missing tragedy

cock-and-bull……¡

想いに応えるには ①

 ノアと別れ、自室へと戻ったエリスはなかなか寝付けずにいた。

 ノアの切なげな表情が忘れられない。目を瞑れば触れられた感触を思い出し、告げられた甘い言葉や幸せそうな笑みが瞼を過ぎる。
 彼はとっくにエリスの正体を知り、その上でエリスと共に生きたいと望んでくれていた。それもエリスの予想よりも遥かに大きな罪悪感を感じながら。

(ノアはずっとそんな風に苦しみながらも想い続けてくれてたの……? 三年半の事について、説明も否定もしないで何も言わずに謝ってばかりなのも、自分を責めてるからなんでしょう……?)
 エリスは布団をぎゅっと握り締める。
 会えなかった期間の真相を知りたくないといえば嘘になる。
 村に帰ってきてからの彼の諸々の反応から見ても、おそらく三年半もの音信不通はノアの意思ではないのだろう。それどころか当初は音信不通になっているとさえ思ってなかったような素振りを見せている。
 話してくれれば、彼の罪悪感を軽くする事が出来るのではないかとエリスは思う。一方で、踏み込んではいけない、エリスが聞いてはいけない事情があるだろう事も察せられた。
 結婚の詳細についても同様。もう少し前もって話してくれれば、という歯がゆさもある。
(でも、今はノアを信じて、出来ることを精一杯やるわ。まずは調査。明日はお休みだから良いけれど、あとは店長に頼んで半日にして貰える日があるか確認して……難しいなら休日と夜ね)
 三年前のあの時と今。そしてこれから。変わらないものも、変わっていくものもあるだろう。
 ただエリスはもうあの時のように仕方ないと考える事を止め、確かめもせずに諦めるような事はしたくない。
(できたら悩む時は一緒に悩んで、一緒に答えを見つけたい……。私は全部知る事が出来ないかもしれないけれど……力にはなれないかもしれないけれど……せめてちゃんとその時にノアに居て良かったって、思って貰えるように努力したい……)

 急激に瞼が重くなり、エリスは瞳を閉じる。朧気な夢と現との境で、青いペンダントを胸にした青年が顔を上げた。
 同じ色の澄んだ瞳には大粒の涙が、左耳には対照的な色のピアス光る。

 床に散らばるのは色とりどりの魔鉱石。互いに反応しあっては消え、融合し、弾け。変化し続けながらも、美しさだけは変わらずに存在している。
「……」
 魔鉱石の光を写した彼の瞳から、七色の雫が零れ落ちて。
(大丈夫……私はずっとノアの……)

 エリスの意識はゆっくりと、懐かしく温かい夢へと溶けていく。


 規則正しい寝息を始めるエリスを、切れ長の紫紺の瞳が見つめていた。


○○○


 明け方、一階の居間へと降りてきたノアは目を瞬かせた。
 冷え込んでいるだろうと思われた居間は暖かく、お茶を沸かした痕跡もある。オーブンの中には焦げ目がつき始めた丸パンがあった。

 昨夜あれほど「郷に入っては郷に従う。貴方が誰であっても食事当番は公平にするわ!」と豪語していたサラが早起きして……とは考えにくい。かと言って、この屋敷に通いの使用人がいない事も既に調べあげている。
 見当を付け、ノアは居間を出た。もしも彼女がノアの知る彼女ならば。

 一階の外れ、目的の場所に予想通りの人物を見つけて。ノアは頬を緩ませた。

「やっぱり。ここに居たんだ。おはよう」
「ノア! 早いのね」
 思いがけない人物の登場にエリスもまた本から顔を上げると、少し前のノアと同じ様に目を瞬かせる。
 膝の上には鉱物図鑑と地理誌。床には本棚から引き抜いた近辺の歴史書や地図、統計資料の数々。
 薄暗い室内をオレンジ色の二つのランプが照らすのみ。
 エリスやノア、サラ達ローエ家の共同書斎は未だ薄暗く、夜の気配が残っていた。

「エリスも。大丈夫? ちゃんと寝た?」
 ノアは積み重なる本と本の間を器用にすり抜け、エリスの脇に腰を下ろす。
「大丈夫。それより今日の出発時間を聞いてもいい? あと帰宅予定時間も」
「ええと、エリスに合わせて……昼ご飯を持ってお昼過ぎくらいまでには現地に。帰宅も暗くなる前に、くらいにしか考えて無かったな……」
「そっか……なら九時くらいに出発でも良い?」
「構わないよ」
 ノアの言葉にエリスは「良かった、もう少し読んでから行こうと思って」と積み重ねられた本を指さす。彼女らしい振る舞いに、ノアの頬も自然と緩んだ。

「ところでノア、現地での調査についての詳細なんだけれど。具体的に何を調べたいのか聞いてなかったわ。今聞いても良い?」
「うん。ごめんね、うっかりしてた」
 ノアはおもむろに一冊の本を取ると、表紙をそっと撫でながら言葉を続ける。
「エリスが予想するように、今回の調査の一つはあの『魔鉱石』についてだよ」
 不思議な石が創り出す美しい光景を思い出す。二人だけの秘密の石をまさかこんな形で調べることになるなど、あの時の自分にどうして想像できただろうか。
「最近、国内外であの石によく似た『効貴石』という石を取引する組織が問題になっているんだ。彼らは国や有力貴族、企業に持ちかけては法外な値であの石を売り、莫大な資金を集めている。兄さん達としてはそれを止めたいらしい」
「それは、大き過ぎる力は和を乱すから……?」

 エリスの質問にノアは唸る。
「……と言うよりは、組織そのものが謎に包まれていて。大金が一体誰の手元にあるのか、どこに使われているのかよくわからないんだ。手口も巧妙、接触人数も少ないし、関わった人間の記憶も曖昧な事が多い。ただ統制された少人数組織という特徴や少ない手掛かりや証言、近年の国際情勢をあわせると他国の戦争の資金調達部隊……それも諜報部も兼ねた組織なんじゃないかと……兄さん達はそう考えている」
 エリスが息を飲む音が聞こえる。無理も無い。美しい石が詳細不明な組織を中心に出回っている。それだけで他国の戦争資金源の話に飛躍しようとは、普通は思わないはずだ。
「僕の今回の仕事は『魔鉱石』が『効貴石』と同等の資源となり得るかの確認と、魔鉱石の更なる研究の先陣をきること。そして資源となり得るならば、確保。国が主体となって採掘と流通量を管理すれば怪しげな資金集中を止め、他犯罪組織への抑制や他国への優位にもなる、絶対に皆が幸せになる……」
 言い終えてから、ノアは再度兄の言葉を思い出す。
 絶対に皆が幸せになる。民の為には必要な事なのだ――――その言葉は兄達にとっては嘘偽りのない真実に違いない。

「……でも、ノアはあまり気乗りじゃない? 皆が幸せになる方法は他にあるんじゃないかって思ってる、とか?」
 エリスの言葉にノアは思わず瞳を丸くする。ノア自身がわかりやすい性格なのか、はたまたエリスだからこそ通じてしまうものがあるのか。後者だと良いと思いながらノアはこくり、と頷いた。
「……うん。詳しく調べてから流通量を増やす事には賛成。もちろん戦争の資金源になんてさせないし、兄さん達の意見にも概ね賛成だよ。でも、資源は自然物である以上限りのあるものだ……」
「そうね……」
「大切にしたいんだ。この国の人も、資源も、他の国も。採って、独占して、自分達の為だけに使うだけでは……それは主が変わっただけに過ぎない……」
 言葉が詰まる。どこまで話すべきか。未だノアは決めかねている。

「……何か心配なことでもあるの?」
 すぐ隣の薄茶の瞳を見つめ返す事は出来なかった。代わりにノアは緩く肯定の意を示す。
「……続きは洞窟で。その方が説明しやすい」
 エリスの眉間の皺は緩まない。中途半端な話は彼女の不安を煽ってしまったらしい。
「大丈夫だよ。あとこれを……」
 ノアはパッと表情を明るくさせると、分厚い本を床に置き胸ポケットから小さな布袋を取り出した。
「エリスに。少し重いかもしれないけれど」
 逆さまにした布袋から夜空のような深い青が零れる。次いで繊細な銀の鎖とこの国の紋章を刻んだ留め具が続いた。
「良かったら受け取って欲しい」
 魔力を重ね注いで造られた深い青が呼応するように煌めく。
「ありがとう」
 エリスは驚いたように瞳を瞬かせていたが、すぐにペンダントを受け取ると金具を外し身に付けた。付けて欲しいと強請るような女性でない事はわかっていたが、手持ち無沙汰に空を彷徨う手はノアの羞恥を煽った。
 春を告げる黒ツグミの囀りが二人の耳に届く。

「あ、そういえばノア。何か持っていく物はある?」
「今日はお弁当だけで大丈夫だよ」
「わかったわ。あと悪いけれども、もう少し本を読んでいても良い? 朝食の用意は……」
「サラ姉の当番。あとで僕が二人分手伝っておくから安心して読んでてよ」
「ありがとう」

 微笑みと共に交わされた視線は柔らかく、懐かしい。

 エリスは再び本へと視線を戻す。ノアもまた、別の本へと手を伸ばし。

 熱心にページをめくりながら、ノアは本の内容とは全く別の事を考えていた。


○○○


 午前の薄白い光を反射した残雪を踏みしめ、新芽と冬眠から覚めた動物たちの微かな吐息を感じながら森を進み。エリスとノアは洞窟へと入っていった。

 日の光が届いていたのは、ほんの入り口近くのみ。今は魔法で灯したあかりのみが視界を照らす頼りの綱となっている。

「ノア、凄い……。あっちで魔法まで勉強してたのね」
「ジーニアス兄さんが詳しくて。それで少しね」
「国立魔術院の専任講師でしょう? 私も一度で良いから教えを請いたいわ。ただ、不器用なのか未だにマッチみたいな火しか灯せないのよ」
「はは。僕も少し前までマッチだったよ。難しいよね」

 僅かなランプの灯りを頼りに、他愛ないやり取りを交わしながら歩みを進めること数分。視界の端でチカリ、と緋色が弾けた。
「あ……」
 思わずエリスは息を飲む。隣りのノアからも同じ息遣い。二人は緋色の残光に引き寄せられるように角を曲がった。
「……綺麗だ」
 しんと静まりかえる中、ため息と共にノアから感嘆の声が漏れる。
 左右奥の壁面には赤、黄、橙、青、緑、紫……様々な色が煌めく。石たちは色も大きさも、瞬き方さえも。どれ一つと同じものはない。まるで星空の森に迷い込んでしまったようだ。
 左上から僅かに差し込む幾筋かの光のみが、中央の三つの岩を浮世とこの世を繋ぐ道標のように青白く浮かび上がらせる。

『へえ。首輪まで揃えたんだな』

 不意に。エリスのすぐ後ろから揶揄うような男の声がした。首輪という不穏な言葉の意味を理解する前に、目の前に逆さまの男が表れた。
「ひっ……!」
『ははっ。良いねぇ。お決まりの反応』
「ナール!」
 ナールと呼ばれた青年はくるりと宙で一回転すると、ノアの肩を叩きニヤリと笑う。
『こっちもだ。ノア、今日はお前の為にわざわざこうして出向いてやったんだ。楽しませてくれよ』
「はぁ……わかったから、落ち着いてくれ」
 ノアはため息を吐くと、ナールの骨張った手を払いのけた。互いの砕けた物言いからも、気の置けない仲なのだろう。二人の様子にようやくエリスも落ち着きを取り戻し、改めて宙に浮くナールを見つめた。

 一つに束ねられた美しい黒髪に紫水晶のような紫紺の瞳、彫りの深い端整な顔立ちは男性的な魅力に溢れている。珍しい布地面積の少ない服から覗く褐色の体躯は逞しく、自信ありげな余裕のある笑みは無邪気な仕草に反し美しく妖艶だった。
 粗野な口調と宙に浮いている点さえ除けば、異国の王子と紹介されても違和感は無い。

『お初にお目にかかります。エリス・オルブライト嬢。俺はナール。ナール・オロバス・ライ。ノアの友人です。以後お見知りおきを』
 ナールは流れるような仕草で膝をつき、エリスの手を取る。あっけにとられる間もなく甲に滑らかな唇が触れ、艶美なまでの笑みが向けられた。
「こ、こちらこそ。エリス・オルブライトです。宜しくお願いします」
『堅苦しい挨拶はここまでにして。どうだ? あんなつまらないちんちくりんなんか止めて、俺と町に出ねぇか?』
「ちんちく……」
 絶句するエリスにゆらゆらと揺れる紫紺の瞳が近付く。一瞬誰を指すのか迷うほどには、思考が鈍くなっていた。
「わかりやすい煽りに乗ると思っているのか? ナール」
『ああ。わかっててもお前なら乗るだろう?』
「乗らない。が、必要以上の接触は許可してない」
『はいよ』
 ナールは鋭い眼差しのノアに制止されてもなお、さして気にする様子も無く肩を竦めて笑う。
 洞窟で会って欲しい人がいる――――それはおそらく彼の事なのだろう。“人”かどうかはともかく、ナールには不思議と人を惹き付ける魅力があった。

「エリス、改めて確かめておきたい……」
 ノアの硬い声が洞窟内に響き、砕けた空気が一変する。真っ直ぐな瞳と声に、エリスは迷い無く同じものを返し緩く肯く。淡い灯りに照らされたノアと煌めく壁面は絵画のようだった。
「僕は君と一緒に生きていきたいと思っている。喜びも悲しみも共に分かち合って、支え合い生きていきたい。けれど、それは君にとって決して幸せとは言えない。当たり前の自由や喜びを捨てて、僕たちの責任や秘密を負っていくことになる。決して逃げられない、途中で抜けることは出来ない……僕との約束が枷となって、地獄となるかもしれない……」

 ノアの言葉が一瞬だけ、宙に溶ける。迷い、後悔、罪悪感……決意の傍で滲むそれらにエリスは手を伸ばし、消えかけそうなノアごと抱き締めた。
「覚悟の上。言ったでしょう? 一緒に進むって」
 青の瞳が揺れて。ノアもまたエリスを力強く抱き締め返す。
「ありがとう……」
 エリスの耳元で、安堵したような微かな吐息が漏れる。

『おい、そろそろ良いか?』
「あ、はい!」
「……ああ」
 ナールの揶揄うような声が二人の抱擁を割る。ほぼ同時にエリスとノアは声色の異なる返事をした。
『いい面だ。ノア、お前が望むなら俺は応えるだけだ。本当に話して良いんだな?』
「お願いするよ。エリスにも話して欲しい。全て」
『ははっ……お前の家の奴は大体イカれてんな。わざわざ婚姻なんかして、血が繋がんねぇ奴まで呪いを拡げるなんて。でも好きだぜ、俺は。欲に塗れたお前に使われるのも悪くねぇ』
 低く艶やかだった声には雑音――――それも何人もの悲鳴のようなもの――――が混ざる。
 美しく妖艶な雰囲気を纏っていたナールの笑みは歪み、紫根の瞳が三日月のように細まっていた。
 紡ぎ出された呪いという言葉よりも、ナールの存在の方がずっと邪悪で禍々しいものに見える。少年のような無邪気さも、精霊のような神々しさも、異国の王子のような妖艶さも、今や跡形も無い。
「ナール、その辺にして。きちんとエリスに話してくれ」
『良いのか? 嬢ちゃんは』
 ナールの問に、エリスは迷いなく頷いた。
「ええ」

 足は震え、血の気は引いている。本能はこの青年との接触を拒んでいる。それでも。
「話して下さい。知りたいです。責任も秘密も、ノアが言うようにそれが枷になったとしても……私は受け止めて、ノアと一緒に生きたいんです」

 お願いします、とエリスは勢いよく頭を下げる。

『そうか。ははっ。良かったなぁ? ノア』
 次に聞こえたナールの声は、既に元聞いた青年のものだった。

『嬢ちゃんは俺が何に見える?』

 ナールの問いが煌めく洞窟内に響いた。