過ちて、改めざる是を何と謂う
ルナ・アルティアはそっと粗末なノートに貼られた押し花に触れた。
以前は鮮やかだった瑠璃色の五枚の花びらは、褪せて元の色よりもずっと頁の色に近付いている。彼が花かんむりをルナに作ってプレゼントしてくれたは二人が十一の時、もう六年以上も前なのだから当たり前かもしれない。
未婚の男性が同じく未婚の女性に花かんむりを送るということの意味を、当時は朧げにしか理解していなかった。それでも『ずっと一緒に居たい』相手に送るという花かんむりを、彼が贈ってくれたくれたことに感動を覚えたのは本当で、ルナは花かんむりの一部である花を抜き取り押し花にした。
花かんむりの本当の意味合いを知ったのはその一年後だっただろうか。意中の相手に男性が贈り、女性は結婚までその花かんむりを大切に身に着ける――婚約の儀式でもあることに気付いた時には、彼の存在は同じ屋敷に住む使用人であり友人というものから、意識する特別な相手へと変わっていた。
たしかに周りの同年代の少年よりも彼は白くて小さくて細くて、正直同い年であるルナよりも年下に見られることが多かった。それは一年前別れたあの時まで、成長しても、変わらないどころか寧ろ周りとの差は大きくなる一方だったけれども。
それでもルナの恋心が成長とともに薄れることはなかった。世に言う理想の男性像とはあまり共通点がなくとも、少し気弱な優しい彼がやっぱり一番で、想いを言い表す表現は違えど特別だということが変わることはない。
結ばれるどころか、会うことも難しくなってしまった今も、きっと。ずっと、これからも。
顔を腫らし口元を血で染めた彼に、守る為とはいえ嘘をついてから一年経った。
代々高名な魔術師を輩出している伯爵家の現当主からの脅迫まがいの求婚も受け、婚約までした。
使用人から一変、伯爵に危害を与えない妻となる為に、膨大な魔力を制御する為に、学校へも通った。
主がこの国の第二王女へと一時的に変わり、王宮にも通った時期もあった。
何故、暴発したのがあの時ではなかったのだろう。いや、そもそもどうしてこんな必要もない力がルナにはあるのだろう。もう何度も自問している。
近所の子供たちに彼が殴られ激怒し、劇場の壁を壊してしまった七歳のあの時も、高熱を出し死にそうになった彼を看病していたら意図せず街一つ治癒魔法を発動させてしまった十六歳のあの時も、確かにこの力は当時の二人を救った。だからこそ、嫌いになりきれなかったのだ。
しかし、二回目の魔法の暴発がきっかけで王宮魔術師協会にその存在を知られることになってしまってからは、この力が疎ましくて仕方ない。
肝心な時に役に立たない、大きくて、ただそれだけどころか、それ以下の存在だ。
伯爵はじめ多くの者は言う。『純粋で高潔な血を世に残す』ことがどれだけ大切かを。
でも何をもってして『高潔な血』なのかも、どういうものが『純粋で』に当たるのかも、ルナには理解できないし、理解したいとさえ思えなかった。
――すべては彼を守る為なんて傲慢過ぎね。
大きく息を吐いた。色褪せた花びらをそっと撫でる。
あれから、生きているという実感がわかない。ただ生かされている、そんな言葉が当てはまる気がする。
彼に今後一切危害を加えない代わりに出来ることは何でもすると約束したのは事実だが、彼を守れたとは言い難いのだろう。
傷つけたことには変わりはない。大切な言葉を、真っ直ぐな蜂蜜色の瞳を、嘘をつき裏切って歪めたのは自分だ。
彼は今黒の森と呼ばれるここハイレン王国の南端にほど近い所で、たった一人で暮らしていると王女から聞いた。人とも獣人とも必要最低限の関わりしか持たずに、暗い森で毎日を過ごしているという。
一人で居ることを特別好む訳でもなかった彼をそんな風にしてしまったのは、きっとルナなのだろう。今の暮らしを楽しんでいるようならば良いが、家族がいない生活は何かあった時不便だとは思う。特に彼は獣人の血を引く。定期的に倦怠感に襲われるあの時期、一人で何もかもするのは骨が折れる。
――ご飯、ちゃんと食べてるかな……
押し花を撫でていた自らの指を見下ろした。それは以前のように荒れてはいない。
いつだって彼はルナの作った料理を笑顔で食べてくれた。顔に出やすいのか失敗してしまった時は微妙な表情も浮かべていたけれども、それでも困ったように笑って完食してくれた。彼がいたから辛い仕事も耐えたし、もっと頑張ろうとも思えた。
一緒に台所に立ったことも、仕事をしたことも、休日に裏山に出かけたことも、こっそり夜抜け出して星を見に行ったことも……二人で過ごしたことは溢れるくらい沢山思い出せるのに。
ルナは滲んできた視界を遮るために瞳をこすった。唇を強く噛みしめ前を向く。
感傷に浸る資格なんてない。死んでしまいたいけれども、きっとそんな無責任なことも許されない。
三日後の夜には、この身体は伯爵のものになるらしい。恐ろしいというよりは、仕方がないのだと、天罰が下るのだと誰かが言っている気がした。
「ねぇ、フィン……」
「おい、入るぞ」
皮肉にも思わず漏れ出た彼の名前に答えたのは高圧的な男性の声だ。ルナはゆっくりと扉の方へ視線を向けた。
彼が花かんむりを贈った意味を今更知りたいと思ってはいけない。
しかしせめて今だけは、自分が完全に心を捨てなければならなくなる三日後までは、どうか自分を望んで贈ってくれたのだと信じていたかった。