かんざしには嘘を、××と君には×情を
龍神と龍神に仕える八神に愛されし国、|深臙国《しんえんこく》。
地続きの他国にも神や仙術、神子、術士なるものはあるが、これ程までに日常に溶け込んでいる国は少ないという。また特別拒まぬ限り、国民全員が神子としての初等教育を受けられるという珍しい国である。
仙術が馴染んだ理由のひとつに龍神の力が絶対であった事が挙げられるが、建国時に龍神が仙術研究を推奨し、同時に厳しい法をも定めた事や優秀な参謀である八神の存在も大きいだろう。
彼ら龍神に仕える八の神々はその名を授かった時から不老であり、かなりの長寿。個性も強く、能力は人智を超えるほど高い。またそれぞれの神に仕える神子は神と同じ名で呼ばれ、一部の能力と知識、意識とを共有している。但しこちらは人ならざるものになる訳ではなく、生老病死を免れない。
斬新な考えを好む龍神と、温故知新の考えを好む神子を始めとした人々が住まう国。
故に深臙国は各所に古の風習が形として残りながらも、職業や居住区、教育に性差や年齢、身分の差が小さいなど、自由な考えが各所に反映されている。
能力さえあれば文官や武官、神子に術士、神々や高位神子の伴侶でさえも務められる稀有な国だ。
また仙術を極める道の一つである房中術が夫婦間にしか認められていない事から、互いの仙術の能力を買う契約婚が公に認められているなど、恋愛や結婚事情も変わっている。
そんな深臙国も今は誕生や清新、出発を祝う龍神祭――赤の祭事の期間中。
ミンファの近所も自立し家を出る者を祝ったり、婚姻や婚約が執り行われたり、賑やかな様子である。
そして龍神祭十日目夕刻。月が昇り、赤々と実る柿と彩り始めた木々の葉が薄闇に溶け始める頃。チェン家でも試験結果を受け取ったばかりの末っ子が軽やかな足取りで姉の部屋の扉を開けていた。
「姉様! これを見て下さい! 合格です! これで来年から兄様達の仲間入りです!」
ファンミンは鼻息荒く、茶をすすっていた二人に近付く。手には真新しい若葉色の布と一枚の薄紙。彼は胸をそらすと持っていた紙を二人に手渡し、布を自身の結わえた髪へとくくり始めた。
「おめでとう、ファンミン。良かったね」
「ユーイェンさん、いえ、ユーイェン義兄様のお陰です。ギリギリでした」
「本当、ギリギリだったもんね。はぁ……良かったぁ」
「姉様は素直に喜んで、僕の弱音は置いといてよ。頑張ったんだから!」
不貞腐れるような言い方だが、その声は明るい。
ファンミンの持ってきた紙には試験結果と神子見習いとなる事を許可するとの文言が記されている。上部には『龍神』と『龍神』に仕えた初代神子の末裔とされる深臙国国王、現在の八神、八神に使える八色玉と、併せて十八の存在を表す印が彼の功績を証明するように押されていた。
「どうですか? 似合いますか?」
若葉の布を髪に結わえ、ファンミンはミンファとユーイェンの前でくるりと回る。
「すごく似合ってるよ。ね、ミンファ」
「似合ってるけど、曲がっているから直してあ……」
「えっ、いいよ! 姉様不器よ……う、んんっ! いえ、ここは結い慣れているユーイェンさんに直して貰います」
咳払いで誤魔化し、笑顔を付け加えるファンミンにはミンファもお手上げだ。
姉の厚意を|疑いようのない事実《不器用》とユーイェンを頼る言葉で返すとは。可愛い弟の成長に感動すれば良いのか、腹立たしく思えば良いのかわからない。
「ユーイェンさん、今日も夜までいらっしゃるんでしょう? 僕、わからない所があって……」
嬉々としてファンミンはユーイェンの隣を陣取り、ミンファよりもずっと近い距離で勉強の進め方や学院の様子を質問していく。
その様はまるで実の兄弟のよう。
(ファンミンたら、ユーイェンと益々仲が良くなったのは嬉しいけれど……この間まで姉様、姉様と頼ってくれてたのに)
弟の成長に今度はそこはかとない寂しさを感じながら、ミンファは茶をすする。
ミンファが穴があったら入りたいほど恥ずかしい勘違いをし、ユーイェンに送られ帰宅し、そのまま三日三晩高熱を出してから半月近く経つ。
ユーイェンは虎狼府での事を含めて事情を詳しく話した上で、ミンファが病になったのは自分に責があるとミンファの父や兄、主治医の義姉に看病を申し出、断られたらしい。
さすがに父も呂家の子息を病人の看護に使うなど、出来なかったのだろう。もしくはユーイェンがミンファとの間にあった出来事をも話した上で、父に判断を委ねた結果かもしれない。
兎にも角にも。龍神祭の前日まで毎日、ユーイェンは兄シェシンと共に見舞いと称してチェン家に訪れ、精のつく食べ物や暇潰しの書物を差し入れるだけでなく、時にはミンファの世話を焼きたがった。
そしてあの晩の言葉を違えることなく、赤の祭事初日の夜にユーイェンはミンファの部屋の窓辺に来てくれた。つまり求愛し、ミンファからの色良い返事でもある茶を共に飲みたいと求めてきたのだ。
ユーイェンは病み上がりだったミンファを思い、返事は体調が戻ってからで構わない事や、それまで毎晩様子を見に来ても良いか承諾を得たい旨を話したが。当然、ミンファの方が看過できるわけが無い。そんな事をすればユーイェンが風邪をひいてしまう。
風習や乙女の恥じらいなどすっかり忘れて、ミンファはユーイェンを部屋に入れ、暖を取る為に分厚い膝掛けを渡し、驚き戸惑うユーイェンへ萎びた専用の茶葉に代わって来客用の茶と茶菓子を出した。
その頃には家族全員がミンファの異変に気付き、初日の夜は結局父、ファンミンを交えてユーイェンを迎える事に。
そしてその時になってようやく、ミンファも自分の気持ちをきちんとユーイェンに伝えないままに承諾するような態度を取ってしまった事に気付いた。
次の日にユーイェンには改めて彼の気持ちが嬉しかった事や、婚約を受けたいとの返事は返したものの、ユーイェンとの婚約が二十日後に決まった今も未だ両思いなのか自信がない。
それは決してミンファの自尊心が異常に低いからではなく、ユーイェンの言葉や気持ちが全く信じられない訳でもなく、それ相応の理由があるのだ。
(ユーイェンはなんで私を相手に望んだんだろう……?)
ミンファは菓子へと手を伸ばしながら、街の食堂のお勧め料理へと話題を移らせたファンミンと他愛ない話題にも真剣に応えてくれているユーイェンをまじまじと見つめる。
彼の気持ちを疑っているというよりは、純粋に不思議なのだ。
自分で認めてしまうのも父に失礼だが、ミンファはすこぶる条件の悪い娘だ。
それはチェン家が商家より自由が少なく、豪農よりも余っ程貧しく、かと言って高位貴族には足元にも及ばぬ地位の、貧乏官吏の一家だからだけではない。
まず第一にミンファの夫となる人は家を出、チェン家の婿とならなければならない。
それは理由は違えど、ミンファの兄達がそれぞれ他家へと婿入りする形となり、尚且つ弟のファンミンには後を継げぬ複雑な事情があるからだ。
今も子供達が心配する程に亡き母を愛する父が、この先若い後妻を迎えるとも考えにくく、ミンファがチェン家の次期当主となる事は決まってしまっている。
一生家長とならずにチェン家の伴侶として生きる――この点を嫌がる男性は珍しくないだろう。
そして第二にミンファの夫となる人物の出世がほぼ確実に茨の道となる事も決まっている。
これは長兄のリュウシンが八色玉の神子『青藍』であり、前王の妾腹の子に婿入りした事により、様々な権限を放棄するしかなくなってしまったからである。
義姉にその気はなく、担ぎ上げられたり利用されるような人物でなくとも、王族を脅かすような存在になり得る可能性は尽く潰さなければならない。よって義姉はその特異な能力から神から直接任命された『青藍』以外の役職には一切就けず、兄も『青藍』の夫以外を名乗ったり、規定以上の高官を務めたり、必要以上の私財を蓄える事を禁じられているのだ。
また当然のように、それは兄の実家であるチェン家の者にまで一部適用されている。
十年前、チェン家は父と兄の功績により平民から貴族となったが、現状はチェン家の者というだけで平民の官吏よりも縛りは強い。
各所への忖度から出世も厳しく、父の代での貴族位の返還も決定事項。
これらの理由から、夫となる人は『平民の婿殿』と揶揄されても一切気にせず笑って流し、ミンファの兄と兄嫁の家の為に野心を捨て去り、決して政治的なものに関わらずに生き、大きな商売をも望まぬ者でなければならない。
だからこそミンファは結婚をすっかり諦め後々はファンミンを養子にと考えていたし、誰かに望まれた事そのものにひどく驚いた。
しかも相手はあのユーイェンなのだ。
彼は長男。大人しい性格だが、優しく慎重で堅実な性格だとミンファは思っている。
そして呂家の家族は大変仲が良い。
既に嫁いだ姉に続いて自分が婿入りすれば、妹のリィエンがミンファと同様に婿探しに苦しむだろうとは彼もわかっている筈だ。
その彼が妹の苦労や家族の心配を振り切り、無計画にミンファの元に婿入りするとは考えにくい。
否、彼からの求婚に心躍る一方で、彼がそのような無茶な人間だとミンファは考えたくなかった。
(リィエンちゃんは喜んでくれているけれど……二人とも何か勘違いしてるとか? それとも婚約者の方が婿入りでも構わないって仰ってるのかな? それにしてもユーイェンが私を結婚相手に選ぶなんて、やっぱり何かおかしなものでも食べて冷静さを失っているとしか……)
ミンファは菓子を飲み込み、次の菓子へと手を伸ばす。
考え出せばきりがない。
ユーイェンも職業柄、危険な場所に赴いたり、悪意のある人間や組織相手に立ち回る事がないとは言い切れない。
知らず知らずのうちに幻覚作用のある毒物を摂取してしまっているとか。一見健康そうに見えて、実際は仕事が忙しすぎて精神的にかなり参ってしまっているとか。龍神祭に参加できる年齢に達した事から、心配性の親戚や近所の人、ユーイェンとの婚姻を一方的に望んでいる女性などに「妻帯して一人前」「誰でも良いから結婚を」と迫られているなどの複数の隠された事情がある場合も考えられる。
そのような場合、ユーイェンならば事情を話し、相手の理解を得て結婚するという判断を下しそうだ。
恋慕や恋情など明確な好意を抱く相手が居ない現状、信頼のおける親しい異性を選ぶとの判断にも不思議は無い。
しかもこれら全ては兄シェシンに実際あった出来事。ユーイェンの身に起こってもなんらおかしくないだろう。
もし誤解や何かしらの強迫観念から冷静さを失い、ミンファとの婚姻を決定してしまっているのならば、婚約者となる身以前に友として、伝え、諭さねばならない。
「……ではユーイェンさん。次に何を読んでおけば、先生の嫌ーな質問にもかっこよく答えられますか!」
「はは、格好良くかぁ。難しいな。ああ、そうだ。隣の紫苑国の先の…………」
真面目か不真面目なのか判断のつかぬファンミンの質問に、冗談を交えながらも丁寧に応えていくユーイェン。
「おい、ユーイェン。今夜も食ってくんだろう? シー婆ちゃんも待ち構えてるぞ」
そして徳利片手に勝手にミンファの部屋の扉を開けるのは、最近ユーイェンと一緒に実家へ顔を出す次兄のシェシンだ。
すかさず後ろから夕飯の手伝いに来て貰っているシー婆やの「あら、私はただお酒の肴を」との声が続いて、父まで顔を覗かせる。
「シェシン兄様、まだ僕がユーイェン義兄様と話しているのですから」
「俺も混ざろうじゃないか」
「良いですけど、お酒は禁止の会ですからね」
「私も混ざりたいなぁ。良いかい? ユーイェン君」
「どうぞ! ……ええと、ファンミンもし僕に何かあるなら明日……」
「わかっておりますよ! それより父上、見て下さい! どうですか? なかなかの男ぶりでしょう?」
一気に密度が増す部屋の真ん中でファンミンはくるくると回る。兄が冷やかし、ミンファが窘め、ユーイェンが励まして。父は話題を変えて場を和ます。
ユーイェンとの婚約が決まって間もないが、既に彼はチェン家の一員として皆に受け入れられている。
それは彼が幼い頃からチェン家と交流があったから――父の無二の親友の甥として時々来訪し、十を迎える頃からは長兄のリュウシンの弟弟子とも歳の離れた親友とも呼べる相手として、兄の部屋やチェン家の書斎で議論や読書をし、ついこの間までは兄シェシンの部下として酔ったシェシンを担いで運ぶ役だった――からだけではない。
むしろユーイェンの朗らかな性格と誠実な人柄故だろうとミンファは踏む。
ミンファにとっても、おそらくミンファの家族にとっても大切な存在だからこそ。
(ユーイェンは本当にこの結婚を心から望んでいるのか、何か考えがあって婚約したのか。リィエンちゃんの結婚と呂家の跡取りの事も含めて……あと体調の変化も。二人きりの時に、ちゃんと夜這いに来てくれる間に確かめないと……!)
今晩の食事の話を始める皆の中で、内心密かにミンファは決意する。
龍神祭の古の風習――月が綺麗な吉日に男が意中の相手の家に挨拶した上で、相手の部屋の下に通い求愛。女の方が満更でもなければ窓辺で茶を振る舞いもてなし、並んで月を眺め期間中は毎夜共に過ごし。長い時をかけて互いを知り、距離を縮め、婚約の同意と見做す――つまり両家公認の夜這いを利用すれば、婚姻前の男女が部屋で二人きりとなり話し合っても咎められないだろう。この好機を利用するほかはない。
「姉様、お願いがあるのですが」
皆が居間へと向かい始めた中でふと、ファンミンがミンファの袖を引いた。
「何? ファンミン」
「良かったら刺繍をしてくれませんか。なくさないように名前を書きたいのですが、ユーイェン義兄さんに聞いたところ、墨で描くと広がって滲んでしまうそうなのです」
そう言ってファンミンは髪に結わえ付けていた若葉色の幅広の布を差し出す。
「僕のだとわかれば良いので、変なお花とか虎とかも止めて下さいね!」
ちゃっかりと釘まで刺してくるが、僅かに染まった頬はその言葉が照れ隠しだと明言している。そろそろ素直になれないお年頃なのだろう。
ミンファは笑いを堪えながら受け取り、無難な図案を思い浮かべる。ところが、ここで言い止まないのが我が弟ファンミンである。
「ユーイェン義兄さんも姉様の刺繍には気を付けて下さいね」
「ちょっと」
どのような意味なのか? 聞き捨てならない……と言いたいところだが、お世辞にも上手だとは言えないのは事実。反論の余地は一切ない。普段と同じように真摯にファンミンの話を聞くユーイェンの姿に、今ばかりは適当に聞き流して欲しいと心の内で叫ぶ。
「姉様、誤解です。姉様達のことを信頼して僕は申し上げているのです」
しかしそんな姉の思惑など知らずに、ファンミンは真顔で力説する。
「ユーイェン義兄さん、どうか動物を刺繍して貰う時は具体的に頼んで下さいね! その……姉様は選択が独特なので。良かれと思ってなのでしょうが、魔除け効果がありそうなものを刺繍なされるのです」
「魔除け……魔除けの紋なんて一度も刺繍したことないはずだけど……?」
「えっ?! じゃあこの間の黄色いけむくじゃらのあれは……?」
瞳を見開くファンミンに「貴女が先程止めてねと申し上げていた虎です……格好良いと思って」とは言えない。
ユーイェンへの言が揶揄ではなく経験則による純粋な警告だとわかった今、怒りや呆れよりも怪物を刺繍していると誤解され戸惑うファンミンが浮かんで、ミンファは言葉に詰まってしまった。
「あれは……やめるね……」
「あの、姉様。僕は独特で好きですよ! 強そうですし、斜めから見れば格好良くもないような、あるような!」
「僕も好きだよ。ミンファの刺繍は一生懸命さしてくれたんだなと感じられる」
必死な弟と真剣なユーイェン。二人の様に微塵も揶揄がないが故に、有難いやら物悲しいやら複雑である。
「ありがとう……ファンミン、ユーイェンも」
「本当だよ、ミンファ。僕もまたミンファに刺繍して貰いたい」
「えっ、どっ、ユっ……?! 良いの?」
あまりの事に良いか悪いかを聞き返してしまうが、ユーイェンは笑顔で大きく頷くばかり。
複雑だったミンファの心は一転、困惑一色に染まった。
先のファンミンの忠言の一件だけでなく、ユーイェンとの刺繍の思い出というと大なり小なり失敗した記憶しかない。
(まさか魔除けに……?)
「手間じゃなければ。僕のにも」
「わ、わかった……」
尚もユーイェンは「忙しかったならば大丈夫だよ」と付け加えたが、その顔には明らかな喜色が浮かんでいる。
(ユーイェンの方が速いし上手だよね……?? 私の刺繍だとみっともなくない? 頭に巻いてしまえば見えないから良いってこと? やっぱり多忙で……?!?!)
ミンファの乏しい能力では、満面の笑みからは期待しか見て取れない。
ユーイェンは髪を結わえつけていた薄青色の布を解くと、そっとミンファへと手渡した。
その横で、ぽそりと。
「……ユーイェン義兄さんの方がうまいのに?」
ファンミンから呟きが漏れる。
(ファンミン!)
それはやもすれば配慮にかける言葉だが、ミンファが喉元まで出かけて飲み込んでいた心からの賛辞と疑問の言葉でもある。心底不思議そうに首を傾げる様が、姉弟そろって同じ思考回路なのだと示していて憎い。
虚をつかれたように一瞬だけユーイェンの瞳が大きくなって、しかしそれはすぐに嬉しそうに細められた。
「ありがとう。でも僕の刺繍の師匠はミンファだからそんなことないよ。僕なんてまだまだ、姉様の刺繍はすごいんだから。それにファンミン」
ユーイェンは形の良い唇に人差し指を当てて悪戯っぽく微笑む。
同時にファンミンへと顔を寄せたユーイェンの襟元から何か朱色の痣のようなものが見えた気がして、ミンファの心臓がドキリと跳ねた。
(わ、私ったら……どこ見てるの⁈)
「これは僕がわがままを通すための策だから。協力してくれないか?」
「わがままぁ? ううーん。義兄様が言うなら良いですけど。後でその策がなんなのか教えて下さいね?」
二人の意味ありげな会話もミンファの頭には全く入ってこない。一瞬であっても己が向けてしまった不埒な視線をミンファが恥じる他方、隣室では晩餐が始まろうとしていた。
「おおい、兄上が待ちくたびれてるぞー?」
シェシンの上機嫌な声にミンファ達は各々返事を返す。
(どうしよう。体調が悪いかもしれないユーイェンを説得して、支えなきゃいけないのに……⁈)
ミンファ自身が動揺し、冷静を欠いてどうするのか。
しかし意志とは裏腹に、足の痺れによろめくミンファの手をユーイェンが当然のように取った事にも、それを誰も冷やかさない事にも、ミンファ自身は全く認識できなかった。
「ミンフアァ~」
後片付けを行うミンファの手を止めたのは兄シェシンに手招きだった。
父は先程居室へ。ユーイェンは帰宅し、シー婆やとファンミンはとっくに寝てしまっている。あとは兄のシェシンを家へ帰すのみなのだが、飲み相手のユーイェンをなくし、暇を持て余した酔っ払いの笑みは不穏だった。
「兄様、早く帰らないとお義姉さんに愛想を尽かされますよ」
「つれないなー。それよりさ、ミンファ。一緒にユーイェンとこに行かないか?」
素っ気ない妹にもめげずに、シェシンはヘラヘラと笑いながら非常識な提案を妹へと持ちかける。一蹴してやろうとも思ったが、こう見えても兄は軟派な容姿や態度に似合わず、すこぶる弁が立つ男だ。義姉の元へ早く返す為にも揚げ足取りも得意とする彼への対処は慎重に。ミンファは自分の頭をぐしゃぐしゃとなで回しながら「兄ちゃんが守ってやるからさ」とのたまう兄の手をやんわりと払い、言葉を選ぶ。
「特段の理由がなければ人様のお家にお伺いする時間ではありません。兄様、少しは……」
「だから、あるんだよ。良いかい、ミンファ」
シェシンはミンファの肩をぐっと寄せると、世の女性が色めくような低音で悪巧みを囁き始める。
「明日、大仕事があってな。呪詛関連のやつで、放っておくと全身にな~凄いんだ。で、俺はその件について記した大事な紙をユーイェンに渡し忘れた」
「ならば明日早めに出て……」
「昼までに調達しなければならぬ物があるんだが、朝一で頼まねばならないんだ。連絡先はユーイェンだけが知っていて……」
「なんでそんな大事な事をお忘れになるのですか!」
思わず大きな声が出てしまったが、耳を押さえる兄への罪の意識は薄い。
「ミンファ、お兄ちゃんの耳、大事に……」
「兄様の距離感の近さと諸々の軽率な行動を改める良い機会です。それより急がなければ。今すぐユーイェンの家へ行って、いいえ。兄様がユーイェンから連絡先を聞き出し、責任を持って手配すべきです!」
「でも毎回ユーイェンが依頼してるんだ。信用問題もあるじゃないか」
もっともらしい事をうだうだ言い続ける兄に苛立ちと落胆を感じながらもミンファは立ち上がる。泥酔した兄の尻を蹴飛ばしたい衝動を抑えて、兄の腰と手を持ち半ば強制的にシェシンを立たせた。
「今すぐ! ふらつくならば私が支えますから! 行きますよ!」
ミンファはぐでんぐでんになっている兄の肩を担ぎ、件の紙を持って家を出る。微塵も不満がないと言えば嘘になるが、とりあえずは仕事の醜態を隠そうとする兄を立て、既に床についていた父へは書き置きを残した。
「ミンファは頼もしい~な~」
「兄様、静かにして下さい」
月下で歌い始める兄を嗜め、持ち前の腕っぷしの強さと体力でふらつく兄を支えながらユーイェンの家へと向かう。
妹の言葉通りに声を潜めながらもシェシンはあちらに行きたい、こちらが気になるとミンファから離れてはふらふら彷徨い。半時間以上をかけてミンファはようやく呂家の門前へと辿り着いた。
「危ないからミンファはあそこで待ってろよ」
覚束無い足取りの兄はミンファへ指示を出すと、呂家の屋敷へと入っていった。
示された場所は敷地内、一階東側の奥。壁際にちょうど良い塩梅の岩があったのでミンファは腰掛け、雲間から僅かに覗く月を見上げる。辺りは涼やかな虫の声と高低入り交じる可愛らしい雨蛙の声で賑やかだった。
(間に合うと良いけれど……。もう、兄様って毎回ああなの? 仕事だけはそこそこやってると思ってたのに。もしかして、ああやって毎日ユーイェンに迷惑をかけてるんじゃ……?)
ミンファの疑問に是と答えるかの如く、獣の遠吠えが続く。
益々ユーイェンの体調不良説が濃厚になってきた。
他にも何かユーイェンを焦らせ、婚姻という大きな行事へと踏み出させた要因がありそうだ。時期、環境、人間関係などなど。きのこや毒草、呪術の可能性も捨てきれない。ミンファは手持ち無沙汰な時間を使い、あれやこれやと無意味な推測をたてては、その場合どのように対処すべきか考え込んでいた。
その時。
「……っく、……っ」
蛙の鳴き声が止んだ一時の間を僅かに縫って、苦しげな声がどこかから聞こえた気がした。
ミンファはパッと顔を上げ、辺りを見回す。周りには手入れの行き届いた木立と固く閉じた花々と館の白い壁と窓。後は時々、雨蛙や虫が草木を揺らすばかりだ。
(誰もいないし、気のせい……?)
しかしその考えはすぐに否定される。
「……は……っく、あっ……」
「っ?!」
思わず声を上げそうになり、ミンファは慌てて両手で口を抑えて凌ぐ。
呻きにも似た苦しげな声に何かに耐えるような吐息。それは確かに今の今までミンファが想い、心配していた青年のものだった。
(ユーイェン?!)
件の声は尚も館から漏れ聞こえ続けている。
呼吸は乱れ、大変苦しそうだ。届く声は重なり合う虫と小動物との声で途切れ途切れ、耳をすませてなければ気付かないほど微かなもの。
痛みに必死に耐える為に歯を食いしばっているのだろうか。
呻きや叫びにならぬ声は短く、時々張り詰めていたものがふと途切れてしまったかのように息を吐いては、すぐにそれはくぐもった声へと変わってしまっていた。
(思ったよりずっと具合が悪いような……? おじさんやおばさんは知ってるよね? お医者様には?)
もし心配をかけまいとひた隠しているのならば、せめて今こそシェシンの無神経で無遠慮で口達者な所がうまく出ると良い。
ミンファは息を潜めながらも、どうにか中の様子を|窺《うかが》えないか画策し始める。
植物を模した格子窓の下辺は胸程度。すだれはかかっているが、運良く左側には隙間がある。
罪悪感さえ大義名分で抑えてしまえば、身を隠しながら中の様子を覗き見る事は容易かった。
「……っ」
ユーイェンは部屋の片隅に置かれた寝台にうずくまっている。位置的な関係から背中の真ん中あたりまでしか見えず。何かを胸に抱き、布団の中でもぞもぞと動いている事以外は把握できない。
うごめく度に首筋のあたりに見え隠れするのは簡素な木綿の布。熱冷ましの為の布を胸に抱いているのだろう。
(やっぱり熱が? お腹のあたりも抑えてるし、傷か何かがあって化膿したのかも……)
兄はまだかとミンファは気が気でない。耳を澄ますが、聞こえてくるのは苦しげな息遣いのみ。シェシンは挨拶と世間話に花が咲き、思ったよりも時間がかかっているようだ。
こうなったら無理にでも乗り込み、医者を呼び、ユーイェンの看病を引き受けた方が良いかもしれない。
せめて家族に伝えるなり手を打たねば手遅れになる可能性もあるのではないか。
いても立ってもいられずにミンファが動き出そうとした時だった。
寝台が軋み、にわかにユーイェンの呻き声が大きくなる。
(ユーイェン!)
彼はそのままぐったりと脱力すると、そのまま大きな溜め息を零す。続けてゆっくりと数回肩で呼吸し息を整えると、窓枠が壊れそうな程身を乗り出したミンファに気付く事も無いままに、更に身を縮こませてしまった。
「………………何やってるんだ、僕は」
先程とは異なる趣の掠れた声がミンファの耳に届く。
苦悩に満ちた声に激しさはない。自省の言葉なのだろうか。落ち着きを取り戻した彼のそれは、自嘲と悲痛が満ちているような気がした。
「……こんなの、最低だ。人道に反してる……不義理だ」
不穏な言葉がミンファの耳を打つ。
しかもその声はくぐもり、鼻にかかっているように聞こえる。
(ユーイェン、泣いてる……?)
想像でしかないが、激しい波のある病身を押し、何かしらの後悔に悩み苦しんでいるようにミンファには見える。
あの品行方正なユーイェンが悪事に手を染めたり、誰かを傷つける行為を進んで行うとは考え難いが。一方で人の良さにつけ込まれ利用されたり、騙されてしまったのなら納得がいく。寧ろユーイェンの性格上、愚かな自分を責め、二重三重に苦しむだろう。
(何か罪に問われるような事なら、特別な理由がない限りユーイェンなら自首してるはず。不義理って言葉にも合わないし。理不尽な仕事でも押し付けられて誰かを傷つけてしまったとか……?)
兄の愚痴が頭を過ぎる。
龍神の神子や八神の神子である八色玉の中には過剰な自信家や謙虚さに欠ける者もおり、複雑な力関係や派閥争いを助長させる元になっていると。
厄介なのは、権力にものを言わせて伴侶を得たり、敵対する神子やその部下への悪質な嫌がらせを命ずる者もいる事。
両者とも手は違えど、人の心に波風をたてて神通力を不安定にさせ、総量そのものを低下させたり、逆に勢力拡大の為に部下や神通力の高い者を引き抜くという目的部分は同じといえる。
シェシン曰く、官吏にとって〝短期的長期的な視点から民全員の要望に応える事が難しい〟との葛藤は耐えられても、職場内の非生産的な争いには耐え難いものがあるのだそうだ。
現に内輪揉めに巻き込まれた事で神通力の使用に影響し、仕事が出来なくなった者も少なくない。
それに修行や研鑽を重ねた能力のある神子ほど神通力と心身との結び付きが強固な為か。神通力の枯渇により体を壊し、生死をさまよう場合もあるという。
もしかしたらユーイェンとの婚姻もそのあたりが発端なのかもしれない。
食事や睡眠、適切な術の使用のほか、婚姻が身に宿す神通力の増幅と安定に作用するのは有名な話だからだ。
(もう痛みは取れてるみたいだけれど、大丈夫かな? この状況だと今からあがりこむのもおかしいし……でもユーイェンが気になるし……)
そわそわと落ち着かぬミンファの耳に、衣擦れの音とカランという乾いた響きが届いた。
突然の音に再び窓を覗き込めば、|羅漢床《ベッド》の足下に転がったかんざしが目に入った。
ユーイェンが抱えていたものが落ちたのだろうか。先程まではなかったように思える。丸い花弁の花を模した紅色のそれは、愛らしくも大人が身に着けるには少々幼い印象を与える造りだった。
(ユーイェンの……??)
ユーイェンはミンファに気付く事無く、緩慢な動きでかんざしを拾い上げる。
潤んだ瞳に上気した頬、乱れた衣服から花弁のような朱色の痣が覗いて。先程とは全く異なる動揺からミンファの心臓が跳ねた。
「……でもどうしたら? あと二年も……我慢できる気がしない。立派な裏切り行為だ……」
そして。
「ミンファに知られたら…………離縁じゃ済まないかもしれない」
今日一番の衝撃的な言葉にミンファは色を失った。