missing tragedy

過ちて、改めざる是を何と謂う

兎の想いは天に届くか 第三夜 ★

 
「フィン、そこは自分で出来るから大丈夫だよ」
「駄目。それにルナよりも僕の方がこういうのは慣れてるから」
 頑として譲らない幼馴染みに、ルナは申し訳なく思いつつも従うことにした。

 ルナは先ほどからベッドの上でフィンに傷の手当てをしてもらっている。腫れた頬は冷たい水に浸した手巾で冷却中だ。切ってしまった唇の端にはフィン手製の塗り薬が塗られている。
 今は逃げている時についてしまった無数の擦り傷を彼が一つずつ丁寧に消毒していた。
「ねぇ……ルナ。一体……」
 蜂蜜色の瞳が近づいてルナを射抜く。しかしその言葉は続かなかった。徐に真っ直ぐな眼差しが伏せられ、眉間にしわが寄る。

「三日後に正式に結婚するって聞いた……」
 そう言うとフィンは再び口を噤んだ。掴んでいたピンセットを救急箱に戻す彼の兎耳は垂れている。その様子はルナの結婚を祝福しているようには見えず、別れが近いというのに少しだけ嬉しいと思ってしまう。
「あー……あれね、破談になると思う」
「え……?」
 フィンは眉を顰めルナを見た。冗談を言われていると思ったのかもしれない。ルナは努めて明るい声で笑いながら続けた。
「というか、私多分十日後くらいには生きてないんじゃないかな。ちょっとまた魔法を暴発させちゃって。それがこの国の禁忌に触れちゃったから、追いつかれたら厳重注意じゃ済まないと思う」
「は……? 禁忌って……?」
 今度は明らかに彼の顔が強張る。彼の悲し気な表情は何か誤解しているように見えた。慌ててルナは補足する。
「大丈夫だよフィン……! 怪我させたり殺めたりそういうのじゃ無いから」
 その言葉にフィンはホッとしたように脱力した。しかし今度は訳が分からないというような難しい顔をこちらに向ける。
「だとしたら……? ルナは何をしたっていうの?」
「なんか、ちょっと時間を止めちゃったみたいで……」
 さらっと軽く言ったつもりだった。それこそ、目玉焼きを焦がしてしまったんだ、くらいのノリでルナは言ったつもりだ。
 ところが彼の顔は信じられないものを見て固まった小動物のような面白い顔になった。どんぐりが突如動き出してびっくりしたリス、そんな比喩が当てはまりそうだ。
「でもほら、部屋の中だけだったし。逃げる時に後ろが騒がしかったから多分すぐに元に戻ったし、実害は少ないと思うよ」
「時空魔法は高度魔法の一つだよ?! やるとしても少なくとも特級または一級クラスの魔術師が十数人は必要なんじゃない?!」
「うーん……そうなんだけど偶然出来ちゃったし……なんか逃げてるうちに何回か転移もしちゃったみたいで……だから数刻でここに着いたからそれはラッキーだったかな」

 ルナはおどけたように笑う。重たい空気を振り払うために。
「無理して笑わないでいいよ」
 ルナの頬にフィンの温かな手が触れた。辛そうに歪んだ彼の顔は、泣くのを必死に我慢していた。
「……でも、私あと少しで死んじゃうし」
「……そんなのわからない」
 新緑の季節の風のような爽やかで心地良い匂いがルナを包む。回された腕に力が入る。
 涙と言葉を止めておくのはもう限界だった。
「フィンに、迷惑かかるって……わかってたんだけど……」
 それでも最後に大好きな人の顔が見たくなった。
「……ない」

 フィンの言葉は聞き取れなかった。ただ彼が与えてくれる温もりにルナは身を委ねた。


※※※

 抱きしめたルナは震えている。 
 彼女が顔を埋めた肩口が熱くなっていくのを確かにフィンは感じていた。
 発情期であるフィンが特別に想っているルナにこんなにも近づいて身体が熱くならない訳は無い。正直にいえば甘い匂いと柔らかな彼女の肢体は危険な毒草にも近く、甘く艶やかなそれは静かに穏やかに、そして確実に蝕んでいく。

 火照りは酷いし色んな意味でくらくらするし、心臓は今までにないほどに煩い。自身が興奮してることも事実だし、率直なところ彼女の身体に今すぐ番の印を刻んで中にそれこそ何回も吐き出したいのも本当だ。
 それでも今のフィンの中では本能的な欲望よりも、誤解を解きたいという気持ちや震える彼女を安心させてあげたいという気持ちの方が強かった。

 再会出来たことが、最後に会おうと来てくれた事が嬉しくない訳なんてない。
 再びフィンの瞳にルナが映ってどんなに嬉しかったか。心が震えたか。きっと彼女はわかってはいない。
「……会いたかった……フィンに会って、言いたいことがあって……」
 ルナを抱き締める腕を緩めて、フィンは真っ直ぐに見つめた。
「うん……」
「あの時は本当にごめんなさい……」
 ルナはそれだけを告げると俯いてしまう。言い訳もせず、ただ自分が酷いことをしたと。
 フィンは困ったように笑って彼女を見つめた。どうやら生真面目な幼馴染みは隠し通すつもりらしい。フィンの為に、詳細を語らずに。
「大丈夫……知ってたから。ルナが脅されていたことも、僕を守る為に一度断わった縁談を受けたことも……僕を遠ざけたことも」
「え……?」
 驚くルナを覗き込む。彼女には悪いが、正直に伝えたかった。
「最初は少し、というかかなりショックだったけど……冷静に考えればすぐわかるよ」
 そう言うとルナは益々萎れてしまう。きちんと話をしたいという気持ちと傷つけたくないという気持ちがせめぎ合い、フィンを揺さぶった。

「でも……フィンを傷つけたことに変わりはないから……それに結局最後まで迷惑をかけることになったし……」
 弱々しく窄まっていく声のルナは、下を向いたままだ。スカートを握りしめる手は震えている。今すぐにでもその手を取って、もう一度彼女を抱き締めたかった。ただ本能が、再び密着したら今度こそ良くないと警告を鳴らしている。きっとそれ以上のことをしたくなってしまうと。
「もちろん、裁かれる時はきちんとフィンを操ったことにするし、ある方にフィンだけは守って貰えるように必ずするから……だからわがままだってわかってるけど、最期は……最期だけは、フィンの傍で迎えたい」
 その言葉にフィンは眉を顰める。死ぬことを前提としてルナが話していることは容易にわかった。思わずベッドに置かれたルナの手を握って、発情期ということも忘れ身を乗り出す。
「許さない……」
 いつもよりも冷たい声が出てしまう。きっと眼差しもずっと獣に近いような、ぎらぎらしたものだったに違いない。怯えたようにルナが肩を揺らした。
 それでも許すわけにはいかない。最期だなんて、そんなこと絶対認められない。
「あ……ごめん……フィン。そうだよね……うん、会えて謝れただけでも嬉しかったよ」
 誤解したのかルナは息を飲み、直ぐに悲しそうに顔を歪ませると笑った。

 違う。決してそんな顔をさせたかった訳では無い。ただルナが諦めてしまうことをフィンが認められないだけなのだ。
 不甲斐ない自分に苛立って自らの顔を殴りたくなる。
「そうじゃなくて……! また僕だけ守って貰うなんて……最後だなんて絶対許さない」
 フィンは湧き上がる衝動を必死に堪えて告白した。

 同じ過ちを繰り返したくはない。今度こそ絶対に彼女を救いたい。
 本能では今すぐにでも驚くルナの肩を押してベッドに押し倒し、フィンの大切な番なのだと証をつけ、フィンにとってルナは唯一の、特別な存在なのだとちゃんとわかって欲しい。でもそう思うならば尚更、まずはきちんと言葉で彼女に伝えて、そして行動しなければいけない。
「やっと……やっとまたルナに会えたのに……お別れなんて認められない。今度こそ僕は君を助ける」
「フィン……」
 ルナの瑠璃色が揺れた。泣きそうな顔をしているのはルナなのか、フィンなのか。もしかしたら両方なのかもしれない。
「そしたら、今度こそ僕と番になって……ルナが嫌じゃなかったら、僕と本当の家族になってよ……」
 彼女の頬を涙が伝う。拒絶とも受容ともとれるそれに、自然とフィンの眉は下がってしまう。それでも諦めることは出来ず、必死に続けた。
「好きだ……ルナが今僕を特別に想えないなら頑張って特別になれるよう努力する……他に好きな相手がいるなら……それが任せられる相手ならば、考えるけど……」
 尚も涙を零すルナにどうしていいかわからず、益々眉は下がってしまった。

 彼女には泣いてほしくない。出来れば笑っていて欲しいし、抱きしめて安心させたい。けれど、ルナがフィンを特別に思っていないならばそんなことをされても余計に困ってしまうだろう。
 そう思うと自然と伸ばしかけた手は行き場を失って落ちてしまう。
「とにかくルナを守るから……もう一度僕とのこと考えては欲しい」
「ありがとう……」
 伏せられていた濡れたルナの瞳がフィンを捉え、和らいだ。それが何を指し、意味する言葉なのかは未だ図りかねたが、穏やかな色に微かな希望の光を見た気がした。
「ルナ、それって……」
「嬉しい……すごく。でも大丈夫だから、そんな馬鹿なことはしないで」

 しかし淡い期待は一瞬で無残にも散ってしまう。あっさりと自分の助けはいらないと拒絶され、それでも藁にも縋る想いでルナに聞く。
「なんでか聞いていい……? 僕のこと嫌いだから?」
「違う、よ。フィンには幸せになって欲しいから……死んじゃう私なんかじゃなくてもっと……」
 フィンはその答えに安堵し、そしてどこかで寂しさを覚えた。彼女は前回と同じ理由から、同じ答えを出すつもりだ。フィンの為を想って一番正しくて惨い答えを出すつもりなのだ。

 ルナを救うことが難しいことはわかっている。簡単に出来ないと思われても仕方ない。またフィンを想ってこそ負担を掛けたくないという彼女の気持ちも嬉しいし、自分が彼女でもそうするとは思う。
 でも、頼って欲しかった。わがままだとは思うが、守ってもらうばかりなんて、到底納得できない。
「そんな、僕は……っ」
 伝えようとしたそれは途中で途切れた。悲し気に微笑むルナの瞳は諦念の色に染まっている。どうしようもない身勝手な怒りは限界に達してしまった。
「っ……」
 気付いた時にはフィンはルナの唇を自らのそれで塞いでいた。不意打ちの、強引で身勝手なそれを押し付けて貪るように口付ける。
「ん……ぅん……」
 触れてしまえばあっけなかった。罪悪感さえも甘さへと変わり容易に溺れてしまう。
 柔らかさを確かめるように角度を変えて食み、何度も味わうように唇を合わせる。慣れない行為に時折牙が当たってしまうけれど、気にしてはいられない。

 ルナの鼻にかかったような甘い声に心臓が高鳴って、固く熱くなったそこはどんどん大きくなる。幼い頃、戯れで彼女とした口付けとは何もかも違っていた。
 嫌われるかもしれないと頭の片隅で思いつつも、フィンはルナに昂りをぐいぐい押し付けてしまう。強請るように、許しを得るように、口付けながら淫らな行為を続ける。
「ん、んんっ……っはぁっ……はぁ……ル、ナ……」
 口付けてる間の呼吸がうまく出来ず、苦しさに唇を離すと頬を真っ赤にさせ瞳を蕩けさせるルナと目が合った。このまま襲ってしまいたい欲望を、僅かに残る理性で必死に抑える。

「助けるって言った。気休めなんかじゃない……具体的に考えがあるし多分上手くいく……ううん、絶対うまくやる……無理矢理キスしちゃったり悪いことはしたけど……」
 そこまで告げてフィンは自身を押し付けるのを止めた。言葉にした途端、罪悪感が戻ってきたからだ。
 首を振るルナを真っ直ぐ見つめた。彼女の頬に朱が広がって、鼓動が速くなる。

「ルナの今の気持ちが知りたい」
 少しでも想ってくれているのならば、と願いを込めてフィンはルナの頬に触れた。