今日も君とご飯が食べたい
大雨の影響で一日半も伸びた出張の帰り、村まであとわずかとなった頃。カイはその異変に気付いた。
乗合機械馬車の休憩時間、隣村に続く街道の途中での事だ。不意に、声を潜ませ何事かを囁き合う声が耳に入った。
「見たんだよ、背中からさ……」
「……腹にでっかい石がついてたってマジ?」
「あの怪力、元から隠してたんじゃねーの?」
「やっぱり影付きの噂は……」
明日から始まる花祭りの影響もあるのか、街道は普段よりも賑わいを見せている。背負いカゴいっぱいに薔薇を持った女性、荷車を引く行商人に、近くに住む主婦達。露店や簡易の休憩所も点在している。
街ゆく人々の情報交換や井戸端会議は珍しくない。が、声を潜めて何事かを噂している者の多さに違和感を感じた。
隣りではガジと上司が茶請けの菓子の制作過程について、論議を繰り広げている。二人の様子からも些細な気掛かりを相談する事ははばかられた。
(気の所為かな)
最近、体のあちこちが痛む。昨日も激しい頭痛で倒れてしまった。妙な焦りも気の所為だろうか。もしかしたら疲労により感じやすくなっているのかもしれない。
僅かな違和感に、当初はさほど気にも止めていなかった。
しかしそれは機械馬車の中で明確な不安へと変わる。
「可哀想に。まだショックで眠ってるんだって」
「うそぉ……でもあのシリウス様の妹さんが?」
よく知る名前が耳に飛び込んできたのだ。
「あの……!」
「えっ、はい」
気付けば、カイは年の頃20歳前後の女性二人に話し掛けていた。
「おい……」
カイが突然、見ず知らずの女性に話しかけたからだろう。眉を顰め咎める上司が視界の端に映る。それでもカイは募る不安に続きを求める事を止められなかった。
「何かあったんですか?」
「え、ええ。そのピゴスで神継ぎの方が出たらしくて。それもとんでもなく恐ろしい姿形で現れたって」
「ちょ、ちょっと……やめなよ」
「しかもお腹の大きい方を襲って、シリウス様の妹にも擬態してたんじゃないかって専らの噂なんですよ。ピゴスの花祭りも始まるって言うのに怖いわ……」
「おい、仕事中だぞ」
上司に首根っこを掴まれ、カイは女性の期待するように潤む眼差しの外へと逃れられた。
(怪力……恐ろしい姿形、擬態……? 襲った……? フィーネが?)
散らばっていた違和感と不安が一つの恐怖を象っていく。
「おい、大丈夫か? カイ」
「すみません、あの!」
「なんだ?」
顔面蒼白、震える唇から。
「報告書は明日朝提出しますから……」
早退を願う言葉が告げられた。
🍴🍴🍴
遠くで再び花火が上がり、軽やかな音が微かに聞こえた。
ぐぅぅぅ、と。情けない腹の音が呼応する。眦から温かな雫が冷ややかな床へと零れ落ちても、当然フィーネのお腹は満たされない。
フィーネは壁に寄りかかると膝に顔を埋めた。
情けない事に大木からカノンを庇おうとしたフィーネは泥に足を取られてしまった。滑って、転びそうになったところを踏み止まり、もう間に合わないと悟った時。目の前で緑の光が散った。驚く間もなく視界がみるみる黒く染まり、歪んでいき……。
フィーネが覚えているのはそこまでだ。気付いた時には見知らぬ小屋のベッドの上にいた。目を擦るフィーネの横で、傭兵のような筋骨隆々の男が槍を握り直す。驚き、自らの体を見下ろしたフィーネは「ひっ」と小さな悲鳴をあげ、何故か筋骨隆々の男の方が「キャーッっ」と大きな悲鳴をあげた。
そのまま置かれた立場を理解する間もなく、村外れの廃城の一部屋に軟禁され、今に至る。
胸の下から先、下腹部まで濃い紫の靄がかかり、歪んでいる。時折鳥の翼や大きな人の手、茨のツルのような形を模しては崩し、再び形の定まらぬ靄へと戻っていた。臍の左脇辺りには神継者の特色でもある鉱石が七色の光を放つ。ブローチ大のそれは、腹部になければ豪華な屋敷が二件程度は買えそうな程美しく、立派であった。
フィーネは深いため息を吐く。
(カノンさんと赤ちゃんが助かって本当に良かった。今はもう、それだけでも良いかぁ……)
これからどうなるのだろう。
異形となったフィーネを恐れてか、村長からは神継者を調べる騎士か魔術師が来るまでは村外れの廃城に一人留まるよう言われた。
食事は水と少量の保存食のみ。恐らく差し入れる者の手間と安全を考えての事だろう。
逃亡出来ないよう城全体には『不出』の簡易魔法が施され、二つの城門にも見張りが一人ずつつくこととなった。
魔法を使った厳重な監視もカノンとの事が未だ明らかにされていない事や、フィーネが怪力で有名な事を考えれば不思議でない。抵抗しようと思えば容易いと思われても仕方がなかった。
ふとすると恐怖がフィーネの全てを支配しそうになる。村長が懸念するように、この先万が一誰かを襲ってしまったら……考えるだけで足が竦んだ。
(村長さん怯えてたなぁ。まあ……そうだよね。私だってびっくりした)
村長は気まずい場をもたせようと長い白髭を撫でながらも、変化したフィーネを決して見るまいとの思いからか目を逸らし続けていた。
幼い頃から面識があったからこそ、畏怖と哀れみの混じる応対はフィーネにとって辛いものだった。
カノンも今のフィーネを見たら、村長や悲鳴をあげた傭兵風の男性、診てくれた医師のように恐れるのだろうか。
可愛い後輩であるリゼは? 信頼する兄であるシリウスは?
ぐうぅぅと腹が鳴る。
(カイも、かなぁ……)
視界が滲んだ。人々の歓声と共にドォンと大きな花火の音が聞こえ、続けて前夜祭を彩る始まりのワルツが流れてくる。
親しい人々の反応を想像するのさえも怖くて堪らない。なのにもう、それを確かめる機会もままならないかもしれないのだ。
不確定な事をあれこれ考え、不安に思う事は不毛だと思いつつ、長引く空腹は冷静な考えを妨げる。
こんなにも泣き虫だったのかと、頭のどこかで自嘲する。顔を埋めるスカートは涙だか鼻水だかわからぬもので濡れていた。
再びぐうぅぅと音がして。次いでガタリと硬い音が荒れ果てた部屋に響いた。
「えっ……?」
顔を上げ、涙を手で拭う。鼻をすすって、フィーネは辺りを見回す。間もなく、フィーネは月の光が差し込む高窓に先程まで無かった影を見出した。
(なんだろう……)
ふらりと立ち上がり、窓下へと忍び足で向かう。もしかしたらリスや梟がいるのかもしれないと、沈む気持ちを慰めてくれる小動物を期待して。
ところが。
「あっ、わぁぁーーーっ!!」
「へっ、えっ?!」
まんまるの月を背に、予想よりもだいぶ大きな影が舞う。影の端はフィーネの鼻の先を掠め、壊れた樽と布袋の重なる床へと物凄い音をたてて突っ込んだ。
「だ、大丈夫?!」
「ったた……大丈夫? フィーネちゃん?」
二人の声がその場に重なる。漆黒と月白が交差する中で、フィーネは見知った少年がガバリと顔を上げるのを認めて瞳を見開いた。
「カイくん?!」
「怪我、ない? 何か飛んだり……」
「私は大丈夫。大丈夫だけど、カイくんは?!」
「大丈夫だよ。この位」
服に付いた土を払いながらカイは微笑む。ふわふわのココアブラウンの髪は作りかけの鳥の巣のように乱れ、鼻の頭を筆頭に膝、腕などあちこち泥で汚れている。出来たばかりであろう頬の掻き傷には血が滲んでいた。
「でも、せめて洗った方が……」
そこまで告げて、フィーネは伸ばしかけていた手を引き飛び退く。
『あの不気味な腹を見たか? 人を襲うかもしれん』
意図せず盗み聞いてしまった、村長の言葉が脳裏に浮かぶ。
(ダメだ、カイを襲っちゃうかも……)
「フィーネ……?」
驚くカイを置いて、フィーネはおぞましい己の腹部を刺激しないようにゆっくりと後ずさった。
「ごめん! カイ、本当に……危ないかも」
誰かを傷付けるのが怖いのか、誰かを傷付ける自分に傷付くのが怖いのか。
ただただ、大切な彼を傷付ける事だけを避けたいはずなのに。
醜い恐怖に蝕まれ、眦から熱い雫が溢れそうになる。
「大丈夫だよ」
瞬間。ふわりと、ハーブと土の香りが鼻に届いた。
柔らかく温かいそれがフィーネを包み、木綿のシャツが頬を伝う涙をすくう。回された腕に力が込められて。
温かいとか、柔らかいとか、心地良いとか。素朴で純粋な感想が言葉になる前に、フィーネの眦から雫が零れる。
「ほら、何ともない。フィーネちゃんも僕も」
柔らかな声は心地好い。髪を撫でる優しい手はほっとする。大丈夫だ、彼が言うならばたしかな根拠がなくとも本当だと思えた。
空腹が僅かに和らいで、恐怖も不安も悲しい気持ちも淡雪のように自然と消えていく。
(大……丈夫……だ……)
再び、ぐぅぅぅぅとお腹の虫が鳴る。反射的に靄のかかるお腹を抑えようとしてから、ようやくフィーネは現状に気付いた。
(わ、私っ……!)
「うわぁっ! カイ、ごめ……!」
「ううん! 僕こそ急に、つい! ごめんね」
慌てたようにフィーネとカイは互いに身を引く。
心臓が今までにないほど速く、激しく脈打っている。先程まで肌寒いと感じていたはずなのに、顔も体も熱く感じた。
が、そんな初めての違和感も束の間。新たな不安がフィーネの体感温度をぐっと下げる。
(今、私、カイのことギュッてしてた?! あ、あ……ど、どうしよう……お兄ちゃんの時みたいに肋折ってない……?!)
腹部の異常以前に。その怪力から幼い頃に犯した失態を思い出したのだ。
「カイっ、あば、胸っ! 肋骨! 胸痛くない?!」
「えっ? 大丈夫だよ? ……っ、大丈夫。折れてないよ」
くすくすと笑う幼馴染みは当然、兄の骨折の事も承知済みだ。怪我防止の為に、シリウスから「人とは(物理的な)距離を置くこと。誰かと抱擁することは相手の為に止めろ」と口を酸っぱくさせ言われている事も勿論知っている。
(カイが大丈夫って言うなら大丈夫なんだろうけど……痛いの無理してないかなぁ)
簡単に折れてしまいそうな薄い胸をじっと見ながら、フィーネは考え込む。その間もお腹は紫の靄を纏ったままぐぅぐぅと鳴き続け、美しくも不気味な鉱石は淡い光を放っていた。
「それより、ご飯にしようか」
「え? ご飯?」
「うん。空いてると思って、持ってきた」
驚嘆や感謝の言葉を差し置き、お腹の虫がぐぅ!と応える。同時にお腹の靄が呼応するかの如く、そわそわと落ち着きなく揺らぎ出した。
「簡単なものしか用意出来なくて……」
太眉を遠慮がちに下げると、カイは腰に下げていた鞄の中を探る。
中からは魔鉱石で作られた水筒に金属製の蓋付きタッパー、拳大の紙包みが二つ。そして木製のスプーンと大きめマグカップ。
「まだ温かいとは思うんだけど」
カイの予想通り、水筒の蓋を開けると湯気が立ち上った。
「これ……」
中身はお茶でもワインでもなく、熱々のクリームスープ。まろやかな甘みとコクを思い出し、食べてもいないのに涎が出てきてしまう。
同時に、僅かに残っていた懸念や戸惑いもフィーネの中から消え去ってしまった。
「こっちはサンドウィッチ。即席マリネもあるよ」
「マリネも……! このぷつぷつ、ケッパー入りの美味しいやつ!」
「うん。好きでしょう?」
差し出されたスプーンをフィーネは受け取る。
「どうぞ。召し上がれ」
「ありがとう……カイ」
フィーネもまた、スプーンをカイへと渡すと、二人の頬が同時に緩んだ。
「「いただきます」」
月明かりの下、感謝の祈りを捧げて。マグカップに移したスープを口いっぱいに頬張った。
「んっ、ほれ、ほおほろほり……?」
「うん。そうそう。ベーコンが無かったからホロホロ鳥の燻製を使ったんだ」
「やっふぁり? いいにほいするから」
見た目こそ先日のスープにそっくりだが、燻製の豊かな香りは異なる趣を醸し出している。鳥肉には濃厚なクリームスープが染み込み、噛む度に森の香りと甘みが溶けだした。
「……っん、すごく美味しい……! へへへっ、鳥のスープも良いねぇ」
「そうだね。これから少し暑くなるし、鶏肉ならもっと澄んだスープとか、冷たいものにも合わせられそうだ」
「へへへ」
勉強熱心なカイにフィーネの頬が緩む。
同時に少しだけ未来の話に素早く動いていたフィーネの手が止まった。
(あぁ、そっか……私もう、ここには居られないんだ……)
胸の奥がずしりと重くなる。
理由は未だにわからないけれども。昔から彼が嬉しいとフィーネも嬉しく、彼が懸命に何かをしている姿はフィーネを勇気づけてきた。
カイの傍は温かく、心地好い。
ずっとずっとこのままでいたいと望んでしまう程に、別れを想像するだけで大好きな食事の手が止まってしまう程に。フィーネにとってカイの傍は、居心地の良い大切な場所となっていた事に気付いてしまった。
「へへ、へへへへ……良かった。……本当にありがとう、カイ」
これまでの感謝を伝える言葉を探そうと試みたものの、結局は虚しい笑いと震える声だけがその場に残る。
未だお腹は満たされていないのに喉の奥が詰まり、味覚や嗅覚が遠のいていく。目頭が熱い。霞むお腹のずっと上がぎゅぅっと苦しくなった。
「フィーネ?」
「いや、あのね、残念だなぁって。こんなに、こんなに美味しいのに……おかわり、出来ないし……」
それにもうすぐなくなってしまう。心躍る柔らかなほろほろ鳥も、大好きなケッパー入りのマリネも、食べ切ってしまえばこの時間は終わってしまうのだ。
(美味しいな……それにやっぱりカイとのご飯は楽しい……ずっとって……私、勘違いしてた……)
美味しくて楽しくて心地好くて。なのにひどく胸が苦しい。
フィーネの笑みが崩れて、
「ご、ごめんね。私、なんかもうちょっと……一緒に居られるかなって思って……っ」
同時に。
「フィーネ、その事なんだけど……っ」
二人の言葉と手が重なる。
驚きに顔を上げると、真剣なキャラメル色の眼差しがフィーネを見つめていた。
「カイ……?」
「いや、あの……良かったら、なんだけど……」
真っ直ぐに向けられていた眼差しが僅かに伏せられ、カイの頬に朱がさす。
「料理の勉強をしたいとずっと思っていて……」
「う、うん……」
突然のカイの意志にフィーネは疑問を持ちつつも頷き。
「有名なレストランも幾つもあるし、あとほら、役に立つと思うんだ。料理ができる人間がいると……」
「うん……?」
一般論に首を傾げながらも再び頷き。
「それで、身内なら同行しても構わないってさっき確認出来て……」
「う、うん……?? っ……!」
言わんとする事を全て理解する前に両肩を捕まれた。
「その、あくまで僕の自分勝手な申し出で、フィーネが嫌なら構わないんだけれど……でも僕としてはこれからもフィーネと一緒にずっと……っ、その、そう、相互扶助や支え合いの精神だと思ってくれれば! フィーネが気に病む必要は全く無いし、その点で断らないで欲しいし、寧ろ僕のわがままに利用してしまう形で申し訳ないくらいで! 僕は料理の練習になるし、フィーネちゃんはご飯が食べられるから損は無いというか……!!」
「えっ? うん?? ……???」
立て板に水の如く。次々と想いを告げられ、フィーネは瞬きする。
理解出来たのは僅かな文言のみ。
ご飯が食べられる。そして多分、これからも一緒に食べようとカイが一生懸命提案してくれている……ように聞こえた。
(一緒に……支え合い……? 料理のお勉強がしたくて……? ど、どういう……??)
噛み締めて、そして。胸に浮かんだ信じられないような期待に、フィーネの頬と胸と瞼とが熱くなる。
「カイくん、それって……⁈」
まさに確かめようとしたその時。
「おい、灯りもつけずに管理はどうなっているんだ?」
突如、古びた木の扉が開き、眩い光がフィーネとカイを照らした。
🍴🍴🍴
眩い光とともに、部屋へと入ってきたのは三人。
一人は銀色の髪を持つ長身の青年だ。年齢はおそらくフィーネ達よりも少し上。二十代前半だろうと思われる。
切れ長のアイスブルーの瞳に薄い唇、眉間のしわを伴う精悍な面差し。
筋骨隆々とまではいかずとも、引き締まった体躯は鍛え上げられたそれそのもの。左手甲には帯剣と銃の携帯を許可する魔法印が浮かび、襟には国家機関であるクライス騎士団所属を表す魔法鉱石のカフスボタンが光っていた。
そして、もう一人も同年代の青年。こちらは件の青年よりも更に背が高く、痩せ型。
肩までのブロンドは波打っており、銀縁丸眼鏡にやや丸まった猫背、生成の長い上着と研究者のような風貌だ。襟には銀髪の青年のそれとよく似た、魔法鉱石のピンバッジが光る。
二人の後ろでは、村長が遠巻きにこちらを見ていた。その顔に浮かぶのは恐れと不安、小さな瞳にはほんの少しの罪悪感が見て取れる。
「……こりゃまた、興味深いね」
眼鏡の青年が感嘆のため息を零すと、騎士の青年が眉根をひそめた。
「どういう事だ? クラウディオ殿」
「すごいよ。シモン。ボクはたぶん専門外だけ……いや、もしかして……ちょっとごめんね」
眼鏡の青年クラウディオは、騎士の青年シモンの問いに明確な答えを出さぬまま、フィーネの右腕を取る。
「あ、あの……??」
瞳を輝かせ、ブツブツと呟くクラウディオには既視感しか感じない。研究室にいるシリウスや料理日記を記しているカイだ。あまりの熱心さに距離を置く事も忘れ、フィーネはただただ唖然としていた。
「全体強化か? いいや、こっちは形状変……」
その時。二の腕からぐにゃりと歪む腹へ触れようとしたクラウディオの手をカイが止めた。
「あの……! いきなり触るのはいかがかと」
カイはそのまま二人の間へと割り入り、フィーネを背に庇う。フィーネからカイの表情は見えない。が、これ程強ばった声を温厚な彼から聞いたのは初めてだった。
「ああ、ごめんね。ええと。お嬢さん、ちょっと体貸してもらっても……」
「えっ?!」
「だ、ダメです! フィーネは……いえその、健康管理や安全面で必要なのは先程ご説明頂いてますが……」
訳がわからず戸惑うフィーネに粘るカイ。しかし、相手も手強い。
まじまじとカイを見つめ、話を聞いた末に出した答えは。
「……君?! へぇ……! じゃあさ、君の方で良いや」
クラウディオはパッと顔を明るくさせると、カイのシャツに手をかけた。
「え……⁈」
「ちょっとごめんね」
つまり何故か、彼はカイの服を脱がそうと躍起になり始めたのだ。
「! カイ!」
「へっ?! は? な、なにするんですか?!」
「純粋な興味だよ!」
「興味って、なんのですか?!」
「見ればわかるだろう? 君は研究心をくすぐる体をしている!」
抵抗するカイにクラウディオは容赦無い。
(け、研究心!! この人多分お兄ちゃんと同じタイプだ!)
フィーネは己の体の影響力も忘れ、慌ててクラウディオの服を掴んだ。
「待って下さい!」
「何故?」
クラウディオの真剣な眼差しにフィーネは一瞬だけ気圧される。彼の瞳には覚えのある純粋な探究心だけでない、こちらを案じ幼子を諭すような優しさが見えたからだ。
「お嬢さん。ボクの見立てではだけれども、この行為は君にも有意義なはずだ。無意識下による魔法の影響範囲の拡大なら自己強化の延長だし、守護魔法ならば魔力受容体である君との相関関係を調べた上で彼は強制的に院にぶち込まれる」
述べられた推測を正しく捉える間もなく、最後の言葉にフィーネは凍りつく。
「ぶ、ぶちこま……?! 私でなくカイがですか?!」
「後者だったならね。とにかく、どちらにしろ王都行きはまぬがれない。つまり、ボクは調べる義務がある!」
「ならば、調べて下さい」
再びカイは間を割ると、自らの身をクラウディオに差し出した。フィーネの腹が大きく歪み、恐怖を象るように闇色の靄は広がっていく。
(私だけじゃなくて、カイが捕まる……?)
「だ、だめで……」
三人の様子を傍観していたシモンが言葉を発したのはその時だった。
「クラウディオ殿やめてください」
混戦状態の三人はピタリと動きを止める。深いため息がシモンから漏れたかと思うと、彼はフィーネとカイの前で片膝をついた。
「失礼しました。この人、言葉選びが劇的に下手くそなんです」
「「へた、くそ…………???」」
声を揃えて唖然とするフィーネとカイにシモンは大きく頷く。
「誤解を招いてしまいました。あと好奇心が少々旺盛でして。研究者としては優秀なのですが、時々……いえ、結構な頻度で奇行に走ります」
「「奇行……」」
「大変失礼な態度をとったことと、すぐに止めなかった事をまずは謝らせて下さい」
深々と頭を下げるシモンに、フィーネとカイはまるで写鏡のように慌てて両手を前で振る。
「いえ、私は大丈夫です! お仕事もあると思いますから!」
「僕もです! むしろカッとなってすみません。事情があるならば協力はしたいですし……」
面白い事にクラウディオまで届きそうだったお腹の靄まで、フィーネ達に倣うように縮まり、ゆらゆらと揺らめいていた。
「ところで申し遅れました。私はクライス騎士団国内生活管理部のシモン・アンティーヌ、こちらは魔法院第三生物分室の幻獣医師クラウディオ・ガリカ。私達はクライン嬢にお話をしに来たのですが……」
ゴホン、と。軽い咳払いと共に、シモンの眉間に再びしわが寄る。
「カイ殿にも改めて、お話を伺わなければなりません。どうして規律を破ったのかも含めて、それぞれあちらで。王都へのお話もその時に。いいですね?」
「「は、はい」」
ピシャリと告げられ、フィーネとカイの背が伸びる。
女学校時代の主任教授とリゼとのやり取りが脳裏をかすめた事は、ピゴスを出立する日になっても、その後もずっと。フィーネはシモンに言えそうになかった。