missing tragedy

cock-and-bull……¡

君を想えばこそ ①

「エリス達、無事帰ったかしら?」
 長閑な山間の街が夕闇に包まれていく様を窓から眺め、サラは義理の弟妹を思い深く息を吐いた。
 吐息に相対し揶揄うようなフクロウの鳴き声が続き、サラは応える。

「そろそろ出てきたら?」
 刺々しい物言いに臆すること無く。五年前に夭逝したはずの従兄弟、エリオット・ファン・オルコットは扉をノックし、案の定返事を待たずに部屋へと入ってきた。

「久しぶり」
「何が久しぶり、よ。ここ最近はほとんど毎日じゃない?」
「あはははっ、そう言うなよ。仕事なんだ。で?」
 先を急かすエリオットは相変わらずだ。

 サラと同じ艶やかなダークブロンドの髪に切れ長の金の瞳、長い睫毛と凛々しい眉。端正な顔立ちは十年前とほぼ変わらず。甘さと男らしさを備え、彼の情けない第一王子よりも余っ程王子然としている。
 そして人を食ったような物言いも、人の悪い笑みも、呆れ揶揄うような眼差しも健在だ。
 彼の鼻持ちならぬ態度は成人しても変わらず。結婚しほんの少しの改善が見られたものの、子供が生まれ用意周到さが増し。結果的に"戻し薔薇"という記号しか持たぬ今は共に働いていた時よりも厄介さが増している。

(全く! ロゼリアお姉様とリリィにこの男の本性を話して、再婚を勧めたくなるわ……)
 可哀想にエリオットの本性を知ることなく、彼の妻と幼い娘は毎月獣の骨しか埋まっていない墓に墓参りしている。どうせこの男の事だ。結婚前のように後をつけ、自分を思って祈る妻と娘を影から見ては嬉々としニヤついているのだろう。
 容易に想像できてしまった自分と従兄弟を心の内で責め、サラは目の前の男を吊し上げ吐かせた暁には残された彼の家族に何か贈り物をしようと決めた。

「何だよ? もしかしてお小言か?」
「それもあるわ。でもその前に」
 サラの深呼吸でその場の空気が変わる。

「王都での厄介な噂。貴方が流したのね?」
「どうして俺だと?」
「こんな絶妙なタイミングで五家と王子のスキャンダル、しかも根も葉もない大層な噂なのにどこからも真実らしい真実が出ない。貴方達以外にうまくやれる組織を私は知らないわ

 サラの鋭い眼差しにエリオットは肩を竦める。
「俺たちじゃないぞ」
「ああ、そう。じゃあ貴方個人なのかしら? 誰に頼まれたの?」

 肯定も否定もせずに。薔薇はしたたかな笑みを見せた。
「俺がどんな男か知ってるだろう? ところでサラ」
 不敵な笑みのまま、エリオットはサラのダークブロンドの三つ編みを手に取る。

「そろそろ妥協しろよ。お前が抜けてウチは益々人手不足なんだぞ。ヘタレ王子の首根っこ掴む事くらい何の造作もないだろ」
「っ……それはあの人に言ってくれない? 帝国ザナンドのアスィーラ王女かリゾルトのカミラ王女あた……ッ」
 ダークブロンドを翻し、ひらりと身をかわしたサラの頬を何かが掠める。それが己の髪を纏めていたリボンだと認識する前に、サラは袖から出した万年筆を相手の首元に当てた。

「なにするのよ……」
 ペン先は彼の首筋には当たらず。代わりにエリオットの手袋へと突き刺さっている。

「仕事?」
 一言。疑問形の間の抜けた言葉には不似合いな鋭い眼差しが交わされ。羽交い締めにされた男は余裕の笑みでサラの腕を取ると、意図も容易くその腕からすり抜けた。

「なまってなさそうじゃないか。良かったよ」
「ありがとう」
 スカートの埃を払いサラは賛辞を聞き流す。
「あの人の事は知らないけど、ローエルの名を汚した時は貴方でも許さない」
「わかってるさ」
「あと、」
 サラは抑揚のない声でその場から消え去りつつある従兄弟に告げた。

「私の大事な妹と弟を傷つけようとした時も。ねぇ、貴方を使った人に伝えてくれる? 『この先、敵と味方を見誤ると早死にするわよ』って」
「……へぇ。また来るよ」

 ひらひらと手を振りながらエリオットは消える。サラは得体の知れぬ一抹の不安を抱きながら、椅子へと腰をおろした。そして座った途端に深いため息が続いてしまい苦笑する。

(万が一もしあの子ならば……伝わると良いのだけれど)
 窓の外では地平線近くまでをも夕闇が浸食していた。カーテンを閉め、サラは乱れた髪をまとめながら長く深く息を吐いた。


〇〇〇


「ノア、あの……」
「ん? ああ、ごめんごめん。これじゃあ寝られなかったね」 

 新居の寝室にて。ノアは一人納得するとエリスの茶の髪を撫でる手を止めた。
「ち、違うの。大丈夫……なんだけど……」
 エリスは口籠もりながら必死に言葉を探す。
 
 エリス達が洞窟から新居へと着いた時には既に夜も深けており、食事や入浴を済ませた二人は迷わず寝室へ向かった。
 今夜も何事かあるかもしれないと念入りに入浴し、自宅から持参した可愛らしい下着を着用し、ベッドの上で軽く触れる程度の口付けを交わして。いよいよかもしれないと少々身構えたものの。

 疲れていたのか、ノアは触れるか触れないかの口付けを終えると「寝ようか」と微笑み、かみ殺すような欠伸と共に早々にベッドへと入ってしまった。
 もしかしたら自分は何かタイミングや雰囲気、頻度というものを見誤ったのかもしれない。
 過剰な自意識に己を恥じながらも髪や頬を撫でる手に戸惑い、勝手に寝てしまう訳にもいかず。
 恋人や夫に対する甘え方や誘い方のわからぬエリスはこうなればいっそ聞いてしまおう、とノアに問いかけたのだが。

(どう聞けば良いの……? 『頭を撫でてくれるのはどうして?』って? そ、そんな小説に出てくる可愛い女の子が言うような台詞、恥ずかしいし、実際言ったら意味が通じないんじゃない? それにノアは『寝ようか』って言ったのよ……あくびもしてたわ……。きっと洞窟での調査で疲れているはず)
 
「だ、大丈夫……! ノア、今日はお疲れ様。ゲームの賞品もまだだし、肩でも揉もうか?」
 結局、必死さ程の気の利いた成果は得られず。祖父母を労うような色気のかけらもない台詞が口をつく。

「ああ、良いね」
 相好を崩すノアの反応からエリスはほっと胸をなで下ろす。そのまま彼に後ろを向くよう促し、存外逞しい肩へと手をかけた。
「どう?」
「あはは……くすぐったい」
「じゃあ、これで」
「っ……!」
「ごめん、ノア! 力入れすぎた?」
「ううん、大丈夫」

 じゃれ合うようなやり取りをする一方で、邪な気持ちを抱いてしまう自分をエリスは叱咤する。
 彼は純粋に癒やしを求めてエリスに肩もみを頼んだというのに。薄布越しに感じるしなやかな筋肉や衿から出た項、湯上がりの熱い肌をどうしても意識してしまう。

「エリス……」
 ふと、エリスの手にノアの熱い手が触れた。囁くような甘い声音にエリスはびくりと肩を揺らす。
 振り向くノアと視線が交わり。熱く、渇するような深い青にエリスの頬に熱が集まる。

「ノア……⁉」
「お願い、もう一つ」
 はにかむような微笑が近付いて、耳元を吐息が擽る。羞恥から直視は出来ず、逃げるように蹲ると後ろから抱き締められた。
「いい?」
「っ……」

 飛び出そうになった甘ったるい声をすんでの所で抑え、エリスはぎゅっと目を瞑り、失態を誤魔化すかのように何度も首肯する。
 羞恥と期待と緊張は全身を駆け巡り。何を問われたのかも、これからどう進むのかもわからない癖に体は益々熱くなる。
 昨晩何度も愛され穿たれた奥が疼き、エリスはたまらず敷布を蹴った。

「……明日もこうして一緒に寝て欲しい」
「……⁈ うん?」

 エリスの唇から、一瞬前の甘さなど欠けらも無い声が漏れる。
「もちろん、エリスが一人で眠りたい時は言って。僕は床でも眠れるし、落ち着いて眠れないようならばエリス専用の寝室も用意できるよ。だから明日もこの家に帰ってきて欲しいんだ……」
「え、あ……もちろん! 私結構図太いし大丈夫だと思う。うん、明日も一緒に寝ようね。ノア!」

 全く異なる種類の熱にエリスはただただ真っ赤になった。
 何度繰り返せば自分は懲りるのか。しかもノアはエリスの煩悩に全く気付くこと無く、安堵したように微笑み手を握ってくる。

「良かった。おやすみ、エリス」
「おやすみ。ノア」

 長い睫毛が伏せられ青い瞳が閉じられると、程なくして健やかな寝息が後に続いた。
 彼を労れず、邪な気持ちで構えてしまった事を深く反省しながら。エリスはノアの言葉を己の内で反芻する。

『明日もこうして一緒に寝て欲しい』

 改めて考えれば、それは単純な願いでも拒絶でも無く、彼のたっての望みなのではないだろうか。そう思うと胸がぎゅっと痛く苦しくなった。
 女として求められなかったという気持ちからではない。彼の境遇やこれから置かれる立場から、そうした言葉が出たような気がしたからだ。

「ノア、私も。私も明日もこうして、ノアと一緒に居たい……」

 エリスは強く、強く願う。
 きっとこれも一種の独占欲なのだろう。あの晩の熱情と愉悦を望む欲よりも強く、遙かに厄介で、愚かで浅ましい欲。ずっと傍にいたい、彼の特別で一番で、唯一であり続けたいという欲望。
 自覚する以上に疲労はたまっていたようだ。瞼が急激に重くなり、エリスは抗うこと無くその身を任せた。
 柔らかな匂いと包み込むような温もりは、懐かしく楽しい夢へとエリスを誘う。

 夢では悪魔も天使も。そして人間さえも。全てのものが活き活きと、色とりどりの魔鉱石を持っては、幸せに暮らしていた気がした。

〇〇〇

 通常勤務へと戻り、応援してくれた村の人々に事情を話し謝罪等を続けて五日。エリスは長身の青年へ薬剤を渡していた。
「……人参に陳皮、あと甘草でしたっけ?」
「ああ。あと芍薬も。すみません。ったく、本局の方が品切れなんて」

 ぶつくさとぼやき、頭を搔くシンハはノアの元同僚でもり、隣町にある本局に勤める薬師である。肩までの茶の髪を後ろで一つに結わえ、飄々とした独特の雰囲気を持つ彼だが。これでも看護師の資格も持つ優秀な薬師だ。

 三年半前、戻らぬノアの仕事をも一手に引き受け、ドニの補佐を掛け持ったのも彼であり、エリスの治療院開院の際にも色々と応援をしてくれた人でもある。
 ノアとエリスにとっては大切な仲間であり友人でもある彼にも、先日事情を話して謝罪をしたばかりだ。
 彼の『あーまあー時もあるしね。大丈夫ですよ。エリスさんなら』との反応は、彼らしいと言えば彼らしく、『またその気になったら話くらいは聞けますよ。すげー微弱ですけど』とは嬉しい励ましでもあった。

「ところで今晩、ノア借りて良いですか?」
「えっ?」
 至って軽い物言いにエリスは瞳を丸くさせる。
「シンハ君、ノアが帰ってきたこと知ってたの?」
「ええ。この間ひょっこり。『悪かった!』って。びっくりしました。アイツ全っ然引き継ぎしないで急に消えるし、こっちはすげー大変だったのに。でも帰ってすぐにオレの所に来て、ドニ先生のとこにも。だからまあ、元気そうだし良いかーってカンジで」
「そっか。良かった。シンハ君達の所にも行ってたんだ……」

 親しかったシンハやドニとは再会していた事を知り、エリスは安堵する。一方でシンハの様子から第三王子という身分までは明かしていないのだろう事が察せた。

「はは、エリスさんとこが一番だとは思いますよ。まー居なくなった事について変な事言う奴もいますけど、どうせノアの事だから医者になった時の為にどっかの学術院に行っといた方が~とか、結婚前に図書館巡りをしたくなって~とかの勉強絡みか、変な女をこっぴどく振ったもんだから後ろから命を……っんん。その、厄介事に巻き込まれてバタバタしてたんだろうって皆話してます。だから心配ないですよ。オレは今夜、三年分の文句の続きをたっぷり言うつもりです。局長も連れて」

 シンハは一気に告げると、にやりと笑う。今夜の酒の席を想像し、エリスは堪えきれずに吹き出した。
 陽気さが増すラングロワや気心の知れたシンハと久しぶりに付き合うのだ。きっと帰りは真夜中近いだろう。
(昨晩来た研究所からの結果と照らし合わせて、週末調べる事でもまとめておこうかな……)

「でも、大変だったんじゃないですか?」
 苦笑の混じるため息を吐き、シンハは紙袋に薬剤を詰めていく。
「えっと……治療院の……?」
 それくらいしか思い当たらず首を傾げると、彼は首を大きく横に振る。
「違いますよ。ベークマンさんとの事。ノアの事だから嫉妬してたでしょう?」
「あっ、え、……まぁ……その、皆にも心配をかけてごめんなさい」

 どう答えて良いかわからず、エリスはただただ頭を下げる。ジウの心配顔が脳裏を過り、いたたまれない空気がその場に漂った気がした。
 ところが頭上から降ってきたのは意外にも曖昧な男の声であった。
「はぁ……ええっと? 心配? それはノアが嫉妬に狂ってという……?」
「いえ! 違います! その、えっと、ベークマンさんとの噂でご心配を……」

 口篭るエリスに対して、シンハは重ねて間の抜けた声を出し、一瞬だけ眉間に皺を寄せると首を更に捻る。
「あー、もしかして付き合ってるって噂をオレ達が信じてるとでも?」
「あ……そ、」
「大丈夫ですよ。ベークマンさんがエリスさんにとって、なしよりのなしって事くらいわかります」
 エリスが答えるよりもずっと素早く、しかもあっさりと。シンハは断言する。
「できてるって言ってる奴らは単に人の色恋の噂に飢えてるだけです」
「……そ、そうなの?」

 満面の笑みのシンハにエリスは呆気にとられるばかりだ。ジウの言う噂は極一部のものだったのだろうか。

「まーオレが見ても恋人同士とか、万が一にもねえだろって。エリスさんとは見た目も好みも性格も合わなそうだし、あいつじゃ会話とかもたないでしょ」
「あ、うん……」

 なかなかに辛辣な言い様はべークマンが不憫にさえ思える程だが、否定はできない。恋愛的な感情が一切なかった事も事実であるし、趣味や価値観がかけ離れていた為応答に困ったのも紛れもない事実であった。
「オレが女の子でも多分もたねーなー。それにこっちでも有名なんですよ。色んな女の子相手に毎晩そりゃあ優しくしてるそうで……オレが気にかけてた……なんでもないです」

 シンハは急に真顔になると「なんでもないです」と繰り返す。まるで己に言い聞かせるように二度三度。そして最後に大きな咳払いをし。
「あの人、治療院の資金援助絡みで来てたんでしょう?」
 やや口早に貴族制度について語り始めた。

 彼曰く、昨今は資金繰りに苦しむ貴族も多く、結婚や貧富を始め一般人との差や貴族間の差はかなり小さくなっているらしい。身分制度の必要性についても大学や経済研究所等で議論されており、その為か治療院等の慈善事業は論議の際に身分制度の必要性を示す道具に使われる事もあるそうだ。
 一方で富裕層では嗜みや義務の一つとして慈善事業を掲げる家も多くなっている。

「困ってる人がいて、それを助ける気持ちを持つ人も居る。偽善だろうとないよりはマシです。まーベークマンさんは明らかに遊びに……いえいえ、やめましょうか。とにかくノアには言いませんから安心して下さい」
 シンハは何度もノアには伝えない、大丈夫だと繰り返す。既にベークマンの事は知っていると告げるのも野暮かと、エリスは曖昧に微笑みお礼を伝え、シンハを見送った。

(ベークマンさんとの事は心配ないようだけれど……)
 薬局の扉を閉め、エリスは毎夜のノアを思い出す。

 あの晩から昨晩まで、エリス達の夜に変化はない。ノアはベッドに入りエリスを抱き締めては何もせず。必ずエリスよりも先に寝入ってしまう。
 傍に居ても安眠できる相手だと思ってくれる事は嬉しく、共にいる事が安堵をもたらすのはエリスとて同じだ。離れぬ温もりにも満足しているし、あどけない寝顔も微笑ましく思っている。

 ただ新居で初めて過ごした夜のように、ノアと睦み合いたいという気持ちがなかった訳ではなく。本音を言えばもっと触れ合いたいと欲深く思ってしまった事もあった。
(でもそれって私のわがままだよね……。わかっていたつもり……というのは言い訳だわ……)

 国王の不在に始まり、貴族階級の諸問題に国王夫妻と王弟を巡る暗殺疑惑、隣国の”効貴石”と戦争資金回収組織の噂……。

 なんの落ち度もないのが当たり前。少しでも判断や選択を誤れば皆が苦しみ、不満も募る世界にノアは生きている。
 直接批判する者は極僅かだろうが、親身になって相談に乗り、彼らのことも国民のことも考え支え、叱咤激励してくれる者はきっともっと少ない。
 王族の責務や重圧を考えれば、ノアがすぐに寝入ってしまうのは当然であり、ミニアムの屋敷で安眠できるのは大変喜ばしいことなのだ。

(これから話が進めばもっと忙しくなるわ。今だけでも、ちゃんとノアには寝てもらわないと……!)
 ふと思いつき、エリスは薬棚を探り始めた。