missing tragedy

かんざしには嘘を、××と君には×情を

 ――解答:『お前の婚約者は××おるんじゃ!』 


「おそらくあれほどの隠忍自重の印、神通力の制御にまで影響が出るはず。神通力は良くも悪くもあらゆる心身の状態に影響するものじゃからな」
「えっ、でも、だからって……む……らっ?! 誰彼構わずかっ、体に……触れたくなると、珊瑚様は?」

 あまりの珊瑚の推測に思わずミンファは確認を入れる。
 しかし聞き間違えではとの望みは呆気なく、曖昧な微笑とともに瞬殺された。

「誰彼構わずかは知らぬ。しかし過度な抑圧は強い解放への欲求に繋がり兼ねぬ。秘密を外には出せぬ代わりに、別方向で欲求不満を解消するべく行為に走る。有り得ろう?」
「ですがユーイェンに限って……! そんな卑しい気持ちを抱いて、その上行動に出るなんて考えられません」

 長年彼を知る友人としても、彼の名誉の為に断言しよう。
 娯楽小説の悪役によくある酒に酔った大男ではあるまいし、ユーイェンが周りの女性に対して事ある毎にいやらしい妄想を抱くわけがない。
 もちろん人間であるので全く抱かないとも言いきれないが、抱いた瞬間に罪悪感に悩まされ、気に病んでしまいそうなのがミンファの知るユーイェンである。
 術により神通力が乱れ、欲求不満に悩まされていたとして色欲に走るとは考え難い。
 少なくともミンファはそう、固く信じている。たとえ相手が珊瑚でも、不確かな憶測で彼を辱めるなど看過できるはずがない。

「別方向で欲求不満を解消するならばユーイェンならもっと沢山食べるなり、いっぱい寝るなり、部屋に閉じこもって一日中本を読んで絵を描くなり……そんな、結婚なんかやめて旅に出る方がまだ信じられます……! 女の人の体に勝手に触って罪を犯すくらいなら、ユーイェンは大きなお家の書物庫に不法侵入する人です!」
「これ、落ち着くのじゃ」

 宥める珊瑚の手をすがるように取り、ミンファは強く訴えた。

「落ち着いていられません。ユーイェンはそんな、欲はともかく、ひとが嫌がる事を平気でできる人でもなければ、状況や気持ちを考えられない人でもありません……」
「ミンファ、大丈夫、珊瑚様はユーイェン様が誰かにいかがわしい事をしているんじゃないかと疑ってるわけじゃないよ」
「そうじゃ。誤解をさせてしまったようじゃな。すまぬ」

 レイランに肩を抱かれ、珊瑚に手を握り返されて、ようやくミンファは我に返る。
 気付けば瞼からは熱い雫が零れ落ち、訴えも鼻声になっていた。

「す、すみません。珊瑚様。レイランさんも……」
 ミンファは秋の稲穂のように項垂れ、袖でそっと頬を拭う。拭った先から涙が溢れそうになり、ミンファは必死に奥歯を噛み締める。

「いやいや、妾が悪かった。ユーイェンを想うそなたの気持ちをもっと考えるべきじゃった。妾はな、気持ちが抑えられなくなったユーイェンが非道に走っているとは微塵も疑うてないぞ。無論、未来、非道に走るとも思っておらぬ」
「で、では……」

 戸惑うミンファの目の前で、珊瑚の薄青色の瞳が細まった。

「他人を平気で傷付けられる無作法者でもなく、状況や気持ちを考えられぬ愚者でもない……のじゃろう? ならば、異変には自分一人での解決を選ぶのではないかのぉ? 例えば、自らで火照る体を慰める。それも一つの手じゃ」
「え……?」

 ミンファは珊瑚の言わんとする事を噛み砕き、飲み込もうとする。慰める、とは。おそらく比喩なのだろう事は理解出来るが……。

 思い当たってしまった一つの解にミンファの顔はみるみる熱くなる。

「それは……ユーイェンが自分の、えっ……⁈ 見立てて、という事ですか⁈」
「見立てて?」
「ええ、ですから……一人二役という器用な……?! あっ! だからかんざしを⁈」
「なんの事じゃ……?」

 うっかり漏らしてしまったかんざしの件を誤魔化しきれる能力はなく。内心ユーイェンへと謝りながらも、ミンファは訝しむ珊瑚にかんざし|ら《・》|し《・》|き《・》形状のそれを彼が抱き、苦しんでいた事を話した。

「……たまたま机から落ちてしまった筆や文鎮だったかもしれませんし、私の思い違いの可能性も大いにありますから、全然関係ないと思います。それにユーイェンが珊瑚様の仰るような対策を打っているなどという証拠は……その、あまり」
「ふむ。いや、むしろ益々そちの働きが必要となってきた。もしかしたら、そのかんざしが媒体になっておるのかもしれぬ」
「媒体?」
 何か心当たりがあるのか、暫く二人のやり取りを後ろで見ていたレイランが険しい声を返す。

「そうじゃ。術者がユーイェンなのかその他の者なのか、今も術中にあるのか過去のものなのか、その辺りは判然とせぬ。じゃが他者が術の維持を目論んでおるならば、己の神通力を宿した媒体を目標の傍に置くのは必須」
「なるほど。かんざしならば石や貝から……あ、ごめんなさい。ミンファ。ええと……」

 口を挟んでしまったと焦るレイランにミンファは平気だと首を振る。

「大丈夫です。石や貝、土……そのような長き時間この世を過ごしてきた自然物ほど神通力を込めやすい、とは存じています」
「対象者にとって思い入れのあるものならば、尚更じゃな。しかしそうなると少々厄介なのじゃ」

 珊瑚は思案するように一呼吸間を置くと、すくりと立ち上がった。そのまま意表をつかれ目を瞬かせるミンファとレイランに背を向け、部屋の隅、本棚から数冊の書物を引き出し戻ってくる。

「ユーイェンの能力、性格、そして妾の目。それらを考えるとユーイェン自身、術中にある事を自覚しておらぬ可能性も出てくる。となると、媒体らしき物を迂闊に引き離すは凶。術中にある事をユーイェンに告げるのも危険を伴うじゃろう。それに少々気になる事もな……」
「何か、お心当たりが?」
「まだ推測の域を超えぬ故、主らには。いずれにせよ、もし術が我が深臙国の地を侵し、神の域に踏み込む行為ならば……」

 何かが切れたかのように、引き結ばれていた珊瑚の唇が緩んで、弧を描く。

「……|天《そら》は決して、逃さぬじゃろうよ」

 深山の湧き水を思わせる声にミンファの背中を冷たいものが走る。
 珊瑚はミンファへと持ってきたそれを渡した。濃い紫の表紙には対となる二角に陰陽を表す紋様があるのみ。書名も著者名も編者名もないが、その他についてはこれと言った特徴もない極々ありきたりなものだ。

「ミンファ、ユーイェンや妾の為に是非協力してくれぬか?」
「は、はい!」

 真剣な面持ちを崩さぬ珊瑚に、ミンファは二つ返事で応えを返し背筋を正す。
 珊瑚は満足したように僅かに表情を弛めると視線と左手を書物へと落とし、もう片方の手でミンファの手を取った。

「神通力の乱れは心身を蝕む。過ぎる抑制はやがて生成能力を鈍らせ、最悪|生命《いのち》の枯渇へと導くじゃろう。……これらを今晩一人静かに見て、それから明日またここに来て欲しいのじゃ。明日なら好きな時間で良い。具体的な指示はその時に伝えようぞ。もちろん他言無用、その本も他に漏らさぬよう」
「承知致しました。あの……」
「ユーイェンの身の安全じゃろう?」
 一言にミンファは大きく頷く。

「安心せい。有事に備えて手は打つ。術や術者についても任せてくれぬか? 腐っても妾は深臙水鏡の狂犬神子、珊瑚じゃ。主、神通力の変化を映す水鏡は誤魔化せぬ。悩める乙女との約束も違えぬ。狂犬の名にかけて、ユーイェンの先三日の命は保証しよう」

 珊瑚は片目を瞑り、ミンファと指切りを交わす。
 先三日――その具体的な数字が珊瑚及び、深臙に住む神子に可能な最大限の約束である事はミンファも理解出来る。
 また珊瑚やレイランが思い込みだけで結論を出し、ミンファに話したなどとも疑っていない。

 が、それらと感情とはまた別問題。今この時も術はユーイェンを蝕んでいるのではないか、悠長に構えていて良いものか、自分に何ができるのか。珊瑚が直接動かねばならぬ重大事件が裏に潜んでいるのではないか。等々。――頭で理解し理性で説得しても、なかなか不安は払拭できない。

 それに術の影響下とは言え、あのユーイェンが獣のように異性を欲し、毎日身の内から湧き出る肉欲に耐える為に己の身を女体に見立て、まさぐる事で耐えているという話も、まだよく飲み込めていないのだ。

「ミンファ、レイラン。寄り道せずに帰るのじゃぞ」

 珊瑚に礼をし、ミンファとレイランは屋敷を後にする。夏の昼は長く、辺りはまだ明るいというのに、ミンファの頬は気を抜くと夕焼け色に染まってしまいそうだ。

 門から出て間もなく。人気のない道の真ん中で、レイランはミンファへと頭を下げた。

「その、色々ごめんね、ミンファ。今日はびっくりさせてしまった」
「いえ。レイランさんと珊瑚様のお陰で進展出来そうですし、ありがとうございます」

 混乱はしているが、言葉に偽りはない。レイランは困ったように眉を下げると、ミンファの手荷物、珊瑚から預かった書物を指さした。

「それを読んでその、色々思うところはあると思うんだ。明日の珊瑚様のお話も色々、うん。未知の依頼内容かもしれないけど」
「やはり、ユーイェンの術は何か重大な……」
「ごめんごめん。そうじゃな――いとは私には言いきれないけれど、珊瑚様がああ仰るのならば暫くは大丈夫だと思う」
「えっと……?」

 レイランの口振りは、ユーイェンの異変や呪詛の威力、事の重大さよりも更に、書物の内容や珊瑚が伝えるであろう指示が衝撃的であると示唆しているように聞こえる。
 龍神や黄家の名以上にミンファが驚くような内容は想像もできなかった。

「珍しい内容なので、驚かないよう心構えをして、うっかり驚いて誰かに話さないように……です?」
「ああ、うん。そう。心構え。その本の中身とか、多分ミンファにとってはちょっと変わった感じだと思うから……全部真に受けなくても良い、かな。あくまで知識として……まあ、兎に角」

 レイランは態とらしいくらいに大きく咳払いする。

「術が重大な仕事の関係のもので、特に心配する必要もなくて、呂さんも早く健康になれると良いね。もし色々と何かわからない事や迷った事があれば、私も出来うる限り力を貸すよ」
 最後には笑顔を浮かべ、レイランは紹介した責任は持つと自身の胸を叩いた。
 このように心を砕いてくれているのだ。

「ありがとうございます」

 不安も疑心も一先ず置いて、ミンファは礼を述べると話題を変えた。

 書物にはミンファの知らぬ各種の術や神通力への影響、歴史、問題点や対処法が事例を交えて記されているかもしれないし、全く異なる事が記されているいるのかもしれない。

 珊瑚の指示も同様に。ユーイェンを誘導し術を無効化するのか、中和や変転を促すものか。はたまた抑制の術そのものではなく、影響される欲の矛先を調整したり、対処療法として新たに疲労回復の術を施すのか。そのあたりはわからない。
 しかしユーイェンの術が大きく強いものであり、術者も高い能力を持っている事は間違いない。そして珊瑚が懸念する程に事は深刻な事態に陥る可能性を秘めている一方で、彼女にはミンファの行動がユーイェンの苦痛を和らげ、事の解明と解決の一助になるとの確信もあるようだ。

 レイランと他愛ないやり取りを交わし、砂利道を歩くうちに、ミンファの混乱は緩やかに溶けていった。

 ただユーイェンに心健やかに過ごして欲しい。ミンファの願いは定まっている。

 何処からか流れてくるのは香ばしい焼き魚の香りか。
 ミンファは明日の瑚様の指示を理解し、効果的に行動、ユーイェンの健康を勝ち取る為にも、夕飯の片付けが終わったらすぐに、渡された書物を読み込もうと決めた。


「ミンファ。じゃあ私はここで。気をつけてね」
「はい。今日はありがとうございました」
「本当に……ミンミンにとって呂さんがとても大事な存在であるように、呂さんにとってもミンミンはとても大切な存在なんだと思う。これからは多分、私が力になれることは少ない……けど、言ってね。私は、珊瑚様も多分。ミンファ達に笑って過ごして欲しいと願ってる」
「はい」
 ミンファは心からの笑顔を返し、レイランと別れた。
 
「ありがたいなぁ……」
 ミンファには大事な人が沢山いる。
 心を砕いて接してくれるレイランも珊瑚も、父やシェシン、リュウシン、ファンミンを始めとした家族や親戚も、もちろんユーイェンも。
(絶対にユーイェンの健康を取り戻そう。落ち着く為に自分で……なんて、きっと凄く辛い中で下した決断だったはず)

 ユーイェンを思うと、事の恥ずかしさよりも彼の置かれた状況や苦悩に胸が痛んだ。
 その身に起こる異変の原因もわからず、恐怖を誰にも相談できず、家族やミンファを裏切るような真似もできず。せめて暴走しないようにと、自ら女性用の装飾品を購入し、自分を犠牲にしていたのだ。

 これからは事情を知るミンファが傍にいる。心強い八色玉の神子もだ。
 最初は羞恥心が勝るかもしれないが、事の重大さを暗に仄めかして話せば、少しは心を許してミンファ達を頼ってくれるかもしれない。
 また龍神が関係しているならば珊瑚に許可を得た上で、急変時に備えて青藍に話を通しておくのも良いだろう。
 もちろんミンファ自身の努力――青藍や珊瑚の元へユーイェンを担いで運ぶ練習や体力作りも怠れない。


 ミンファは書物を抱え、屋敷街の坂道を駆け足で登っていった。
(少し急がないと)

 空の端が茜色に染まり始めたのを認めて、ミンファは更に歩みを速める。
 今日は帰宅時間が遅くならないからとユーイェンの送迎も断っている。このままではファンミンが門の外でうろつくのみならず、ユーイェンに連絡し、ミンファの捜索を始めてしまうかもしれない。
(ファンミンの成長は喜ばしいけれど……)
 砂利を踏む足は更に速くなる。

 どうにも先日の勘違い事件の影響か、ユーイェンや兄達だけでなく、ファンミンまでミンファの帰宅時間をひどく気にするようになっている気がするのだ。
 夕方の弟の挙動は少々落ち着きがないし、毎朝ミンファとユーイェンの帰宅時間を確認してくる。
 もちろん考え過ぎ、自惚れを否定はできないが、あのシェシンやリュウシンと共に育ったチェン家の者となれば全くもって可能性がないとは言いきれない。
(ファンミンが私達を家族として思ってくれるのは嬉しい……でも姉として、そそっかしい私にも心配性な兄様達にも似て欲しくない。あの子は……)
「っ?!」
「きゃっ」

 チェン家の屋敷まであと少しという所で、ミンファは角から飛び出してきた何かへとぶつかった。
 慌てて受け身を取ると同時に、ミンファはそのまま地面へと突き進もうとするそれを受け止める。華やかな香の香りが鼻先を掠めて、ようやくミンファは腕の中の柔らかなそれが十六、七の乙女だと悟った。

「だっ、大丈夫ですか?!」
「すみません……っ!」

 ほぼ同時にミンファと乙女とが言葉を発して、二人の視線が交わる。

 艶やかな黒髪と対照的に彼女の肌は雪のように白く滑らか。上気した頬は目尻と同じく朱に染まっており、首から肩にかけての曲線は驚くほどに華奢だった。
 見上げられた黒曜石のような瞳は潤み、今にも大粒の涙が零れ落ちそう。その為か老若男女問わず、一切の面識なくとも一瞬で彼女を守ってあげたいと思わせしめる不思議な魅力が、目の前の少女にはあった。
「っ平気です……!」
 ミンファが次の言葉を告げる前に彼女は叫び、立ち上がると流れるような所作で一礼。唖然とするミンファにくるりと背を向ける。彼女に合わせてかんざしが揺れ、紅水晶のさざれ石が軽やかな音を立てて鳴いた。

「急いでいたのかな……?」
 もしくは誰かに見られてはならない身分の御方だったのかもしれない。まるで仙女のような彼女はあっという間に見えなくなってしまった。
 同じ轍を踏まぬよう、ミンファは駆け足を早歩きへと変え、歩き慣れた角を曲がる。意識は再び、今晩の段取りとユーイェンの健康状態へと戻っていった。

 夕食の席でファンミンはユーイェンの妹リィエンが自身の先輩と仲良く肩を並べ、夕餉の煙があがる呂家へと入っていったと不満げな様子で話してくれた。

 信頼していた優秀な先輩が就職前に色恋に現を抜かしていた事が気に食わなかったか。もしくは純粋に羨ましかったのかもしれない。思わぬ所で婚約に至る経緯の疑問を解決し、リィエンの慶事に喜び、ユーイェンへの信頼を深めたミンファに対して、ファンミンは「学生の本分を忘れるべきではない」といつまでも引きずっていた。

 夕飯と片付けを終え、未だに納得のいっていない様子のファンミンからの「刺繍入り手巾は珍しいか?」という不可思議な質問にも答え、宥めた後。ミンファは自室の扉をきっちりと閉めた。

 抱えてきた布の結び目を解き、机に座り、いざ件の書物をと表紙を開く。自身の勉強不足を補おう、明日への下準備は万端にしてみせると気合いを入れたのも束の間。ミンファは己の大きな過ちに気付くと同時に、レイランが何を危惧していたのかを理解した。

 つまるところ、渡された本の内容が人間の交わりに関する事柄中心だとようやく理解したのである。

「っ…………ひゃ、…………わ……へぅぇっ?! …………う、うそ…………っ?!」

 ミンファは悲鳴もどきと絶句を交え、時々羞恥に顔や目を両手で覆い、終いには羞恥に布団をかぶりながら、衝撃の事実が記された頁をめくっていく。
 傍目から見れば挙動不審。おまけに顔だけでなく項から耳から胸元まで、まるで茹でた海老やタコのように真っ赤なのだが、当然鏡もないので本人は気付かない。

「……っぅ?! …………こ、こんな……」

 書物は短い物語と各種の仙術や神通力、生物学、人体構造に医学や薬学を交えた解説との二部立で構成されていた。
 物語部は喜劇もあれぱ教訓めいた悲劇、群像劇なども記されており、閨の部分や淫らな箇所を除けば極一般的なもの。
 解説部に関しても同様に、牛や馬、草木などと並んで生物の生態の一部を学んでいると思えば他の書物となんら変わりは無いと言える……かもしれない。

 しかし如何せん、物語も解説部も紛れもなく乙女が堂々と読むような内容ではない。十九のミンファでさえ知って良い内容なのか不安になるくらいである。
 わかりやすさを重要視しているのか図入りの頁も多く、どれもミンファにとっては未知の世界を描いたものばかり。
 多くはおそらく夫婦間の夜の営みや愛情表現、それらについての趣味趣向について記してあるのであろうが、ミンファが知っていたものとは大きく異なっている。
 同じ布団に入り、寝巻きのような薄着で身を寄せあい抱き締めあったり頬を寄せたり、時には唇を合わせ健やかな眠りにつくだけだと思い込んでいたミンファにとっては全てが衝撃的であった。


「こんな事を、こんな沢山の種類の……過ごし方があるの……?」
 ミンファは二冊目の書物の最後の頁を閉じると頭を抱えた。

 有難くも渡された書物は大変わかりやすく詳細だ。
 また描かれている図も写実的でなく、巷で流行る物語の親しみやすい挿絵にも程遠い。古文書や動物の擬人化にみられるような大変味がある作風である為、内容が特殊な割には生々しさを感じにくい。
 そのため読めば読む程、淫靡で卑猥な印象よりも曲芸や珍しい動物を眺めているような、未知の分野を学んでいるような気持ちに近くなる。
 しかしその分、ミンファの胸の内は単純な羞恥や驚愕にとどまらず、混乱を極めていた。
 書物そのものが何かしらの珊瑚からの暗号なのではないか。性的な説明や図は何か直接描いてはならない呪術や禁術の暗喩なのではないか。
 ――そんな有り得もしない可能性に走りたくなるほどには、ミンファは冷静さを失っていた。

「ユーイェンは知ってるのかな……」
 途端、頬が再びかぁっと熱くなる。堪らなくなって、ミンファは布団を頭から被った。

 知っても尚、ユーイェンはミンファとの婚姻を望んでいるのだろうか。
 知っているとしたらどの程度、そして彼はどの行為をどの位望んでいるのだろうか。

(ユーイェンがそんな事をしたいなんて信じられない。でも生物の本能として、男性は愛情や恋愛感情とは別に子孫を残したいと願う傾向性があるとここには……性欲が薄くて、その気がなくても生理的なものはあるだろうし、辛い物を食べると涙が出る事があるように些細な刺激であの、あれが、例えば、朝にも反応すると本に……)

 声にならぬ悲鳴を必死に抑えてミンファはぎゅっと目を瞑り、布団に顔を押し付けた。
 恥ずかしさと得体の知れぬ気持ちに涙が滲み、布団を湿らす。
 今ミンファは初めて、恋の話よりも学業の話、異性の話よりも趣味に命を捧げ、夕飯を妄想しながら菓子をつまんで暢気に暮らしてきた事を少しだけ後悔していた。

(ユーイェンだって私とそんなに変わらない生活を送っていたと思うのだけれど……ち、知識や意識の差があったとしてもおかしくないわけで。もし、昨日の夜のがもし、珊瑚様の言うように……慰めて……)

 またじわりと目元が熱くなって、ミンファはたまらず布団の上を転がる。
「――――‼ 最低!」
 ミンファは呻く。最低とはもちろん、ユーイェンに対して非常にはしたない妄想をしてしまった当人、ミンファ自身への言葉だ。

(もし、もしユーイェンが珊瑚様の仰るように呪詛の影響で苦しんでいて、この本に載っている方法で少しでも楽になれるなら……少しでも神通力の乱れが落ち着くなら……)
 ミンファは迷わず選ぶだろう。顔から火が出るほど恥ずかしくとも、彼の苦痛が少しでも和らぐのならば。

 機械式時計の針はとっくに真夜中を過ぎている。早く寝なければと急けば急くほど耳の奥で昨晩の苦しげなユーイェンの声が木霊して、落ち着きを取り戻せぬ心臓を抱えたミンファはなかなか寝付けなかった。


 補足:わかりにくかったかもしれないのですが、珊瑚の「~ユーイェンの先三日の命は保証しよう」との言葉は「妾に可能な最大限の命の保証はするから安心して欲しい」と言っています。
 生物の生命は儚く、寿命は神であってもなかなか定められない、関われないとの世界設定なので、悪い意味ではないです。
 あくまで他の生物と同じくらいには命を保障するから(特に危ない訳でも無いよ)安心してねとの台詞でした。
 誤解させてしまったようでしたら、この場を借りてお詫び申しあげます。(私の力不足です……。)