missing tragedy

cock-and-bull……¡

望み ①

 寂しい場所だ、それが部屋に対するエリスの最初の感想だった。

 居間ほどの大きさのその部屋には、天井までの背の高い本棚が無数に並んでいる。題字のほとんどは異国の文字――――洞窟で見た古代文字のようだ。本の高さや大きさは揃えられており、主の几帳面さが垣間見えた。
 部屋の灯りは小さな天窓から差し込む月明かりのみ。静寂が部屋全体を包み込んでいる。
 無機質でないにも関わらず寂寥感を強く感じるのは、あまりにも清潔で整理整頓されており、生活感が感じられないからだろうか。

(魔法か何かでどこかに転送された……? 転移魔法は高度技術だけれど……どこかの図書室か、大きな屋敷の書斎かしら?)
 深呼吸で速まる動機を落ち着かせ、エリスは室内を調べる為に立ち上がった。

『大丈夫か? 嬢ちゃん』
 突然話しかけられ、思わず短い悲鳴をあげてしまう。振り向けばそこには見知った悪魔の姿。台詞に似合わず、紫紺の瞳は悪戯っぽく光っている。
「ナールさん。いらっしゃったんですか」
『ああ。ずっとな。ところで嬢ちゃん、話がある』
 そう言うとナールはくるりとその場で回り、右手で扉を指さした。

『どうやらエーミールの野郎の屋敷みたいだが。まんまとしてやられたみたいだぜ』
「え?」
 首を傾げたのがおかしかったのか、ナールは小馬鹿にしたように鼻で嗤う。どこからか吹き込む冷たい風が、エリスの肌を撫でた。

『ノアだよ。この屋敷、元々遺跡か何かがあったのか、とんでもねぇ結界が張られてんのさ。俺みてぇな邪悪なモンは作成者の許可無く出入り出来ねえ。当然、そいつが死んだら一生出られねえ。あいつ、俺を閉じ込める気だな』
 不穏な言葉はその場に響き、うまく飲み込めないまま消えていった。呆けるエリスの耳元で、笑みを深めた悪魔は囁く。

『なあ、手を組まないか?』
「どういう事ですか……?」
『だからよぉ、お前騙されたんだよ。ノアに。当然、俺もさっきまで協力してたけどな。……なァ、なんでベークマンの奴があんな所で怪我したのか、俺が教えてやろうか?』

 冷徹な声が脳内で木霊した。落ち着いて判断する間も与えず、ナールは続ける。
『だいたい、なんでわざわざお前が誘拐されて、何もせずに帰ってくる必要がある? 何故、危険な晩餐会に参加するのがノアじゃねぇんだ? カミラの相手がアイツじゃねぇ証拠は? 二人が本気で愛し合ってねぇと言いきれる根拠は? 治療院を一緒に開くとか言いながら、あいつは準備をしていたか?』

 エリスの肩が、手が、唇が。意図せず震える。
 ナールの全ての問いに、エリスは答えを返せない。霞む意識の中で必死に答えを探す。
 目的の不明瞭な潜入と脱出、フェリクスを加えるという不可思議な人選、目撃者のいないフェリクスの怪我。
 他にも些細な疑問や違和感はエリスの中で確かに存在していた。それでもノアへの信頼から深く追求せず待ちに徹し、受け入れてきたのも間違いない。

『それはな、アイツにとって都合が良いからだ。そしてカミラを紹介したのは俺だ。ここの招待状を手に入れるのに利用してな。ついでだ、女を抱く練習も必要だって助言したら……そのうち本命と練習が入れ替わったって訳だ』
「う、嘘です……」
『嘘ついてどうする? 俺には何の益もねぇ。相手の計画を利用はしたが、フェリクスに怪我するよう指示したのはノアだぜ。だからサラも深追いしなかった』
「……っ」

 膨れ上がっていく不安に、エリスは言葉を失う。確かに、オルフ男爵家の招待状を入手する際にカミラとノアに接点があってもおかしくない。
 フェリクスの怪我にしても、あの時は両手が塞がっていたサラだからはぐれてしまったのだ、と今の今まで思っていたが。両手をあけたいならばフェリクスを地面におろせば事は済むはず。そもそも魔法で対抗するならば両手をあける必要は無く、エリスとはぐれる事が当初から計画されていたとあれば抵抗する事もないだろう。

『誘拐騒ぎでお前が不慮の事故にあっても、誰もノアを疑わねぇ。サラさえ丸め込めれば事件にさえならねぇ。その指輪だって、探知機能がついてるのに、ヤキモチ妬きで執着心の強いアイツが何故いつまでも放っておいたと思う? お前がどこにいるか、確かめられるからさ』
「でも……」
『まだあいつを信じるのか?』

 悪魔は嘆息。呆れたようにせせら笑う。つられて、あの悲鳴や嗚咽の混じる不気味な叫び声達が呼応した。
 背中を冷たい剣で撫でられているようだ。少しでも揺るげば、エリスの大事なものはあっという間に遠い過去と混ざり、消えてなくなってしまうような気がした。

『今頃、サラはあいつの兄貴に引き渡されてるぜ? 最悪嬢ちゃんが殺されなくとも、一定期間あいつから離れれば事は済む。邪魔な俺も閉じ込められる』
「……で、でたらめです。全て、貴方が言う事に基づいての事です。どうにでも言えます」
『嬢ちゃんは契約内容を忘れたのか?』
 エリスは思わず口ごもった。薄ら笑いから意図する事に気付いてしまったからだ。

『お前との契約……俺が納得する応えを得られない時は、お前は一切の記憶と操を失う。一方、あいつとの新契約は、俺が手を尽くしても両親の死の真相を突き止められず、犯人もいるのに処刑台へ送れなかった場合にのみ、あいつの命と存在を奪う』
 悪魔の囁きはエリスの耳を逆撫で、残酷な事実だけを示し残していく。
 殴られたような目眩と吐き気に、耐えるように強く唇を噛んだ。

『ノアの契約はもう最終局面。じゃあ嬢ちゃんの方は? まあアイツにとってはどうでも良いだろうな。端から納得する応えなんか求めちゃいねえ。曖昧で歪で理不尽な契約に、疑問を持たなかった嬢ちゃんが甘かったのさ』
 ナールの声に、周りの叫び声達も追随する。悲しみ、憎しみ、怒り、嫉妬……脳内の奥深くまで響いてくるような彼らの声は、エリスの心へも浸食していく。

(ノアが? 本当に…………?)
『しかし嬢ちゃん、まだ挽回できるぜ? アイツは俺の力を見誤っていた。俺が魔鉱石で勝手に外した枷が一つだとアイツは思っている。これがどういう事かわかるか?』
「……? 私達の知らない力が今の貴方には使えるって事、ですか……?」
『そうさ! つまりこの結界の中でも俺は契約を履行出来る。そして……新たな契約も結べるのさ!』
 両手を広げ、ナールは大袈裟に飛び跳ねた。叫び声達の声が一層大きくなり、闇に紫の光の粒が舞う。

『さあ、選べ。お前だけの選択の時間さ。誰の邪魔も入らねぇ。お前がお前の為に望むなら、俺はこの場をめゃちゃくちゃにして、ノアもベークマンも、お前の好きな奴を殺して、治療院の夢を叶える手伝いをしてやっても良い』

 顎を掴まれ、強引に上向かされる。視界に映ったのは深い紫紺。それはエリスを捕え、揺らいでは惑わし、哀れむように弧を描く。
『嘘はないぜ? 俺がお前を認めなければ。ノアの野郎も、クソみてぇな一連の悪夢もすっかり忘れられる。お前は夢を追う一人の女に戻れる、やり直せるのさ。いい話だろ?』
 悪魔はこれまでで一番甘く嗤った。「良いぞ」「復讐だ」「このまま黙っていられるか!」と、周りの叫び声達も口々にエリスへ投げかける。

(私は……裏切られたから、ナールさんと契約……? ノアに復讐して、また……治療院を…………?)
 朦朧とする意識の中で、深く、底の見えない紫紺の瞳がエリスを見ていた。

(あ……この瞳……)
 既視感にも似た感覚にエリスは手を伸ばす。
 目の前の紫の瞳が、暗く揺らいでいた青と重なる。
 あの頃、エリスは不安で仕方が無かった。穏やかで優しい瞳が、ふとした時に寂しく悲しい色になる事に気付いていたからだ。

『お前はまだ、ノアを信じるのか?』
 ナールの声がエリスに問いかけた。

(私は……)

 それは鮮やかに。エリスの記憶の中で変化していく。迷いに揺れていた瞳が、力強く澄んだ深い青色へと変わっていく。
 ――――僕は君と一緒に生きていきたいと思っている。――――やっぱり僕は君と居たい。無事に帰ってきて欲しい。
 夜を映す湖面を思わす瞳が、愛おしげな色を持ってエリスに微笑んだ気がした。

「……信じます。不安だからって、不確かな事に縋って、決めつけたくないです」

 真っ直ぐに悪魔を見つめ、エリスは伝える。迷いは無かった。
『いいのか? 俺との契約は?』
「代償があるのは貴方との契約も同じ。ならば、私はノアを信じる方にかけます。今は貴方との新たな契約は結びません」
『お前さ、信じたいだけだろ?』
 核心を突いた言葉に、苦笑いするしかない。エリスは頷く。

「はい。私はノアの事を全て知りません。離れていた間の事も、その前だって。多分半分も知らない……。でも、私が知っているノアは誠実な人です。誠実で、意外と不器用で。私は私の知るノアを信じたいと思ってます」

 エリスは超人でも天才でも無い。相手の事など全て知り得ないし、自分の気持ちでさえわからなくなる事がままある。ノアの気持ちや言葉は偽りで、ナールに示した答えも正解とは言い切れない。
 それでも。信じたいと思っている自分は紛れもない真実だ。

『あいつが裏切り、騙してるかもしれねぇんだぜ?』
「……もしそうだとしても、まずはちゃんとノアに確かめます。その後、私が思い切り頬を引っ叩いて喝入れて、カミラさんを幸せにする事を誓わせて別れて、お互い次に進んでも遅くないです。貴方がめちゃくちゃにする必要も、殺す必要もありません」
 言い切るエリスの目の前で、妖しげな笑みが深まり。

『俺には好きなモンがある』
 不意にナールは宙を仰いだ。

「え……?」
 意表をつかれ、呆けるエリスを置いたまま。悪魔は満面の笑みを見せる。見たことのない朗らかな微笑みを、どこか違うところで見た気がして、心臓が跳ねる。
『一つ、面白ぇ物。二つ、甘い物。三つ……』
「……?!」
 まるで世の理を説くように。耳元で悪魔は囁いた。

『足掻きながら泥水の中で生きる人間は嫌いじゃねえぜ。……未知は恐怖。己とは異なる生き物、考え、出来事、未来……逃れる為に人は物事に因果関係を見出しては、納得し、理解し、安らぎを得ようとする。人の願いは俺の願いさ。願いは欲となり、力を呼び、果を成していく……』
 いつものあの笑みで彼は嗤う。しかし、その笑顔に僅かな寂しさを覚えたのは気のせいだろうか。

『あとな。慎重な癖に、愛だの信頼だの大事にしやがる滑稽な女も嫌いじゃないぜ? お前が当てはまるかは、知らねぇけどな』
 叫び声達のざわめきと共に、ナールは闇へと溶けていく。

『正当に、見てやるよ。必要あらば呼ぶんだな』
 高慢な物言いに似合わぬ声音は、いつまでもエリスの耳に残っていた。