock-and-bull……¡

変わらないもの、変わっていくもの ④


 エリスの涙が完全に止まってから、二人はこれからについて話し合った。

 まずは交際について。二人の義姉であるサラとノアの兄、カルロとジーニアスには伝えるべきだとの意見は一致した。
 同時にエリスはノアに尋ねる。自分をオルコット家の養女になどと言う到底信じられない未来案について。
「ああ……それは……」
 視線を逸らす幼馴染みにエリスは眉を下げる。
 養女の話を本気で話している訳ではなかった、それが確認できただけで今は良い。
「直前になったらノアの考えを話してね。何も知らされずに動かされるのは流石にフェアじゃないわ」
「ありがとう。それは必ず。約束する。これからも多分言えないことは沢山出てくるけれど、僕の気持ちだけはちゃんと伝えるよ」
 迷いなき青の瞳はエリスのよく知る美しい瞳だ。信じよう、今はただそう思った。

 続けてもう一つ、気になっていた事をノアに尋ねる。ミニアムに帰ってきたという彼の発言。その真意についてだ。
 この国の王族は基本的に王都の宮殿、もしくは貴族や政治的官吏の多く住む高級住宅街に住まいを持つ。身分による住まいについての法律こそないが、地方や国外に居を構えた王族、しかも直系の王子が王都以外に住むと言う話は聞いたことがない。
 地方自治のパワーバランスや政務の関係からも、王命でもない限りミニアムのような辺鄙な村に居住するなど、あり得ないのだ。
 先ほどのように答えられないと返されてしまうかもしれない。それでもこれからの行動に関わる部分があれば知っておいた方が良いだろう。
 話せることだけで良いとの前振りと共に、エリスはノアに再び尋ねた。
「それは……」
 戸惑い、視線を落とすノアにエリスはわらう。

「…………わかった。じゃあ今ノアがどうしたいと思っているかだけ出来たら教えて」
 仕方ないとはいえ僅かに寂しさを覚えたのは事実だ。現金な自分にエリスは内心苦笑いするしかなかった。
「…………僕は、王都に帰るつもりは無い。兄さんは別件で僕をミニアムに送ったと思っているけれど、僕が大人しく命令に従って帰ってくるとも考えていないと思う。これからの事については……」
「……?」

 ノアは暫し逡巡し、意を決したように顔を上げた。
「明日、あの洞窟で会って欲しい人がいるんだ。その時に一緒に話したい」
「わかったわ」
 ノアの右手が頷いたエリスの頬に触れる。ベルガモットの混じる柔らかな香りが近付いて、首筋を吐息が掠った。
「……エリス、ごめんね」
 震える声で告げられた懺悔は一体何に対してなのだろう。過去への贖罪か、それとも未来への償いか。エリスには後者のように思えてならない。
 背に回された腕は緩かった。本来ならば触れてはいけないのだと躊躇うように、いつでも振りほどいてくれと言わんばかりに。
「ノア、大丈夫だよ。ノアが望んでくれるように、私だってノアと一緒に居たいと思ってる」
 金の髪を指ですき、エリスは強く抱き締め返した。
 以前よりも逞しくなった背中には、今もきっとエリスの知らないものが沢山のしかかっているのだろう。これからそれが消えることはおそらく無いけれど。出来るならば共に分け合いたい。
「一緒に進む覚悟は出来てるわ」
「ありがとう、エリス。……他にはある? 心配な事や不安な事は」
「あの、えっと、ノアは嫌がるかもしないけれど……」
 ノアに問にエリスは暫し躊躇い、しかしすぐに切り出した。

「やっぱりあんな大金を全部ノアに払って貰うのはやっぱり良くないというか……」
 これはエリスのわがままだ。一緒に進むならばノアと対等でありたいからという、それらしい理由をつけた見栄。罪悪感から逃れたいだけの我儘だとは自覚している。
「ノアの気持ちは嬉しい。けど私がこのまま隣に居るのは嫌だって……それだけなんだけど」
「そうか……。ごめん。エリスがお金のことで負い目を感じてしまう気持ちをもっと汲むべきだった……ならエリス。こうしない? ひと月、エリスは僕の仕事の手伝いをする。成功報酬は金1億5000万グル、でどう?」

 項垂れたのも束の間。名案だとばかりにノアは顔を明るくさせる。対してエリスは手放しには喜べない。つい眉根をよせ、窘めるようにノアに告げてしまう。
「その……要求ばかりで申し訳ないんだけれど、一般人の私が手伝える事なんて限られてないかしら? どう考えても報酬と見合わない気がするわ」
「そうかな? 危険だし、リスクの方が大きいから僕以外は皆嫌がってたよ。大きな手柄をたてられる絶好の機会なのにね」
 苦笑いし肩を竦めるノアにエリスは未だ眉間のしわを解かない。
「そんなに重要な案件なの?」
「陛下直々の命令だから、まあそうかな?」
「それは尚更……こんな所で私に言っていいものなの?」
 呆れるエリスにノアは断言する。
「大丈夫だよ。単なる地質調査の話をここでエリスにするのに問題なんてある訳がない」
 その言葉にようやくエリスは少しだけ安堵し、先を促した。

「なら良いけれど……。手伝える事なんてあるかしら?」
「あるよ。人手が必要なんだ。目立たない為にも一般の人の方が助かるけど……危険も事情も何も話さずに頼むのは良くないと思って。……実を言うと最初からエリスに頼むつもりだったんだけどね」
 ノアは悪戯を仕掛けた子供が種明かしをするように笑うとエリスへと手を差し出す。一瞬前の悪童のような表情は、既に誠実な青年のものへと変わっていた。
「危険は承知の上で頼みたい」
 曇りなき青の瞳がエリスを見つめる。エリスもまた、迷いなく差し出された手をしっかりと握り返した。

「わかった。報酬分……は難しいけれども精一杯努力するわ」
 懐かしい感覚に、自然と頬が綻む。
 エリスとノアは幼馴染みで、恋人で。そして誰よりも信頼する友人だった。その事を今になってエリスは思い出した気がした。
(お金の代わりに何か返したいなんてわがまま言っちゃったから。せめて頼んで良かったって思ってもらわなくちゃ!)
「ありがとう、エリス」
「ううん。こちらこそありがとう、ノア。久しぶりね。こういうの」
「そうだね。またエリスと一緒に何か出来る……幸せだ」
 不意に。握手を交わした左手の甲に柔らかなそれが触れる。一瞬で懐古の感動も驚きも吹っ飛んでしまう。あっという間に頬に熱が集まり、真剣な眼差しがエリスを捕えた。
「エリスの事は絶対に僕が守りきる」
「ノ、ア……」
「エリス……」
 ノアの澄んだ瞳の奥に熱が灯る。エリスは思わず羞恥に俯くが効果は薄い。鼓動は瞬時に速く、頬も熱くなってしまう。
「あ……えっと」
「明日、洞窟で話をして、まだエリスの気持ちが変わらないようだったら……良い?」
 するりと左手を取られ、指輪越しに薬指を撫でられた。僅かな違和感を感じて顔を上げれば、眉間に皺を寄せ唇を噛むノアが目に入る。

「……それとも僕とはまだ、そういう事をする気持ちになれない?」
「あ……!」
 そこでようやく、エリスは指輪の存在を思い出す。熱くなっていた頬から熱が一気に引く。
「ノア、ごめんなさい。これはその、説得するのに……あれ? えっ?」
 エリスから間抜けた声が漏れる。指輪が全く外れないのだ。ぴったりはまっている等というレベルではない。錆びついた閂(かんぬき)のように、指輪はびくともしない。
「外れないと思う。何度やっても駄目だった」
「えっ?」
 ため息と共に、ノアからとんでもない事実が告げられた。
「かなり強い魔法が指輪そのものにかかってるみたいなんだ」
「こんな? 指輪に??」

 表現はフェリクスに失礼かもしれないが、所詮それらしく見えるように用意した偽物だ。それに彼からは一度だって執拗な感情を向けられた事などない。こんなに小さなものに手の込んだ魔法をかけるなど、魔術師でもない彼がするだろうか。
「うん。指輪はよくある安物だけれど、魔法をかけた魔術師はかなり腕が良いんじゃないかな。悔しいけれど僕の力じゃすぐには外せない。だからそれは追々……」
 何かが頬の脇を通り過ぎる。それが細身だが鍛えあげられた腕だと理解する前に、エリスの視界が反転した。

「僕がきちんと外す。薬指には僕からの指輪をして貰う」
「あ、えっ……っ、ん」
 首筋にそっと押し当てられた唇の柔らかさに、エリスから甘ったるい声が漏れる。ノアは左手を執拗に弄りながら、強くエリスを抱き締めた。
「はぁ……婚約の話を聞いて、気が狂うかと思った。もしあいつに、周りに話を合わすためだって尤もらしい理由付けられて……指輪だけじゃなくて、こんな風に夫婦がするようなこと求められたら。エリスはどうするつもりだった?」
 思いもかけない問いにエリスは目を瞬かせる。ぴったりと合わさった胸の心音は二人同じ速さを刻む。
「その、丁重にお断りして代案を出すなりするつもりで……っあ」
 必死に応えるエリスの首筋に、再び唇が触れた。熱い吐息と共に余裕の無いノアの声が耳朶を掠める。ノアから与えられたものと言うだけで、些細な刺激も特別な意味を持つ。

「無理矢理される可能性は? こうやって密室に二人きりになったら」
「あ……ならな、いっ……」
「っは、ぁ……今みたいに逃げられないんだよ?」
「で、でも、ノアみたいに……」
「あいつは紳士(・・)だから? 僕みたいにその場を利用して迫ったりしない?」
 掠れた声で嘲笑するノアに、羞恥や恋情とは別の感情がエリスの胸を締め付けた。
 『紳士』だから『自分』とは違う。その台詞にはノアの複雑な感情が表れている気がした。
「誤解よ! ベークマンさんとはお店や外でしか会わなかったし、あの人には他に恋人がいて、私に興味が無いのはすぐにわかったから……っ」
 ノアの表情が固まって、エリスは飛び出た言葉の不用意さに気付く。
 罪悪感を持つ必要も無ければ、負い目を感じる必要も無いと。ノアの不安を払拭してあげたい気持ちから出た言葉なのに。
 これではまるで、好意を持つノアとは二人きりになった時にどんな危険があるのか自覚し、今晩はそれを承知で部屋に来たように聞こえる。もしくは言い訳がましく聞こえたかもしれない。

「……その、ノアは私のこと…………でもそこはちゃんと……その、信頼してたと言うか……」
 真っ赤になりながらしどろもどろに新たな弁明をするエリスに、ノアの眉がハの字に下がる。
「それは嬉しいような、危機感は持って欲しいような……ごめん。さっきみたいなことした僕が言えないね……」
「大丈夫! その、こういう風になると思ってなくて……気にしないで!」
 エリスの頬をノアの手が包んだ。ほんのりと赤く染まった耳と、真夜中を映す湖のような瞳に心臓が跳ねる。
「ありがとう。エリス。これからもよろしく」
「う、うん……。よろしく! ノア!」
 子供のような返事をするエリスにノアもはにかむ。二人の頬が同じ色に染まっているのは、ランプが灯す光のせいだけではないだろう。

 コマドリとフクロウの声が遠くから聞こえる。止まっていた二人の時間は、再びゆっくりと動き始めていた。