missing tragedy

cock-and-bull……¡

続いていた日常と、始まらなかったおとぎ話に。 ①

「しかし、人間万事塞翁が馬とかなんとか。昔の偉い人が言ったとか言わないとか、不思議なもんだが。兎にも角にも、治療院開院おめでとさん!」
「ありがとうございます」

 地方の小さな薬局で。がっはっはと笑いながら手を叩く大男に、エリスもつられて満面の笑みを返す。

 冬を超え、短い余暇を楽しみ始めたストーブの上には、気の早いジウの母から贈られた祝いの花が乗っている。窓の外の畑には淡い色が可愛らしい豆の花や、いつの間にか生えてきた野草の花たちで賑わっていた。青々とした緑は目に眩しく、吹き抜ける風は心地良い。

 ノアと再会してから既に一ヶ月半。最近は汗ばむような日も出てきた。

「しっかしまさかノアが大成して帰ってくるなんてなぁ! どうやら実家のゴタゴタで失踪みたくなっちまったらしいが、きっちり医師免許も取って、金もコネも揃えて準備万端迎えに来るなんて漢だよなぁ。最初はエリスの代わりにぶん殴ってやろうかと思ったけどな!」
「はは……」
 すっかり良くなった肩をぐるぐる回しながら、ジョニーは白い歯を見せて笑う。

 ジョニーの言葉の通り、ノアは帰ってきた。

 当初はエリスを捨てて王都に出たものの失敗し、身寄りもない為に村に出戻ったのだろうとの噂は真実のように語られていた。
 しかもノア自身が何か主張する事はなく、エリス達の元へ帰ってきた事だけを認めた為に、一時はどこの極悪人の話だろうと首を傾げる噂まで。根も葉もない疑惑を信じ込み、ジョニーのように喧嘩腰で突っかかってくる者や、露骨に顔をしかめる者も少なくなかった。

 しかし、そこはノアの人柄やシンハ達の反応も大きかったのか。
 元からの知り合いは帰郷を喜ぶ者も多く、関わっていく中でノアに悪感情を抱く村の者はいつの間にかいなくなっていた。
 そこに来て、隣町の家具店店主からの来年には開院するとの具体的な情報と、ノアが購入した屋敷の諸手続きをした不動産屋と役所の男性、大家のジョニーの話が噂好きの奥様に伝わり。

 極めつけはジウの「俺がノアを見張ってるんだ!」発言である。

 複数人に説明を求められたノアとエリスは、村人に治療院開院に向けて準備を始めている事や、具体的な目処がたったら改めて伝える予定だった事を謝罪と共に話した。
 その際、何故かノアがエリスの尻に敷かれているとの噂も広がったのだけは解せないが。何はともあれ、ノアが受け入れられたのは嬉しい事である。

「ところで……別れてた間もちゃあんと繋がってたんだろ? なのに色男と噂になったぁなんて、実際はベークマングループとのコネに繋がった訳だが、アイツは大丈夫なのか?」
「ええと……多分……」

 ジョニーの懸念にエリスはどう答えて良いか迷う。

 現在、フェリクスとの事については、最初からビジネス上の付き合いであり、恋愛や結婚の話は周囲の人々の聞き間違いや誤解だったとの噂が有力となっている。

 実際、晩餐会の事件の後、治療院開院の為にとの名目でベークマングループから500万グルの寄附の話があったのは事実だ。
 大金に驚く一方で、手紙の内容からノアの計らいの気配を感じたエリスはノアに尋ね、真相を聞き出した上で半額の250万グルの寄附金の受け取りを受諾。
 エリスが貯めていた資金に、ノアが王都で密かに働き貯めたもので治療院開院の目処はたち、洞窟調査と晩餐会参加による謝礼金とカルロからの特別謝礼金という名の祝い金を半年単位の長期受取にしたことで、十年は治療院が赤字でも生活と経営くらいはできるだろうとの目算もたった。
 心配していた借金も、ノアからの話通り証書に魔法による細工が施されていた事が証明され、先日正式に無効が認められたばかり。

 さらに驚くべきは、慌てて備品関連の手配をし直そうとしたエリスにノアが発した言葉。
 「余計な事とは思ったんだけど……」との前置きと苦笑と共に告げられた言葉は忘れられない。

 エリスが謝罪して回った家具店や医療器具会社をはじめ、薬問屋や同業者等ともノアは既に村へと帰ってきた日に顔見知りになっており、すぐに諸々の手配や手続きが出来るようにも準備されていたなど。……つまり重なった幸運の大半はノアが計画し、仕組んだなどと。誰が想像しただろうか。

 なお、前述の通りベークマングループとも経営上、良好な関係が続いている。

「その、ベークマンと言やあ、かなりの企業じゃねぇか。俺も若い頃は仕事を口実に母ちゃんに近付く男がいて、ヤキモキしたもんだよ」
 我が身のことのようにノアを心配してくれる事は有難いが、ノアが未だにフェリクスへの嫉妬心に思い悩んでいるかと問われれば、エリスは首を傾げるだろう。

(あれからノアはベークマンさんの希望通り、彼を隣のリゾルトの大学に留学させて……ベークマンさん自身は学びながら、つい先日起業。ご両親は大喜びしたのは良いけれど……)

 そこからのノアの手腕にもエリスは舌を巻いている。

 フェリクス父からの留学斡旋の礼金を断る代わりに、ノアは社会奉仕事業として治療院への期限付き提携の話をさりげなく持ち出したのだ。
 フェリクスの父も商人。検討したいとの申し出があったが、結果は寄附金をつけてならば構わないとの高待遇であった。どうやらその辺りは税金対策の絡みもあるらしく、そうなれば寄附金の受け取りも断りきれない。

 一方、フェリクスには留学斡旋の礼として、人工魔鉱石の研究協力企業と販路開拓の情報収集して貰っている。
 表向きはノアからの個人的なお願いではあるが、実際は魔術師協会や魔法院、国を巻き込んだ事業だ。その事実に商機に敏感なフェリクス親子が気付いているかは、エリスにもわからない。

(大丈夫……かぁ。ベークマンさん達に対しては、ノアも私も同じ気持ちだと思うわ……)

 寄附金自体はノアも予想外。提携もあくまで社会奉仕を根本とした上での双方の経済利益を見込んだものであり、額としても当初提示された礼金より小さくなるだろう。

 また研究企業や販路開拓の情報自体も、現時点ではリゾルト国外に流出して問題があるというものでもない。
 咎められる事としては、エリスが偽の借金を負わされた時のように。魔法で公文書である出入国・留学許可証を細工し、フェリクスを国立魔術大学の魔法工学科ではなく、企業との連携に強い国立工科大学の魔法工学科に留学させた事くらいではあるだろうが。

 それでも、エリスは罪悪感を感じてしまう。その点はノアも同様に思っているのか、はたまた既にフェリクスとは何かしらの通じ合うものを持っているのか。
 エリスに説明する時、決意と共に責任を感じているような素振りが見えるし、フェリクスとのやり取りも仕事中のシンハ達に対してのそれと同様だ。

「労わってやれよ、エリス。男は好きな女や信頼してるモンの前では見栄を張るもんだ。好きな女でも、大切なダチでも、子供でも。大事なモンが笑ってくれんなら、なりふり構わず走り回って。苦しくても傷付いても、アイツが笑ってくれりゃあ、まあ良いかって思っちまうんだ」
「はい……そうですね。本当に……」

 ジョニーの言葉がノアに重なる。

 誰でもこれだけの準備をし、誰かの信用を得て事を進めるには、能力や人柄だけではない並々ならぬ努力が必要だ。
 医師免許にしても、ノアが貯めた開院資金にしても。決して容易な事ではない。エリスと離れ、城に囚わている間も決して諦めず、負けずに努力してきた成果に他ならない。

(ノアがそこをあんまり話さないのも、ジョニーさんの言うような部分があるんだろうな……)

「だからな、その。特に資金繰りなんかの弱味は、母ちゃんにはなかなか言えねぇんだ。怪しくなったらウチの母ちゃんとか、ジウん家の親父とかに言えよ。お前だけじゃねぇ、ノアもだ。もちろんウチもウチで色々あっから出来ることは限られてるが、皆、お前らの味方だからな」

 ジョニーの言葉に、僅かに瞼が熱くなる。
 ずっと周りには沢山の人がいた事を、エリスは今更ながら思い出す。

「ありがとうございます……」
「そりゃこっちの台詞だ。この村に医者をつくってくれて、ありがとうな」
 日焼けした顔に浮かぶ笑みに偽りは無い。エリスの顔にもまた、ジョニーと同じように満面の笑みが浮かんだ。
 

「そう言えば、ノアと言えばびっくりだよな」
「え?」

 つと、ノアという言葉と共にジョニーの顔に影が指す。
 なんの心当たりもないエリスは、思わず首を捻った。

「ノアとおんなじ名前の王子様の方だよ。可哀想になぁ。婚約だの兄弟で揉めねぇかだの騒がれてたが、医者の話だと城に戻ったぁ時からもう長くはなかったらしいじゃねぇが。そう考えると最後は家族に囲まれて、美味いもん食って、寝て。全員に看取られて。親父とお袋と同じ墓に入れたんだよな……」
「ええ……」
 寂しそうに呟くジョニーに、エリスは言葉を濁す。

 第三王子、ノア・マリーツ・エリオット・ルイス・ファン・デル・ライはノアの言葉通り逝去した。

 両親の残酷な死と真相の無慈悲さにより、病弱な彼の命が潰えてしまったのか。最後は家族と過ごし、幸せに王宮殿の奥で息を引き取ったのか。それは誰にもわからない(・・・・・)。

 わかっているのは、いずれは逞しい民衆から病弱な第三王子の存在は忘れ去られてしまうだろう事と。彼本人がそれを願っている事だけ。

「それでも若いしなぁ。王妃様達の変な噂が晴れたのは、せめてもの救いだったけどな」
「ええ……」
「フェルザー侯爵家も当主が隠居して息子が引き継いで。陛下ご夫妻の事もやっぱり偶然だったとは発表があったが、あそこら辺が悪魔を使って、事故やら病気やらを誘発させたなんて噂も……」
 
 当の悪魔が聞いたら苦い顔をしそうだ。
 『よく言うぜ! 契約がない分人間の方が余っ程悪徳だし、悪魔如きに振り回される人間が弱いと思わねぇか? 大体よォ……』……そんな悪態が聞こえてきそうだった。
「おっと。いけねぇいけねぇ。御三方の無念が晴らせただけでも良かったよなぁ」
 ジョニーの言葉にエリスも同意を示す。
 当初計画通り、ノア達の目的の多くは達せられた。

 晩餐会の本当の目的。それは証拠の魔法記録機能付き万年筆の仕組み解明と、現時点での所在であった。
 フェリクス、そしてバルト両者の協力もあり、ノア達は万年筆の秘密を確かめ、入手し解析も無事に終わり。具体的な犯行方法など事件の詳細も明らかになり、公への発表も予定通りなされた。

 国王夫妻及び王弟は偶然に重なった不運であり、王妃や王弟にまつわる噂は私怨に囚われたエーミール伯爵が独断で行ったーーーーそれが公の発表である。

 唯一、エーミールの自死だけはノア達の想定外の出来事であり、ノアが計画の為にエリオットを介し流した悪魔伯爵の噂やフェルザー侯爵家当主の隠居騒動と合わさって、悪魔とエーミールを結びつけたに噂もちらほらと見られる。

 大罪人を出したフェルザー家の当主の扱いが軽すぎるとの意見もあったが、そこは情報操作にも長ける植物(プランツ)だ。

 王妃の実家と繋がりが深かった事や、独断による単独計画だった事、当人の死亡により証拠が不十分となり警察内部では犯行の立証に不安の声があった事などなど。ある事もない事も書き並べられる週刊誌を利用し、世論をうまく調整している。


 この先も真実は決して語り継がれない。ノアやカルロなどの王家の面々、五大家の当主ら、そして斜陽のバルト伯爵や悪魔までが噛んだ事は、第三王子の本当の行く末と共に永遠に明かされないだろう。
 
 同様にまた、一人の哀れな魔術師がどうして自ら命を絶つに至ったのかも、最期に何を思ったのかもわからない。
 全ては想像の範疇を超えず。彼が真に眠る場所を知る者も少ない。


 「ま、でも明るい話題もあるしな! なんたって次期国王最有力のカル……」
「大家のおっさん! ちょっと匿ってくれ!」

 その時。薬局の扉の鈴の音と共に、エリスの想像の中で悪態をついていた声が薬局中に響き渡った。
 次いで。慣れ親しんだ柔らかな声音。
「ナー……ライ! あ、ジョニーさん。すみません!」
 あどけない軽やかな笑い声と、
「へへへっ、ライのやつ、カミラ姉ちゃんがこわいんだ!」
「ちょっとライ様! 貴方わかってますの? 貴方は私(わたくし)から離れられない身ですのよ?!」
 鈴の音を鳴らしたような愛らしい声が続く。

「元気だなぁ」
「そうですね」

 ジョニーとエリスは顔を見合わせ笑う。

 小さな薬局へと怒涛の勢いで入ってきたのは四人。
 ライと呼ばれた青年は、かの悪魔ナール・オロバス・ライである。
 長い手足に褐色の肌、紫紺の瞳と同じ色の長髪。逞しい体躯も不遜な態度も、周りの人間が認識しているという点事以外は、元の姿と変わらない。

 続けて入ってきたのはノアと、再来月から学校に行けるのが楽しみな少年ジウ。

 ノアは元上司ラングロワの計らいにより、治療院開院までは隣町の薬局で薬師として働いている。今日も今日とて午前中は仕事であった為に白衣を身にまとっているのは良いとして。ズボンの裾を捲り、泥だらけのジウを背負っているのは謎である。

 そして最後に入ってきたのは浮世離れした美しさの少女、カミラ・ハモンド。
 緩くカーブした金髪とエメラルドの瞳は晩餐会の時の記憶と同じだが、本物(・・)は雰囲気や装いがだいぶ違う。
 足元までの長さの黒いローブに、同系色のこざっぱりしたドレス、ブーツと生まれ待っての容姿以外は貴族としては大変地味だ。
 最近知ったハモンド家の令嬢カミラの噂――魔術研究にのめり込み、放課後は図書館に入り浸るか、学校指定のローブを翻して悪魔を追いかけ回しているという噂は――もしかしたら既に噂ではなくなっているかもしれない。

「逃げても無駄ですわ! これから異国の地で貴方と共に過ごす訳ですから、事前に隅から隅まで調べておくことは必然!! 羞恥心なんて持つだけ無駄です! それとも私が変な気を起こすとでも思ってらっしゃるの?」
「既に変な気を起こしてるじゃねーか!」

 自身の希望によりナールからライへと呼び名が変わった青年は、カミラに慄き、ジョニーの大きな体の後ろへと隠れる。

「大家、なんとかしてくれ!」
「えーと、カミラお嬢ちゃん、その……」
「おどき下さいませ。私は痴女でも変態でもありませんわ。魔術師の責任を果たす為に、その男を隅々まで調べ尽くす義務がありますの」

 大の男を前にし、カミラは言い切る。その瞳に宿る光は純粋な好奇心と責任感に満ち溢れ、非常に強(したた)かだ。

「ノアくん、おやつない? お腹すいたよ」
「消毒してからね、ジウ。エリス、ジウのお母さんに連絡できる? また土手で派手に転んじゃったみたいで」
「わかった。あ、奥の部屋空いてるよ?」
「ありがとう。ジウ、奥でお母さん待ちながら消毒しようか」
「えっ⁉ お、オレだいじょうぶだから! 母ちゃんよばなくていいよ!」
「ライ様! 観念して下さいな!」
 昼時の狭い薬局内は一時混乱を極め。

 その後、カミラはナールの首根っこを掴みどこかへ。ジョニーも家へと帰って行った。母親の到着に怯えていたジウも、消毒後のかぼちゃプリンが幸を期し、母が迎えに来る頃には機嫌をなおしていた。

「本当にありがとうございました」
「ノアくん、エリス姉ちゃんまたね!」
 手を振る親子に、ノアとエリスも同じものを返す。

 閉店のプレートをかけながら、賑やかな面々の背中を送って。エリスとノアの視線が交わった。

「おかえりなさい? ノア」
「ただいま」

 気の早いエリスの言葉に、ノアものってくれる。温もりがエリスを包み、頬に柔らかな唇が触れた。

「ナールさん達、仲良くなれそう?」
「もう良いんじゃないかな? カミラ嬢から本気で逃げたいなら、姿を消してるはずだよ」
 騒々しい二人を思い浮かべながら、エリスとノアは後片付けを進める。

 カミラ・ハモンドは確かにノアと顔見知りであった。しかも彼女は正真正銘、ノアと血の繋がりのある従姉妹、王妃との一件で汚名を着せられた王弟の娘である。
 病弱なノアがその身の呪いに耐えられなかったように。彼女もまた、魔力に敏感な体質と病弱な体により呪いに耐えられず、体質故に王家の秘密を知り、城の外で育てられた王族である。今は男爵家の子女として学校に通うが、以前はかなり過酷な環境に身を置いていた。

 また、エリスが晩餐会で出会ったカミラはこの逞しい従姉妹の令嬢では無い。
 儚く美しいあの令嬢こそ、ナールが本物のカミラを装ったもの。エリスの反応を見たいがあまり、彼が無断で変化したのだそうだ。

 しょげかえるノアから事情を話された時は、数々の新情報に実感が湧かなかったが、当人達に出会えば一目瞭然。ナールへの怒りとエリスへの罪悪感を一切隠さぬ素直なカミラと、珍しくばつが悪そうに口ごもる悪魔。ものの数分で戸惑いなど吹っ飛んでしまった事は記憶に新しい。

「再来週には出立なのよね?」
 箒を持つ手が止まる。
「お祝いは日持ちするお菓子が良いって」
 ノアからは寂しげな笑みと頷きが返された。

 ナールはカミラと共にリゾルトへと旅立つ。

 魔術師協会筆頭のジーニアスとまではいかずとも、彼女は優秀な魔術師。それに悪魔関連の知識と制御だけで言えば、国内で右に出る者はいないと言う。王族でありながら、"植物(プランツ)"に所属する彼女ならば秘密を漏らすリスクを知りつつ、得られる益もない。監視者をカミラにするという案は、事情を知る王族とナール、両者が譲歩し合い行き着いた先の最善策なのだろう。

「寂しくなるなぁ……」
「うん。でも、それがナールとの約束だからね」

 ノアが難色を示すカルロ達を必死に説得し、サラや会ったこともない従姉妹のカミラにまで協力を仰ぎ、奔走した事をエリスは知っている。

(契約じゃなくて、約束なんだよなぁ……。それも悪魔とじゃ無くて、友人のナールさんとの……)

 ハの字に下がる眉をエリスは見つめた。
 たいしたことではないと知りつつ、ナールに対する想いがノアと重なった気がして、頬が緩む。

「エリス。この後ご飯を食べたら、洞窟に行きたいんだけど良い? 正式に調査結果の報告が出たんだ」
「うん、良いけど? ……そっか。結果が出たんだ。専門的な知識も無いし、至らない調査員だったけれど……。楽しみ」

「お疲れ様、エリス」
「いえいえ。お疲れ様、ノア」

 ノアが振り出した小切手も無事換金前に回収した事もあり、報酬は治療院への運営費用と今後の生活費へと回す事を決めた。
 とは言え、微力ではあろうが自身の調査や採取がどのような形となったのかは気になっていたのだ。
 たとえ今回の調査で期待した結果が得られずとも、次への足がかりになると良い。そして出来ることなら、どうかこの国の平和に繋がるように。エリスは願っていた。

(ノアの言うとおり無駄なように思えるデータも、積み重なって得られるものは必ずあるはず。……できれば、ノアの今後の仕事に役立つと良いな……)
 これから彼はミニアムの治療院で医師『ノア』として働く傍ら、新たに受け継いだ名に恥じぬ仕事も請け負っていく。

 自惚れや自己満足であるかもしれないが、叶うならば。どんなノアで在る時も、エリスは傍で支え、励まし合える存在で居たい。

「ノア! 良かったらお昼はパンにでもして、外で食べない?」
「良いね。今の時期だとヤロウの花もきっと綺麗だよ」
「うんうん。来週の下見も出来るわ。乾燥すれば冬まで持つだろうし」
「あ……ええと、それなんだけ……………………ううん、そうだね」

 隣のノアが一瞬だけ宙を仰ぎ、頬が僅かに赤らんだのは気のせいだろうか。

 エリスが首を傾げると、ノアは苦笑と共に「ごめん、物凄く気が早かった」と更なる謎の言葉を零した。