missing tragedy

過ちて、改めざる是を何と謂う

兎の想いは天に届くか 第九夜 


「ごめんね、ルナ。……その今日は何もしないから……」
 ベッドの上でルナとフィンは何故か正座をし、向かい合っていた。昨日のようなことはしないと告げる彼の頭にはそわそわと落ち着きのない獣耳。話すと見え隠れする牙や真っ赤な顔からも発情期が終わっていないことはルナにもわかる。彼を残酷な現状へ導いた張本人はリュートだが、その彼は現在居間で熟睡している。
 この家で三人がそれぞれどこで寝るのか、その議論は先ほどまで混戦を極めていた。それはもう収拾がつかなくなる程に。
 ルナに一つしかないベッドを使ってもらいリュートと自分は居間と書斎で、と提案するフィンの第一案にはルナが反対した。
 身内になる予定だとは言えリュートは義兄で聞くところによれば次期国王なのだ。身分を考えれば自分がベッドに寝るのはおかしいし、また正式な持ち主であるフィンを差し置くことも申し訳なくて出来ない。
 ルナが渋っているとリュートが笑って、番なのだからフィンとルナ二人でベッドを使えば良いんじゃないかという第二案を出した。しかしそううまくはいかないものだ。この案にはフィンが難色を示した。
 彼は慌てたようにリュートに掴みかかると何事か耳打ちする。そしてルナの方へ振り返ると、頬を朱に染め小さく「ルナの横で一晩何もしない自信がないから……」と呟くように告げた。

 その意味にルナが気付いたのは数秒経ってからだ。あっという間に同じように顔が赤くなる。彼の気遣いなのだろうが、ルナとしては別に嫌じゃない。むしろ胸が高鳴ってしまうくらいには期待してしまう。
 しかし見えかけた着地点はリュートが笑いながら告げた一言で再び見えなくなってしまった。「フィンそこは決めろよー。ヘタレだなぁ」というそれはフィンの神経を大変効果的に逆なでしたのだ。
 泥試合化する予感を感じルナはリュートとフィンが同じ布団で寝ることを提案したが、これには二人とも眉を顰め同意は得られず。
 結局ああでもないこうでもないと言っている間にリュートが寝てしまい、終焉を迎え今に至るのだった。

「ね、寝ようか? 明日は早いし」
 ぎこちない動作で彼は明後日の方向を見遣り布団を捲り中へと潜る。背中を向け端の方へ寄るフィンの耳は赤かった。
――昨日の続き……したいとは言えないけど……くっつく位なら良いかな……?
 ルナもベッドに潜りゆっくりとフィンに近付く。そっと背中に触れると彼の身体が大きく揺れた。ここまで来たら勢いだと決意を固め、腕を回し抱きつく。柔らかなフィンの香りを吸い込むと、回していた腕を掴まれた。
「ルナ……だめ」
「ごめん……嫌だった?」
「っ……そうじゃなくて、大事だから……今日はだめ。今度!」
 弱々しい抵抗を無視しようかとも思ったが彼の意思を蔑ろにするのも良くない。仕方なく腕を緩めルナは背中に頬を付けた。フィンの早鐘を打つ心音が聞こえる。温かくて気持ち良い。ずっと聞いていたいとさえ思ってしまう。
「ルナ……! 時期だし我慢できなくなっちゃうし、薬はないし……避妊具もないんだからお願い……」
「わかった……」
 離れるのは少しだけ悲しかった。実際触れていた頬を離した途端ほっと息をつかれたのも寂しかったけれど、フィンの想いを無視するのはもっと辛い。それに無理をしているのはルナの為だ。彼の気遣いを無駄にしないためにも距離をとって目を瞑った。

 視界が途絶えた途端急激な眠気に襲われる。思ったよりもずっと疲労していたらしい。
「フィン……また一緒に生活できるようになったら絶対……」
 その続きを全て言うことは出来なかった。



 健やかな寝息を立てルナがフィンの後ろで眠り始めてから数分経った。昨晩フィンが無理をさせてしまっただけではない。彼女は転移を繰り返しながらとは言え、王都からここまで走って来たのだ。しかも明けた今日も一日中リュートを含めての話し合いとなれば疲れていないわけがない。
 揺らぐ理性を懸命に律し我慢して良かったと心底思う。
 そっと布団の中で身体の向きを変えた。シーツの上で波打つ飴色の髪を梳いて頬に触れる。ふにふにと柔らかな感触が心地良い。しばらく触り心地を楽しんだ後、フィンは音を立てずに距離を縮め抱き締めた。
 温もりと規則的な寝息に心が解れていく。熱くなる身体も倦怠感も今は嫌ではない。
 発情期で、彼女は愛する番で。ただし今夜、手を伸ばせば触れられる距離にあるルナと繋がることは出来ない。しかし火照るこの身に対して、心は思ったよりも穏やかかもしれない。
 フィンはルナの首筋に顔を埋めた。昨晩つけてしまった噛み跡に唇を落とす。
――また一緒に……ってそんなの決まってるよ……ルナが嫌って言っても離せるわけない……。
「ん、」と小さく声を漏らし身じろぎするルナを抱き締めなおし瞼を閉じる。すぐさま元のリズムを取り戻し寝息をたてて眠る彼女の温もりとフィンの熱が混じって溶けた。
 好ましい甘い香りのほかに微かにする雨の匂いが、夏の始まりを告げていた。




 昨晩の雨が嘘だと言わんばかりに澄んだ大空を一頭の飛竜が優雅に舞っている。フィンたち三人を乗せ、日が昇ってからそれが一番高い位置にたどり着くまで飛び続けたというのに、飛竜はまるで疲れを感じていないようだ。彼女はくるくると三回フィンたちの真上を旋回し終えると、どこかへ飛んで行った。リュート曰く「そこら辺を散歩」してくるのではないかと言っていたが、正直なところ定かではない。
「しかしいつ来ても肩こりそうなほど大きいよなー」
 降り立ったリュートの第一声にはフィンも同意見だった。
 大陸でハイレン王国と同等の発言力と国土を持つ国の、第一王子であるリュートさえそう思うのだ。作りや意味合いが違うとはいえ、この国の城は不必要なほど大きい気がした。
 巨大な三つの尖塔を中心としたここは、建国以来増改築を繰り返している。今は使われていない部分も含めるとフィンとルナが住んでいた町を軽く飲み込める広さである。
「うん。迷っちゃいそうだね、ルナ」
 感嘆の溜息を洩らして真横に立つ彼女を見る。暗い影を纏うルナの表情に一瞬で胸が詰まった。目の前の建物の先を見つめる彼女のスカートを握りしめる手は微かに震えていた。
「大丈夫……」
 震える手を取る。ルナと同じ方向を見ながらフィンはそれを包むように強く握った。
「一緒だから。迷わないよ、もう」
「フィン……」
 ぱっと彼女の方へ顔を向け笑いかける。手を引いて一歩踏み出した。雨上がりのしっとりとした土を踏みしめる。
 怖くないと言ったら嘘になる。ルナと同じようにフィンだって不安だし怖い。
 ただ彼女と共にならばどんな道であっても進んでいける気がする。
 暗闇の中でだってきっと僅かな月明かりと夜空の星の輝きを見つけて嬉しくなれるし、雨の中だって草木を打つ雫の音を楽しめるだろう。
 ルナと共にならその後の虹に気付き、一つ一つの発見を喜びあいながら前へ向かって歩ける。
「行こう?」
 振り返りルナを待つ。瑠璃色の奥がさざ波のように揺れた。
「うん!」
 彼女の顔がほころんで柔らかな笑みが広る。澄んだ空の下、フィンとルナの頬を爽やかな風が撫でた。