missing tragedy

cock-and-bull……¡

天罰でも、因果応報でもなく

 静寂を固く守る闇夜に荒い呼吸が響いている。

 屋敷から逃げるように飛び出てきたエーミールは、心臓に手を当てた。鼓動は普段よりもずっと速く、大きい。理由は歴然。信じられないモノを感じ、その後すぐに心の底から信じたくなかったモノを、認められないモノを実際に見てしまったからだ。

 淡い金色の髪は揺れていた。揺るがぬ意志を秘めた真っ青な瞳も、透き通るような肌も、触れた者の心を浄化してしまうような香りの魔力も。性別や顔の作りの差など些細な事。
 書斎で見た青年は、確かにエーミールが崇めた女神の血を引いていた。否、もしかしたら、彼女自身だったのではないかとさえエーミールは思い始めている。

 記憶はより鮮やかに。彼を四半世紀前へと引き戻す。

 聡明で女性としては落ち着いている声音に穏やかな微笑み。研究に向ける熱量は誰よりも大きく、熱っぽい眼差しはあの時まで魔術にしか向けられていなかった。

 そしてすぐに。彼女の死に様がエーミールの美しく崇高な記憶をかすめる。

 彼女は死んだ。彼女を貶(おとし)めた男も、男に協力した男も死んだ。
 全ては彼女を正しい道へと導き、永遠に女神として崇める為に。入念な計画を立て、一人ずつ順番に、エーミールは三人を殺めていった。

 計画は順調に進み、全ては上手くいった。たった一つ。バラバラになった筈の彼女の死体を手に入れ、弟子であるエーミールの魔力をもとに新たな女神を創造するという仕事を除いて。

「嘘だ……早く、早くあの方を集めて……」
 呂律の回らぬ自身にエーミールは気付かない。
 一刻も早く彼女を完成させなければ、彼の信じる真実が歪んでしまう。エーミールが成した事が全て無意味になる。そんな焦りだけが彼の体を動かしていた。

「ねぇ。エミィ。随分と楽しそうな事をしているのね?」
 ふと、柔らかな声がエーミールを呼ぶ。振り向いた先には今も尚求め、慕う美しい青色の瞳が在った。
「ア、アメリア様……?!」
「そんなに驚かなくても。言ったじゃない? 貴方の成長を見守るのが、師である私の役目だって」

 深い青の瞳が細まり、桜色の唇が弧を描く。淡い金の髪が闇夜に浮かぶ。
 目の前で笑うのはエーミールの記憶に残る、儚くも美しい女性ーーーーフェルザー家の遠縁にしてエーミールの師匠、天才魔術師アメリアだった。

「可愛い貴方が、か弱い女の子を襲おうとするなんて。悲しいわ。私の魔法が発動しなかったら、貴方はあの子を深く傷つけていたのよ?」
「こ、これには理由が……」

「エミィ」

 幼い弟子を窘める時と同じ声音に、エーミールは肩を揺らす。
 真っ白な手がかさついたエーミールの唇に触れ、深い青の瞳が月のように細まる。

「いつから言い訳をする子になったのかしら? 私があの方に嫁いでから? それとも、あの子が生まれてから? ああ! もしかして…………私に、特別なパイを贈ってからかしら?」

 妖艶な笑みが、真夜中の満月のように明瞭に事実を照らす。

 特別なパイ……それはエーミールが最後に彼女に贈ったあの菓子の事を指しているのだろう。
 元弟子で、元同僚でもあるからと許された贈り物。極限られた特定の魔力に触れた時のみ活性化し、生物の身体を蝕み壊していくあの悪魔のような特別なパイ。

「美味しかったわ。シナモンがきいていて。毒味役の方々も、メイド達も、皆で楽しく頂いたの。私の大切な弟子がやっと愛する方と結ばれるのよって自慢したら、あの子たちも本当に喜んでくれて」
「ち、違うのです、わ、私は……」
「良いのよ。だってあの子たちはまだ元気ですもの。これからもね。効いたのは私達だけ。不審な点はあっても、決して見た者はいないなんて。感心しちゃった。とっても良い方法だったわ」

 エーミールの記憶と同じように彼女は穏やかに微笑む。まるで夢のようだった。女神と崇める魔術師から賞賛に、エーミールの頬は赤くなる。

「ねぇ、エミィ。私ね、お願いがあるの」

 上目遣いにエーミールの心臓が跳ねる。美しく白い手が、エーミールの骸骨のような手に重なった。

「貴方の愛を証明して欲しいの……一度だけよ」
 熱を持って重なる手も、耳元で囁かれた個人的なお願いも、彼女からの特別な行為は初めての事だった。
「あ、あぁ……」
 感極まったエーミールから嗚咽と涙が溢れる。

「エミィ。私の大事なそれを……私を創り替えたそれを……」

 やがて。艶やかな唇から零れた言葉は、エーミールの耳朶を震わせ、汚れしゃがれた手をゆっくりと動かした。
「そう。いい子ね。そのまま見せて。私ね、実は面白いものと甘い者が大好きなのよ。でも……」

 漆黒の軸が月光を反射する。女神の象徴、青の螺旋と翼の紋様がエーミールの視界の端を過ぎって。
 女神の教えに初めて、エーミールは逆らった。

「あら?」

 瞬く彼女に、エーミールは眉を下げる。愛おしげに胸に抱き、彼は呟くように目の前の女に告げた。

「すみません、出来ません、私には。これは、これは大事な貴女の……」

 代わりとばかりに、懐からもう一つのそれを取り出して、エーミールは思い切り振り上げる。

 再び漆黒の軸が月光を弾く。
 国立魔術院の首席卒業を祝う特注品。創設者の唯一無二の魔力によって、魔法記録機能が備わったそれは、今度こそ彼女の望み通りの場所へと突き立てられる。

『悪いな。俺は甘いモンは好きだが、アイツら(甘い者)ほど、甘くはなれねぇんだわ』

 彼女の深い青色の瞳は既に、闇よりも深く濃い紫へと変わりつつあった。


 ∞∞∞

 
 紅を引いたサラの唇からフクロウの鳴き声が零れる。同じ鳴き声が返り、あたりは静寂を取り戻した。
 件の屋敷の裏手、広大な庭園の片隅で。サラは仲間との連絡を取り終えた。

「何笑ってるのよ?」
「? 嬉しいから?」

 似合わぬ騎士団の訓練服に身を包んだ男は、記憶と違わず気の抜けた返事を返す。

 すらりとした手足に適度に鍛えられ、引き締まった体躯。少しだけ跳ねている淡い金の髪と、浅葱色に近い透き通るような碧眼は闇の中でも目を引く。
 気を抜くと崩れる口調としまりのないふにゃふにゃの笑い癖を除けば、端正な顔立ちだけでなく立ち居振る舞いまでもが飛び抜けて良い。これで社会的地位も将来的価値も補償されているなど、神の采配とは意外に杜撰(ずさん)だとサラは思う。

「こっちは終わったけれども、まだ私達の仕事は残ってるんだから。早く戻るわよ。はぁ……貴方のお守りは卒業したはずなのに。……一体、どうしてこうなったのかしら?」
 目の前のにやつく男と容姿だけはよく似ている義弟を思い浮かべながら、サラは歩みを進める。可愛い義弟が仕組んだこととは信じたくない。

 足早に裏庭を横切り、水溜まりを飛び越える気安さで自身の身長の二倍はあるだろう塀を飛び込える。顔色ひとつ変えずについてくる男に、ため息が更に深くなった。
(おかしな方向に成長しちゃって……政務にはきちんと取り組めてるのかしら? と言うか。いくら民主化の動きがあると言っても、普通王族ってこんなに暇で身軽な職業じゃないのだけれど?)

「サラ……」
 つと、彼の声が強ばる。視線の先、大木の根元に蹲る影にサラは眉をひそめた。
 警戒を解かずに、サラは影へと近付く。

「……?! どういう事?!」

 これまで数多の物言わぬ肉塊を目にしてきたサラも、男の正体に絶句せずにはいられなかった。

 大木に縋るように倒れていたのは、エーミール・フェルザー。長年サラ達が秘密裏に調べ、現在進行形で証拠を揃え、先程わざと逃がしたばかりの相手だった。
 彼は今夜のサラ達の働きにより、数日後には死体損壊の罪で警察に聴取、その後至って穏便で平和な方法でエリオット率いる王家の私設部隊”植物(プランツ)”へと身柄が渡る予定だったのだが。

 まだ温もりの残る体は小さな万年筆を抱く。それはサラ達が必死で探し、証拠の品として押収するはずだった故王妃アメリアの私物。

「……可哀想に……」
 瞬時に全てを悟ったサラから、幾度も紡いだ台詞が重く、漏れる。
 仇敵の悲愴の浮かぶ死に顔に、後ろの彼もまた、同じ推測へと行き着いたのだろう。彼の顔には驚きよりも悲哀が浮かんでいた。
 念の為と脈を確かめ、サラは筋張った首に突き立ったナイフを抜いた。無意味なことと知りつつ、それは彼の腕の中にある方が良い気がしたのだ。
 最期の血飛沫は闇夜に霞み、従順に役目を果たしたそれは主へのはなむけの如く宙に紋を浮かばせる。

「これが……悪魔なのね……」
 サラはナイフをそっと、エーミールの傍へと置いた。数十年前、とある魔術師が弟子の幸福を祈り、慈愛と覚悟(魔力)を込めて託したそれを。

「……ああ。でも……馬鹿だからかな。俺にはあれの行いが……平凡で、一種の救いに見える時がある」

 サラの横で屈んだ彼の碧眼が滲む。すぐ傍であの、忘れもしない叫び声達が聞こえた気がする。

「私もよ。でも……私はこんな救いが一番良かったなんて、思えないわ……」

 稲妻を纏う真白き翼に寄り添う漆黒の爪――――サラやアメリアの古巣、王家の影を担う植物(プランツ)の忌まわしき紋は、大事な物を必死で守る獣の一番近くで溶けて、消えた。


 ∞∞∞

 
 健やかな寝息だけが心地良く在る寝室で、ノアはエリスの茶の髪を撫でた。

 太くて艶やかな髪は、まだ先が様々な方向に跳ねている。温かみのある琥珀色の瞳は閉じられ、幼い頃よりは少しだけ白い滑らかな肌は今もってノアを魅力していた。

 今も昔も、ノアはエリスを誇りに思う。ただ、優しい女の子――――もうそんな単純な言葉一つでは表せない。彼女の存在はノアの世界の全てだという考えもまた、少し違うと思え始めている。

 ノアの世界の全てになる事をエリスは望んでいない。そして彼女を幸せにするには、一番近くで彼女を支えて共に生き、幸せになるには、きっと”彼女が世界の全て”などという視野の狭い身勝手な人間のままではいけないのだともノアは思う。
 気付けたのは当時は不幸だ、理不尽だと感じていた過去と、そこからの未来と、エリスを始め兄などの周りの人々のお陰だ。

(ナールとの出会いも、変われると思ってたんだ。僕は結局、悪魔だという大事な事を忘れていたのか……?)

 屋敷へと帰ったノア達を待ち受けていたのは、サラとカルロ、エリオットの三人と、エーミールが自死したとの情報だった。

 エーミールにナールを差し向けたのはノアだ。
 もちろん、彼の死を望んでナールに頼んだ訳では無い。しかしノアが判断を誤った為に、エーミールを死に追いやってしまった事は紛れもない事実だった。

 無数の枷は、目に見えずとも今もナールとノアを縛り続けている。
(彼に人を殺せる力は無いから、悪魔だが人間らしい部分もあるから……その考えがどうして最悪の結果を招くと、僕は予想出来なかったんだ……)
 ノアは強く唇を噛む。知らずと握る拳に力が入った。

 ノアの祖先がナールとの契約で得た力は、使う者の能力に大きく左右される。ノアの力不足は否めない。
 先刻、ベッドへと入るエリスに、明日には全てを話すと約束した。
 彼女はどう思うだろう。皮肉にもノアが怖いのはその一点だけだ。

『なぁ、これでも悪かったとは思ってるんだ』
 ふと、後ろからかけられた言葉にノアはゆっくりと振り向いた。
『でも、俺はお前らみたくなれねぇ。あの時、お前が洞窟で枷を解いてくれた時に偶然にも俺は思い出しちまった』
「……」
 独白のように、悪魔は続ける。
『それに俺はあいつが憎かったんだ。アメリアはお節介で面倒くせえ女だったし、旦那のジルは面倒くせぇ上に臆病なヘタレでな。が、二人ともお前に似てつまんねぇ奴じゃなかった。あんな面白くもねぇ奴に人生をめちゃくちゃにされるいわれなんてねぇ……前は人間がどうなろうと平気だったのに俺は……。アイツらとの約束を守らねぇとって。急にそんな気持ちになって……』

「それで……奴を追い詰めて、君自身は楽になれたの?」

 堪えきれなかった怒りが、唇から零れた声の温もりを完全に奪った。
 緩く首を振り、悪魔は笑う。その首には今もノアと揃いの鈍色の首輪が光っている。一方で、母と悪魔との約束を記した青色のそれはノアにもナールにも既に無い。

『怒ってるよな?』
「ああ。とても。君にじゃなくて……愚かな僕に」
『責任感じるなって。俺は人の制御を受けない、身勝手気ままな悪魔なんだぜ? いつだって裏切るし、気まぐれに守るのも契約と約束だけ。だから信用されねぇ』

 やっぱり悪魔は笑う。初めて会ったその時から、時々泣きそうな顔をしながらも彼は笑い続ける。

 誰かに話したらそれこそ一笑に付されるとは思うが、己の罪を自覚するから彼は嗤い続けるのだと。そして、ちょっとした事でそんな呪いは解けるのだと、ノアは今でも信じて止まない。

『あいつ、気付いてたぜ。目の前に居るのが愛した女じゃねぇって』
「……」
『なのに、愛した女(女神)の願いに逆らって、俺(悪魔)が頼んだ通りに死んだんだ。ちっとも面白くねぇ。結局……約束がこんな形で叶う事を望んでたのは、あの男だけだったのかもな』

 カーテンの隙間から覗く闇夜を仰ぎ、ナールはノアに告げる。

『ごめんな』
「僕も悪かった……出立の件は、少しだけ待ってくれ……」

 ひと時の沈黙の後に。

『……お前はさぁ。やっぱり、甘いよなぁ』

 凡庸で、底の知れぬ悪魔の呟きが零れる。
 一人の青年の硬かった表情が僅かに崩れて。互いに苦さを含んだ笑みが浮かぶ。

「どうしてそんな事を?」
『親や親族をあんな目に合わせて、しかも母親の死体を集めようって狂人によ、普通は罪を罪として受け止めて欲しいなんて……思わないぜ?』
「別にそんなの価値観の問題だよ」
『あっさり言うねぇ』
「そう? 生きるのも認めるのも、本人次第で残酷な罰にも希望にもなり得ると思うから……」

 だから、ノアはエーミールに求めた。今の彼にとって最低最悪の罰を、何れは希望となる事を願いつつ。もちろん、ノアの考えが全て彼に対しての処遇に反映された訳でもないが。

 カーテンを開け、ノアは窓の外へと視線を移す。
 昼間の長閑な風景は一転、木々や山々で造られた濃淡のある闇と星々が煌めく夜空、淡い月光により神秘的な世界へと変貌している。

 エーミールは最期に、この満たされた月が照らす世界を見て、何を思っただろうか。

『前言撤回だ。お前、いい性格してるよ』
「面白味はないけどね」
『いいや。思えば相当いかれてるぜ? わざと噂を流したり、協力仰いだ人間にまで全部話さなかったり、義姉をダシに兄貴を使ったり。しかもそれが己の主義を貫く為なんだとのたまいやがる。あぁ、あと。好きな女の健康の為に何度も死にかけたり、凡人になる為に悪魔を利用したりもしないぜ、普通?』
「どうだろ? ……比べるにも、そもそも人生で悪魔と関われる人間が少ないし……?」

 眉間にしわを寄せ、暫し考え込むノアに悪魔は嗤う。

『悪魔の戯言に真面目に返事する時点でなァ?』
 紫紺の瞳が細まる。

 その日はエーミールを悼むかのように。月が綺麗な夜だった。