missing tragedy

その声、違反行為です

▽その表情にも注意です ②

 耳元がくすぐったい。誰かにすぐそばで何か囁かれていた。
 やや低音のその声はとても甘く、心地よい。ときおり、くすりと無邪気な声色で笑われ、かかる吐息が胸の鼓動を速くさせた。
「優乃……」
 不意に、名前を呼ばれた気がして心臓が跳ねる。その時に肩を揺らして驚いてしまったからだろうか。こちらを気遣うようにそっと温かい何かが肩に触れた。
 安心するそれが、ゆっくりとさするように肩を撫でる。
 父の手のような気もするのだが、それでもこの早まる鼓動が明らかに別人を指していた。
 しかし、優乃にはそれが誰だかがわからない。
 ただ、とても離れ難いことだけはわかる。
「優乃……可愛い……」
 可愛いと言われ嬉しくない訳では無い。ただ言われなれないその言葉は素直に受け取れない。こそばゆくて、頬が熱くなってしまう。その言葉も、ただの他人に言われたならばこんなに照れることもなかっただろう。でもその声は懐かしく、一番優乃の好きな声だ。
 照れ屋で、ゲームが好きで、優しくて、でも部屋はすこぶる汚かった気がする彼は、いったい誰なのだろう。
「優乃……」
 再び耳元で名前を呼ばれ、優乃の思考は止まった。吐息がかかり、思わず身をよじる。くすぐったくて、恥ずかしくて、どうにかなってしまいそうだ。
「優乃、大丈夫……?」
「ふ、あっ」
 首筋に吐息がかかって、変な声がでてしまう。今度は別の意味で恥ずかしくなって優乃は更に赤面した。
 優乃の声に驚いたのか、はたまたひいたのか感じていた温もりが遠ざかる。恋しくなって無意識のうちに手を伸ばせば、その手を引かれふんわりと温かいそれに身体全体包まれた。
「可愛い声、出さないで。我慢出来なくなる……」
 先程とはうってかわって切羽詰まった、余裕のない声に心音が速くなる。
 この人は誰だかなんて、誰かに聞くのは野暮な気がした。
「……の、優乃……!」
「ふぎゃ……」
 うっとりするような低音に対して、優乃の口から出た音はひどく不快なものだった。
「っ、あはははは!」
 うっすらと目を開ければ、お腹を抱えて笑う見慣れた男の姿が目に入る。目の前に広がっている光景への理解が追い付かず、優乃は目を瞬かせた。
「く、国本さん……?」
 子憎たらしいほどに無邪気なさまで笑い続ける誠司を睨みつけると、その笑い声はいったん止まる。しかしすぐに、我慢が聞かなくなったのか誠司は笑い始めた。
 いったい何がそんなにおかしいのか、優乃には理解不能だ。
「いや、ごめん、その……あまりにもどっかの怪獣みたいだなって!」
「怪獣?!」
 あまりの言い草に眼鏡をずらして涙をふく彼を睨みあげる。ところが、思ったような効果が出るどころか、逆に誠司は頬を緩めてニコニコとするばかりだ。
 怪獣がいたくお気に召したらしい。優乃としては不服極まりないが。
「ちょっと、あんた、年上である私にむかって怪獣とは何ですか!! 怪獣とは!!」
「許してよ? ね?」
「はぁー?! イケボだからって調子に乗って!! これだからイケメンとイケボは!!!」
 偏見だが、これくらい言わせてもらってもいいと思う。第一、声優である彼に『イケボ』発言は誉め言葉の一つだと受け取ってもらいたいくらいだ。それに、多少理不尽だろうが、なんだろうが『怪獣』に比べたら可愛いものだ。
「ねえねえ」
 つと、そっぽを向いていた優乃の耳元で誠司が囁く。その魅惑的な声色に、思わず肩を揺らすと彼はそれをさえも心得ているかのごとく口角をあげた。
「優乃……」
 ぞくりとした感覚が背中に走る。頬がかあっと熱くなって思わず目を強く瞑ってしまう。しかしそれはむしろ感覚を研ぎ澄まさせただけで、優乃を敏感にさせただけだった。
 気づけば、誠司は後ろから優乃を両手で囲うように壁に手をついている。完全に逃げられない態勢だ。
 うなじに、耳元にかかる吐息がくすぐったくて、恥ずかしい。向けられる視線に、隣人に向けられるもの以上のものを感じて、ますます優乃は赤くなった。
(うう、これ遊ばれてるかも……)
 そうは思っていても、こういう事に慣れていない優乃にとって軽くいなすことは難しく。うなじまで真っ赤に染めて壁に顔を埋めることしかできない。
「優乃……俺、優乃のこと……」
 何かを誠司が言いかけたその時。突如けたたましい電話のベルが鳴り響いた。
 発信源は優乃の携帯電話だ。ちかちかと点滅を繰り返すその画面には『木野京』という優乃にとって忌まわしいとしか言いようのない三文字が表示されている。反射的に「うわ、」という可愛げのない声が出て、表情が暗くなってしまう。
 めんどくさい奴からかかってきてしまった。
 無言で「誰なのか?」と首を傾げ問うてきた誠司に、何と答えるか一瞬迷ったが、嘘をついても仕方ない。優乃は正直に、しかし言いにくそうにぼぞりと呟いた。
「あー、元カレだよ」
 瞬間、誠司の顔が曇った気がしたが、それに気付けるほど優乃に余裕があるわけではなかった。
 どうにも元カレ、京が優乃は苦手なのだ。のらりくらりとかわし続けてはいるが、どうにもこの男はしつこくて厄介だからだ。
「もしもし」
 いやいや優乃が不機嫌な声色で出ると、電話の先の声の主は呆れたように大きなため息を吐いた。
『なんだよ、俺にむかってその態度はねーだろ』
「いや、キミにそんなこと言われる筋合いはないよね?」
 つくづく鼻につく男である。優乃は電話を切ってしまいたい衝動を何とか抑え、話を促した。
 隣の誠司は無表情のまま優乃を見つめている。
「で、なんなの?」
『なぁ、優乃。今から映画いかねぇ? 見たいやつがあるんだよ』
「はぁ?」
『いいだろ? それからさ、旨いもんでもホテルに食いに行って……』
 その後どうしたいかなんてこの男のことだ、見え見えだ。優乃は深くため息を吐くと即答する。
「ほか当たって。それからもう電話してこないで。じゃあね」
 そう言って通話終了ボタンを押す。微かに自分の名を呼ぶ京の声が聞こえた気がしたが、気にしてはいけない。良心がまったく痛まない訳では無いけれど、この男に情けをかけるのはお互いのためにならない気がするからだ。
 やはり次回からはかかってきても出ない方がいいかもしれない。
「ごめんね、国本さん。で、なんだった……」
 優乃は誠司の方へと振り返り謝罪の言葉を伝えようとした。しかしその言葉は途中で止まってしまう。
 何故なら振り向くとぶつかってしまうほど近くに彼の顔があったからだ。
 美しく整ったそれの眉間には深く皺が刻まれ、難しい顔をしている。よく見ると深い緑色をしている瞳は優乃を捉えて離さなかった。
 悔しそうに真一文字に引かれた唇が薄く開く。
「さっきの奴のこと、まだ好きなの?」
「違う、けど」
 違うけど、それより優乃は誠司の表情の方が気になる。まるで嫉妬しているような、余裕のない表情は勘違いしてしまいそうになる。
 そう言えばさっき誠司は何を言おうとしていたのか、それも気になる。まさか、と考えたがそれは無いなとすぐさま優乃は首を振った。まさか、自分のような地味で可愛くもない気持ちの悪いほどのオタクを、しかも出会ってまだ間もないのに好きになるはずがない。
「違うけど、未練はあるとか?」
「だから、ないってば!」
 意地悪くそう言う誠司だが、眉根を寄せ今にも泣き出しそうな瞳をしている。それでも、素直になれるほど優乃は可愛げがある方ではなく。つい憎まれ口を叩いてしまう。
「ないけど満更ではない、とか?」
「あぁもう、違うって言ってるでしょ? 大体国本さんには関係ないし!」
 吐くようにそう言ってから、優乃はハッとした。
 明らかに傷ついたような顔をした誠司が視界に入ってきたからだ。
「誠司。名前で呼んでよ。あと、優乃は関係なくても、俺にはおおありなんどけど」
「え、」
「さっきの続き言おうか? 俺は優乃の事が好きだ」
 切羽詰まったような表情が、真っ赤に染まった彼の頬が、近づいた真剣な色の瞳が、嘘や冗談ではないと口々に言う。
 それでも、信じられずに優乃は目を丸くするばかりだ。
「まさか……」
 やっとの事ででた言葉も酷いものだった。流石の誠司も少し怒ったように眉を上げる。
「信じてもらえないなら何度でも言うよ。俺は優乃が好きだ」
「う、嘘だ……」
「どんだけ信じてないんだよ。俺は今すぐ襲って優乃のこと啼かせたいって思うくらいは優乃が好きなんだけど」
 なんだか、さらりと物凄いことを言われたような気がする。
 よく見れば、彼の瞳には新たな色が生まれている。その欲を孕んだ、優乃を望む色に頬がかぁっと熱くなった。
「な、啼かせたい……?!」
「うん。啼いてる声とか聞きたいし、あと優乃の可愛い顔もじっくり見たい。俺だけに見せて欲しい」
 そっと頬に触れられて、身体まで熱くなる。余裕のない誠司の表情は優乃の心拍数を更に上げてしまう。
 彼の言ってることははちゃめちゃなのに、それに喜んでいる自分が優乃の胸の中には存在していた。
 誠司のことをどう思っているかなんて、誰に聞かなくても今ならわかる。
 どうしようもないくらい、優乃は誠司を求めていた。
「優乃は俺のこと嫌い?」
 そんな声で、表情で、そんな聞き方をするなんてずるい。
「俺は優乃の事好きだ。恥ずかしいけど、こんな風に好きになったのも、したいと思ったのも優乃が初めてだから」
 切なげに告げられるその言葉に胸が締め付けられる。
「優乃は、俺のこと気まぐれでもいいから、考えてくれる?」
 次々と告げられる信じられないような言葉たちに瞬時に応えることは出来なかった。