missing tragedy

過ちて、改めざる是を何と謂う

兎の想いは天に届くか 最終夜


「うん。だいぶコントロールできるようになってきたし、今日はもうこの辺にしよっか」
 ハイレン王国の南に位置するボーデン海と呼ばれる湾を渡った先、狼の獣人を祖とするその国は今日も快晴だった。
 普段は城の中のドーム状の講堂でルナの魔力制御の特訓は行われている。慣習や行儀作法などを学ぶのも同じ王城の書庫と室内だ。しかし今日は鬱々とした気分も一瞬で何処かへ行ってしまうくらい良い天気だ。魔力制御の特訓だけならば外でも出来るーーそう目の前の女性は言い、ここ数日なかなか城から出られなかったルナを気遣ってくれた。
 濡れ羽色の髪と深い藍色の瞳、薄茶色の三角の獣耳を持つ彼女はリム・ウィンディッシュ。現在のルナの魔力制御指導の教師でフィンの七つ上の姉である。この国の第一王女とは思えないほど活発で勇まし……快活で素敵な女性だ。
「はい。午後は書庫で地理と歴史に、あと主な貴族の方々のお名前と顔の復習でしたよね? あとどこかで明日の祭典の準備の手伝いにも……」
 ハイレン王国で王女に仕えていた時も思ったが、王族の務めというものは多い。フィンと一緒に屋敷に仕えていた時は知らなかった世界だ。まさか当事者になるとは思ってもみなかったが。
 フランシスカに協力を求めるために王城へと降り立ってからもう三月、高名な魔術師を輩出することで有名な伯爵家の当主が婚約の解消をしたと街に噂が広がってから二月半経つ。
 街ではしばらく様々な噂が飛び交った。有力なのは実は相手の娘はただの村娘で、身分を偽り伯爵に近づいた為後になってばれて破談になったという説。また、それは表向きの理由で単に伯爵の気まぐれで娘が捨てられたのだという説も有力なようだった。他にも娘は実は悪魔やこの世のものではなかった説に、男だった説等々。
 それらはまことしやかに乱れ飛び、しかし真実を確かに知るものはいなかった。
 社交界でも伯爵の婚約者であったルナ・アルティアという女性の存在は意図的に消された。最初から伯爵は婚約などしてなかった、それが社交界の真実となった。
 同時にその男が悪質なビジネスから手を引いたことはあまり知られていない。また、その男の証言である大きな犯罪組織に王女の刃が立てられたことは、ルナを含めたごくわずかな人間しか知り得ないことだろう。
「うん。祭典の準備は手伝って欲しいけど、地理とかそっちの勉強はお休みね。あいつも待ってるだろうし今日の午後も詰め込んだら怒られちゃう」
「大丈夫ですよ。私結構体力には自信ありますし、フィンだって学ぶことの大切さはちゃんとわかってくれてますから」
 拳を握って笑いかけるとリムは眉を下げて苦笑した。なにか間違った答え方をしてしまったのだろうか。
「そうかなぁ……フィンの奴ルナちゃんのことめっちゃ心配してたからなぁ」
「フィンは……過保護過ぎです。私そんなに勉強とか暗記が苦手に見えますかね?」
 確かにこれまでに経験したことが無いほど本を読んでるし様々なことを覚えてもいる。が、倒れたりするまでではない。何よりこれらはすべてルナが望んでやっていることだ。
「んー? そういうことじゃないと思うけど……と言うかあいつも矛盾してるよねぇ」
 にやにやとした笑みを浮かべたリムの視線がルナの首筋に落とされた。その意味に気付き、慌てて襟を引っ張ってそこを隠す。
「こっ、これはっ……」
「うんうん、花嫁の体力があることは良いことだよ。でも連日だと疲れない?」
 その言葉にルナは耳まで赤くなってしまう。可笑しそうにくすくすと笑う彼女には何もかもわかっているらしい。
――もうっ!! フィンの馬鹿!!
 今朝方、紅い痕を付けた張本人に文句を言ったところ、拗ねたように「だって……」と返ってきた。うっすらと朱に染まった頬からしても、彼が罪悪感を感じつつも意図的に分かる場所に付けたと考えて間違いはない。

「お昼あいつと食べるんでしょ? 朝、サンドウィッチ作ってたもんね」
「あ、はい」
「夕方、日が暮れたら広場の設営だけフィンと手伝いに来てよ。それまで二人で休んでていいよ」
 そう言ってひらひらと手を振るとリムは去っていた。ルナも台所のある建物へと向かう。これから昼食を持ってフィンに会いに行くつもりだ。
「激辛サンドウィッチも作っておくべきだったかな……」
 もちろん心底そう思っているわけではないし、きっと作っても彼なら喜んで食べてくれるのだろう。ルナの作ってくれるものならば何でも嬉しいと、笑う顔が容易に想像できた。

――もう馬鹿!! 私の馬鹿!!
 恥ずかしい自分の妄想に、ルナは真っ赤になった顔を覆いその場に蹲る。瞼の裏に幼さの残る人懐っこい笑みが映った。
 恥ずかしくて、でも幸せで。どうしようもなく彼に会いたくなった。



「できた……!」
 およそ半日あまりの時間をかけて生み出されたそれをフィンは満足げに見つめた。
 彼女の瞳の色と同じ瑠璃色の花と、自分の瞳と同じ蜂蜜色の花で組み上げた。差し色に紅色の花も使っているそれは、なかなかの出来栄えだ。
 指輪も用意している。一緒に渡す予定の婚約指輪と、近い未来渡す予定の結婚指輪だ。
――気が早いって思われるかもしれないけど……
 フィンは顔を真っ赤にさせると机に突っ伏した。

 ここ最近の自分の行動に――特に夜、閨で彼女にしてしまっていることを反省する。
 発情期はもう終わったものの寝室が同じだということが歯止めが効かなくなっている理由の一つだとは思う。ベッドが一つなのも大きな要因かもしれない。さらに言えばベッド脇に避妊具と避妊薬が常備されているのも関係していると思う。
 嫌われたくはないが、二人きりになればすぐ抱き締めたくなってしまう。隣で眠っていると考えると近づきたくもなる。

 明日、一年で一番大きな催しでもある花祭りが始まる。七日間にわたるその祭典の初日、フィンはルナに正式にプロポーズするつもりだ。
 夕方からの最終的な準備が終われば、前夜祭が始まる。そうすれば否応なしに酒も勧められるだろう。泥酔した女性とするのは最低だとリムも憤慨していたし、明日のこともある。今晩は絶対に我慢だ。
「フィン、入っても良い?」
 扉を叩く音とともに件の彼女の声がした。驚き思わず飛び跳ねるように立ち上がってしまう。慌てて花かんむりをクローゼットに隠して扉を開けた。
「ル、ルナ……?!」
「ごめん、お昼一緒に食べようかと思って来たんだけど……忙しかった?」
 ルナの頬は心なしか上気している。秋が近いとはいえまだ暑い日も多い。外が大分暑かったのかもしれない。こちらを気遣うような眉が下がった。
「忙しいならまたこ……」
「そんなことない……! 一緒に食べよう!」
 ぱっとフィンは彼女の手を握る。一緒に食事をするせっかくの機会だ。逃したくない。
 この先幾度となく彼女とは食事をするだろうし、そんな風に言えばリュート達に大袈裟だと言われてしまうかもしれない。けれどフィンは少しでもルナと一緒に居たいのだ。
「う、うん」
 必死な様子のフィンに圧倒されたように少しだけルナは目を大きくさせる。真っ直ぐに見つめると頬が更に熟れた果実のように真っ赤になり、瞳が伏せられた。恥じらう彼女にフィンの胸はあっという間に早鐘を打ち始める。
「食べたら邪魔にならないように隣に行くから……」
「僕も行く!」
 反射的にとでもいう早さで答えると、もの言いたげな視線を返された。
「いや、だって……僕も夕方までは空いてるし……昼間もルナと一緒に居たいし……」
 焦って言葉を続けるが、きまりは良くない。どれだけしつこいのかと、呆れられても仕方ない。視線を床に落とし、もじもじと手を遊ばせていたら不意にそれに同じ彼女のものが重なった。
「フィンの好きなアップルパイも作ってきた……」
「う、わっ……」
 そのままぐいと手を引かれ窓際の机へと導かれる。これはもしや食後ルナといちゃい……一緒に過ごしても良いという意味なのだろうか。
「もう……食べないの?」
 こちらを睨む彼女の瞳に怒りの色は全くない。不器用な彼女の照れ隠しなのだ。
 期待に胸が膨らんで、頬が緩んだ。
「食べるよ。……へへ、大好き」
「フィンは単純なんだから……」
 にへらと笑ってルナをぎゅっと抱き締める。彼女は呆れたようにため息をついていたけれど、それがまんざらでもないこともフィンは知っていた。

「うん。単純だよ。ルナが大好きなんだ」
 頬擦りして、さっと朱に染まったそれに口付ける。可愛くて愛しくて堪らない。
「私だってフィンのこと……好きだもん」
 子供のように呟いたルナの顔はもう見えない。潤んだ瞳を隠すようにフィンの胸に顔を埋めてしまったからだ。

 フィンの頬も彼女の頬と同じ色に染まっていた。

 
 第一部 完