missing tragedy

cock-and-bull……¡

穏やかな日々の終わり ①

 
 並ぶ薬瓶の中に煎じたばかりの緑の液体を注いでいく。

 黄芩、芍薬、甘草、桂枝、大棗、柴胡……薬瓶に入る薬の元となる薬草のほとんどはエリスとノアが実際に山などに取りに行ったものだ。今は未だ採取と調合しか出来ない。しかしそれもあと少しの間だ。
「ノア、この間も崖から落ちかけたんだってな。しかもまたエリスを庇って。大丈夫か?」
「別に、落ちなかったから大丈夫だけど……?」
 手を止めずに同僚のシンハに応えると、彼は口元を覆っていた布を外して呆れたような視線をノアに向けた。
「そうじゃなくて。来月の試験が無事終わればお前も医者だろ。わざわざ危険を冒してまで山に行くことねーよ」
「エリスが行くなら僕も行く。何かあってからじゃ遅い。あとその姿局長に見られたら、怒られるよ」
 煎じた分は薬瓶に全て均等に分けた。あとは粗熱を取って蓋をし、裏の冷蔵倉庫に入れるだけで今日の仕事は終わる。
「あのなぁ……。オレは貴重な人材を山で失いたくないんだよ。エリスなら一人で熊くらい殺れるだろ。たぶん。折角この村にも医者が常駐するようになるんだから、ノアも自覚を……」
「無駄だよ。シンハ」

 仕事を続けるノアと、対照的に完全に手が止まってしまったシンハの後ろから苦笑が聞こえた。ノアとシンハ、二人が振り返った先で、無駄だと言い切った男はにっこりと微笑む。
「もう終わったかい? 良かったらどちらか、ドニ先生の方手伝ってきて欲しいんだけど」
「ええ……局長行ってくださいよ。オレあの爺さん苦手なんで。こき使うから」
「僕、行きましょうか? これ運んだら終わりますし」
 そう言うとノアは顔を上げ、局長のラングロワを見た。

「あの……?」
 彼は呆けたように口を開けている。こんな風にノアと目が合うとラングロワの口は毎回、蝶番が壊れた門扉のようになってしまう。

 ノアは長いまつ毛に縁どられた、澄んだ青い瞳を困ったように細めた。そのまま淡い金の髪を揺らし、僅かに首を捻る。目の前のラングロワは弾かれたように仰け反り、すぐにシンハの肩を掴んだ。
「良いっ! 今日も素材が良い‼ 最高だと思わないかシンハ。雪のように白い肌、輝くばかりの金の髪、非の打ち所のない圧倒的力を持つ顔‼」

「局長、気持ち悪いです。ノアが怯えてるじゃないですか」
「美しさこそ力! 力の時代だよシンハ! ノア君が着ればどんなにくたびれたシャツも、ありふれたズボンも最高級品になるんだよ⁈」
「いえ、いくら何でもなりませんって」
 ラングロワはシンハの首が取れてしまうのではないかと思えるほどに、肩を掴み揺する。そしてひとしきり揺すると、今度は眼鏡を外して目元を拭い出した。

 彼は今日も、人よりも感情表現が豊か……なようだ。
 ノアは曖昧に微笑むと立ち上がった。
「あの。僕、薬を倉庫に置いてそのまま行きますね。あと、良かったらドニ先生の所から直帰したいんですけど、良いですか?」
「あ、ああ。構わない………良い。私のことは気にせず行ってくれ」
「ありがとうございます」
「ノア、お疲れ。試験勉強頑張れよー」
「ありがとう。また来週シンハ」

 ノアはシンハに手を振った後、ラングロワに会釈し部屋を出た。
 今日はノアとエリスの合同誕生日だ。そしてエリスと交際を始めて一年の記念日でもある。家で彼女と誕生日を祝う約束もしている。
 ドニには事情を話し、午後六時には返してもらうつもりだ。彼が普段仕事をする仮治療室の近くにはエリスの勤める薬局がある。まだ帰ってない可能性もあるし、立ち寄ってまだエリスが居たら一緒に帰っても良い。
 自然と頬が緩む。廊下を歩く速度もいつもより速くなってしまう。

「喜んで……くれると良いな」
 サラに頼んで、こっそりと測れて良かった。隣に引っ越したノアが朝起こしに来たことにエリスは驚いていたが、もしかしたら今日はもっと驚くかもしれない。
 驚いて、そして笑って受け取ってくれたら。もうノアは死んでも良い。いや、実際死んでしまったら困るけれど。それくらい嬉しいということだ。
 断られる恐怖がないわけではない。しかしノアとエリスはもう恋人同士だ。手だって繋いだし、休日はいつも一緒に居る。毎晩夕食も一緒に取っている。口付けだって数えきれないほどしたし、深いキスも三か月前に許してもらった。

 そしてもうノアは今日で十八だ。成人したのだ。昨日までは出来なかったことも、今なら出来る。やっと彼女に指輪を渡しても咎められない年齢になった。

「ああ……後ろ姿も美しいな……」
 ノアの背中が見えなくなってからも、ラングロワはしばらく扉の方を眺めていた。シンハはノアの言葉を思い出す。確かエリスに誤解されたら困るので距離を置きたいとか置きたくないとか。そんな事を言っていたような気がする。
 少なくとも今のところ彼女には微塵も気にされてないようだが、この様子だと変な噂がたたないとも言いきれない。下手をするとシンハまで巻き込まれそうだ。

「局長、誰と恋愛するのも結婚するのもヤるのも自由ですけど、ノアに変なことするのは辞めてくださいよ」
「何を言ってるんだ! ノア君は皆の憧れ! いわば全員の恋人なのだよ?」
「何言ってるんだはこっちのセリフですから。あとなんでオレだけ呼び捨てなんです?」
 じろりとラングロワを睨んだが、効いた様子はない。
 仕方なく、尚もノアについて語る彼に見切りをつけ、シンハは溜息を吐いた。

 このいい加減な男も変人だが、ノアも相当変わっている。
 エリスは確かに見られないほどの不細工ではない。ノアの前では口が裂けても言えないが、そこそこ可愛らしい方だとは思う。やや大雑把な性格だが、優しい性格で人当たりも良い。
 しかしノアの相手となると見劣ると言わざるを得ない。ノアならばもっといい女を選び放題だと思うのだが。
 もっと淑やかで美人で、スタイルも良くて。ノアの容姿ならば金持ちや貴族でもひくてあまただろう。
 彼女とノアは三年ほど前まで一緒に暮らしていたという。一緒に暮らせば美人でも、聖人でも、悪いところも見えてしまう。そんな姉や妹みたいな相手、しかもそれを凌駕するほどの絶世の美女でもない女、シンハならば考えられない。

「わっかんねぇなー。それこそいい女がわかんなくなる呪いでもかかってんじゃ……」
「シンハのことかい? また騙されたって聞いたよ?」
「うっるせえ!」
 シンハはラングロワの右足首を蹴った。そのままラングロワの身体が傾き。
「あっ! やっべ‼」
 薬瓶が大きな音を立て地面が緑色に染まる。シンハが後悔した時には、既に取り返しのつかない所まで事態が悪化した後だった。

 ∞∞∞

「エリス。寒かった、ね」
 ノアの家に入り、扉を閉めたエリスにノアは一言そう告げた。
 その言葉に答える前に、繋いでいた手を引かれる。ふわりと彼の柔らかい匂いがして。あっという間にエリスは扉とノアの間に捕らわれる。
「お疲れ様」
 ノアは真っ赤になってしまったエリスの頬に触れ、もう片方の手で腰を引き寄せた。青い瞳の色に反し眼差しは熱い。真っ白な肌の彼だが、今その頬はエリスのものと同じ朱に染まっている。
「の、ノアもお疲れ様。寒いから、中にね? 入ろうか!」
 近づくノアの顔を両手で押し返す。不服そうな了承の声が彼から漏れて、腰に回った腕が解かれた。
「今温かいお茶入れるよ。座って待ってて」
 居間の暖炉に火を入れ、ノアは台所へと向かう。エリスは言われた通り上着を脱ぐと、暖炉の前、定位置であるソファーに座った。

 まだ心臓がばくばくと早鐘を打っている。今日もだが、昔からノアは距離が近かった。それは一緒に育った家族と言う関係性だけではなく、物理的にもそうであった。
 しかし彼はきっと誰にでもそうなのだと、エリスは思い込んでいた。また、そう思っていたかったのかもしれない。
 家族や姉、或いは妹のようなエリスが、ノアに特別な感情を抱いていると知ったら。きっと気持ち悪いと思われる。そこまでいかなくとも、距離を置かれてしまうはずだ。
 そう思ったからこそ、想いを伝えられなかったし、ノアが学校の卒業と薬局への就職を機に家を出ると告げた時は正直ホッとした。
 距離を置けばきっと家族や友人として、彼の幸せを祈れると思ったから。端から自分と特別な関係になりたいとは願ってはいなかった。願ってはいけないとさえ思っていた。

 なのに。

 エリスの思惑を知ってか知らずか、ノアは少しも離れなかった。引っ越した意味があったのかと疑うくらい、毎日のようにエリスとサラの家に来ては夕飯を一緒に食べて帰っていく。
 休日は手土産を持って必ず会いに来る。食卓の席は幼い頃から変わらないエリスの左隣。そこそこ大きなテーブルなのに、毎回三人分の食器は中央に寄せられている。
 しかもノアは引っ越しても、甲斐甲斐しくエリスの世話をすることをやめなかった。食事を作ったり、洗濯をしたり。自分の家があり、仕事をしているというのにエリスの家の家事をすすんで請け負うことを辞めない。
 大丈夫だからと断っても、心配だから着いてきては駄目かと、手伝っては迷惑かと寂しそうに聞いてくる。無論、そこまで言われては強く言うことも出来ない。ノアが傍にいては駄目な明確な理由もない。 
 彼は決して断行はしない。しかし薬草採取の時も、買い物の時も、足を痛めたキハおばさんを手伝いに行った時も、必ずエリスに聞き許可を得られればついてくる。
 友達と遊びに行く時はさすがにノアも申し出なかったが、帰宅すると顔を明るくさせたノアと、疲れた顔のサラが待っていた。
 その日は何故か散々サラに小言を言われて。何となくエリスは気まずかった。
 まさかノアが自分なんかを好きな訳がない。きっと余程心配性か、或いはエリスが心配をかけさせてしまう人間か、その両方なのだろうと思いたかった。平凡な自分は身の程をわきまえるべきだ。勘違いしないためにも、周りに誤解されないためにも、距離を置こうとノアを避けた末。ノアとサラ、それぞれを悩まし、大変な迷惑をかけることとなった。

 結局、鈍い自分にもわかるくらい、ノアはエリスにはっきりと好意を伝えてきた。
 先程と同じように壁や扉との間に閉じ込められ、額がついてしまいそうな程近づかれて「好きだ」と伝えられれば、その『好き』が姉弟のように思っている友人に対する『好き』ではないことを認めない訳にはいかない。切なげに揺れる瞳は真剣で。エリスは自分の想いから逃げることも、ノアの好意から目を背けることも、無理だと悟った。

 ノアが一体自分のどこを好きになったのか、未だにエリスにはわからない。ミニアム村最大の謎だろう。

「エリス、お茶入ったけど……どうしたの?」
 上から気遣うようなノアの柔らかい声が聞こえ、エリスは我に返った。
「ううん。なんでもない」
 ぶんぶんと首を横に振り、差し出されたカップを受け取る。サラにも言われているが、考え事をしだすとエリスは表情が険しくなってしまうらしい。
 ノアが望んでくれていることは真実だ。それにお互いどう想っているのかが大切なのだ。
 悩んで答えが出るならばまだしも、それでノアやサラに心配をかけてしまうのは良くないと思い直す。
「そう……? お茶、熱いから気を付けて」
 不安げに揺れた瞳のままノアは左隣に腰を下ろした。

 湯気の出るカップから、ふわりと林檎のような甘い匂いがする。エリスの大好きなカモミールティーだ。口を付けるとほんのりと甘い。エリスの好みを知って蜂蜜を入れてくれたのだ。
「熱っ……! でも美味しいね、エリス」
「ただ舌は痛いや」と続けながらもノアは嬉しそうに瞳を細める。
 エリスもつられて「毎回慌て過ぎだよ」と笑った。
「エリス、また取りに行きたいね」
「うん。でもしばらくは季節的に難しいと思うなぁ」
「じゃあ春になったら、一緒に行こう?」
 そう言ってノアはエリスの手に自分のものを重ねる。眉をはの字にさせ微笑むと、エリスの頬に軽く口付けた。
「……良い?」
 ノアが甘えるように耳元で囁く。それが春の話をしているのではないことは、もうわかっていた。
 こくりと頷けば彼は「ありがとう」と顔をほころばせる。エリスもまた同じ言葉を返したかったが、今からすることへの羞恥でうまくそれは表せなかった。
「エリス……」
 焦がれるように名前を呼ばれ、ぎゅっと胸が締め付けられる。ノアの端整なつくりの顔が近付き、唇が重なった。大切なものを扱う時のように、そっと、何度もそれは繰り返される。
「んっ……ノア、」
「っエリス、……っん……」
 腰に回った左手も、肩を抱く右手も、病弱なノアからは考えられない程力強く、熱い。
 唇が離れた時に見える彼の瞳は、今も胸元にあるペンダントと同じ澄んだ青色だ。しかし涼し気な色の双眸も、今は甘く熱を孕んでいる。
「っ……もっとしたいけど……それはお祝いが終わったら」
 そう呟いたノアの顔は林檎のように赤い。エリスの頬もまた同じ色に染まっていた。
「うん……お誕生日おめでとう。ノア」
「ありがとう。エリスも十八歳おめでとう。生まれてきてくれて、ありがとう」
 見つめ合い、笑い合える人が居て。それがノアであることが堪らなく嬉しい。出来ることなら、ノアとずっと一緒に居たい。
 そう願ってしまうのは欲張りなのだろうか。

∞∞∞

 台所からは食器の触れ合う音が聞こえる。一緒に作った夕飯を食べ終え、後片付けはノアがしていた。
 今日は厳密に言うとノアの誕生日であった。エリスと大変近いために、物心つく頃から同じ日に祝うのが慣行になっている。
 今は亡き義母ハンナと義父のブルーノは、エリスの両親の知人だったらしい。詳しいことは知らないが、ノアもエリスと同じような境遇だと聞いた。
 決して血は繋がっていないが、皆エリスの大切な家族で。それは今もほとんど変わらない。変わったのは姉弟のように一緒に育ったノアとの関係だけだ。

 鞄から濃紺の小箱を取り出す。中に入っているのは小さな深紅のピアス。ノアへ今晩お祝いとして贈る予定のものだ。少しでも喜んでもらえると良いが、今になってエリスは品物の選択が正しかったか不安になっていた。
 エリス達の住む地域では成人の儀として、左耳にピアスの穴をあける風習がある。今では形だけのものになりつつあるが、先日エリスとノアもお互いの左耳に穴をあけた。
 しかし不器用なエリスは手を滑らし、結局ノアの耳朶にあくはずだった穴は今、だいぶ淵に近いところにある。痛みを伴う分、エリスからやり直すとは言い出せず。つまりプレゼントはそのお詫びを兼ねての品でもあった。
 ただ冷静に考えると間違って開けてしまった穴など早く塞がった方が良いに決まっている。何もつけなければ穴は自然と無くなってしまうらしいし、それならばあえてピアスにしなくても良かったのではないだろうか。
 しかもピアスの色は赤なのである。艶やかな赤ではなく、落ち着いた感じの赤ではあるが、それでもやはり男性が付けていれば目立つかもしれない。
 こんなことならもっと手袋や靴下、筆記用具などノアの生活に役に立つ別の物の方が良かったのではないだろうか。
(うんでも、あまり気に入らないようだったらノアも身に付けないだろうし……ね)

 仕方ない、なんとかなると自分に言い聞かせる。
「エリスお待たせ。あ、お茶入れてくれてたんだ。ありがとう」
「あっ! う、うん!」
 後ろから突如声を掛けられ、エリスは慌てて小箱を机の下に隠した。
 慌てたその様子にノアは少しだけ不思議そうに首を傾げ、隣へと座る。じっとこちらを見つめられ、エリスは羞恥に瞳を伏せた。
「あの、ノア……これ」

 緊張で手を震わせながら、エリスは件の小箱をノアの前に置く。
 長年誕生日を祝って来たが、今年は去年までとは違う。交際を始めてから、しかもノアと二人で祝う誕生日はエリスにとって初めてだ。
「……っ」
 差し出されたものを見たノアが、僅かに息を呑む音が聞こえた。
「……開けてもいい?」
 エリスはノアの方を見ずにこくりと頷いた。こんなに緊張して言葉が出なくなってしまうならば、プレゼントだけでなく手紙も付けるべきだったかもしれない。
 ガサガサと紙同士がこすれる音が部屋に響き、続いて箱を開ける音がする。エリスは未だノアの方を真っ直ぐに見ることが出来ず、俯いたままぎゅっと目を瞑った。エリスにとって長い長い沈黙が流れた。
「……ノア?」
 いくらなんでも、あまりにも静かだ。視界に入っていないとはいえ、隣で微塵も動く気配のないノアに、不安になったエリスは顔を上げる。

 瞬間、飛びつくように勢いよく抱きつかれ、エリスは後ろにひっくり返りそうになった。
「エリス! ありがとう!」
「え、え……⁈ ノア⁈」
 ぎゅうぎゅうと両腕に力を込められる。ノアの名を呼ぶとハッとしたように彼は腕を緩め「ごめん」と笑った。潤んだ瞳がエリスに近づき、再び抱き締められる。今度は包み込むように優しい抱擁だった。
「大切にする。一生大事にするよ……その、」
 抱擁を解き、ノアはエリスを真っ直ぐに見つめる。真剣な瞳の色に、僅かに強張った表情に、朱に染まった頬に、エリスの心音はおのずと速くなる。
「来月の……最終試験が無事に終われば、医師免許を貰える」
 噛み締めるようにゆっくりと告げられた未来の話に、まさかとエリスの心臓が跳ねた。
「うん……」
「免許が取れたらドニ先生の下で三年くらいお世話になって……この村に治療院を作ろうと思う」
 その言葉にエリスの胸はあっという間にいっぱいになってしまう。

 ノアはやはり一緒に叶えようとしてくれていたのだ、治療院を村に作りたいというエリスの願いを。
(ノアは覚えててくれたんだ……)
 思えばエリスの取り留めのない夢物語を、初めて真剣に聞いてくれたのはノアだった。一緒に叶えたいとまで彼は言ってくれて。しかし医師免許試験を受けたと聞いた時は、果たして無事受かったとして彼が村に残ってくれるかどうかは自信が無かった。ましてや具体的な期間を定め目指してくれていたなんて。
「僕は医師として。エリスは薬師として……って約束だったと思うんだけど、その……」
「うん……?」

 口ごもるノアにエリスは首を傾げる。
(もしかして一緒に働くのは難しくなった……とか? でもそんな感じでもないような……?)
「ノア……?」
「まだ全然……希望の段階でこんな、早すぎるとはわかってる……けど」
 そう言ってノアは、エリスの前に自らのポケットから出したそれを置いた。コトリと音を立てて置かれた濃紺色の小箱には見覚えがある。それは彼に贈ったピアスが入っていたものと同じ、村で一軒しかない小さな宝石店のものだ。
 自分の中に浮かんだある一つの推測に、すぐさまエリス自身が否定した。そんな都合の良い夢みたいなこと、あるわけがない。

「僕と結婚してください」
 しかしノアは小箱の蓋を開け、いとも簡単にエリスの不安や諦めの混じった疑いを吹き飛ばしてしまう。中にはシンプルな銀白色のリングが、部屋の灯に照らされ煌めいていた。

「愛しています……エリスとの約束を果たした後も、僕は一番近くで君を支えたい……」
 甘い眼差しと真剣な声音に胸が締め付けられる。既にエリスの中では驚きよりも感動の方が大きくなっていた。
 こみ上げる想いに、堪え切れなくなった涙に、エリスは顔を覆ってしまう。答えはもうずっと前から決まっている。ただ、嬉しくて出るのは涙ばかりだ。

「ノアっ……私、で……良いの?」
 ようやく出た言葉にノアは困ったように微笑む。頷くことはせずに、エリスの手を握った。
「で、じゃなくてエリスが良い。エリスじゃなきゃ嫌だ。それは……」
 ノアの顔が近付き、エリスの耳元を吐息が擽る。
「君にもそう思って欲しい。……本当は独り占めしたいし、して欲しいけど……」

 低く掠れたノアの声は泣いているのではないかと思えるほどに、儚く今にも消え入りそうだった。
「ノア……」
 無意識のうちに伸ばしていたエリスの手が彼に届く前に、ノアはぱっと顔を上げる。そこに悲しみの色は微塵も見えない。あるのは曇りない満面の笑みだ。

「エリス、結婚しよう」
 ノアは柔らかな心地良い声で、はっきりとエリスに告げた。
「うん。ノア、大好き……」
「僕も。エリス……エリス……」
 零れ落ちた涙を掬うように舐められる。エリスを見つめるノアの瞳は潤んでいた。彼もエリスと同じように泣いてしまったのだと知り、胸の奥が震える。湧き上がるこの感情を上手く表現することは出来ない。ただ嬉しくて幸せで。どうしようもなく愛しくて。胸が少しだけ苦しい。

 見つめ合って、二人はどちらからともなく唇を重ねた。下唇を舐められ、身体の芯が甘く痺れる。
 柔らかさを確かめるように何度も何度も。角度を変えてノアはエリスに口付けた。唇を舐めていた舌は薄く開いた口の間からエリスの中へと入っていく。数か月前、初めてした時は戸惑うように遠慮がちだったというのに、彼はすっかりエリスの咥内を覚えてしまったのだろうか。上顎を温かな舌でひとしきり撫でると、迷わずにエリスの舌に絡めてくる。甘えられているのか、貪られているのか、わからなくなる。
「んっ、ん……」
「っは……エリス、あの……」
 求めるように深く合わさっていたノアのそれが離され、熱っぽい瞳がエリスを捕らえた。どちらのものかわからない唾液で濡れた唇から、焦がれるような切なげな声が零れる。

「君のこと……貰いたい……本当は式まで待たないといけないことも、知ってる……けれど、エリスの全てを今夜僕に……良い?」
 白磁の肌を項まで真っ赤に染め、ノアはエリスを覗き込むように見上げた。
 たとえ小さな村の豊かでない家の者であっても、淑女として結婚まで貞操は守らなくてはならない。神に誓って妻は夫へ純潔を捧げなければならない。そんな風にエリスはサラに教えられてきた。

 しかしそんな風に乞うように望まれれば、エリスも揺らいでしまう。ノアはいずれ近いうちに夫となる相手だ。エリスはノアを愛している。そしてノアもまたエリスを一番に望んでくれている。多少時期が早まったとしても何の問題もない。
(……って! 駄目! もし今妊娠してしまったらノアがサラ姉の言うような『未婚の女性に手を出した最低男』になるじゃない! そんな人じゃないことはみんな知ってはいるだろうけれど、噂になったらノアも生まれてくる子も傷つくはず……)

「ノ、ノア‼」
「……エリス?」
 鼻先が触れてしまうほど近づいていたノアを押し返し、エリスは真っ赤になりながら叫んだ。
 呆気にとられたように驚いたノアの顔が、すぐさま曇る。眉は下げ、彼は今にも泣きだしそうな顔でエリスを見つめた。
「ちっ、違うの! ノア! そういう意味じゃなくて! すごく嬉しいし今すぐにでもノアと……でもそのやっぱり……あっ、あっ……あか……が」

 今すぐにでもノアと何をしたいのかも、そうする事でどんな事が予想されてしまうかも、きちんと話したい気持ちに反し言葉は全く出てくれない。何度も噛んでしまい、自分でも何を言っているのかわからなくなる。羞恥で顔は燃えるように熱く、今にも火を噴いてしまいそうだった。

「っ……大丈夫だよ。エリス、僕は何処に勤めてる?」
 エリスの様子にノアはふっと笑い、悪戯っぽく首を傾げる。問いの意味がわからず、エリスはそのまま素直に答えた。
「薬局……? でしょう?」
「うん。エリスと同じ薬師だからね。ドニ先生ともよく職場で会う」
「え、ええ……」

 尚も言っていることがわからないエリスにノアは苦笑する。
「だから……事情を話して、処方してもらった」
 耳元で囁くように伝えられた言葉に、エリスはようやくノアの言わんとすることがわかった。

「ノっ……ノア‼」
「はは……先生説得するの大変だった」
 顔を赤らめ微笑むノアをエリスは涙目で睨む。ノアとの交際は周知の事実だ。噂話がそれ程好きな方ではないドニでも、使う相手を予想することは容易い。
 次回、同じ薬師として仕事でドニに会った時、どんな顔をしろと言うのか。
「なんっ……ノアは何でいつもそういうことを!」
「え、でも……あった方が良いと思って」
「そうだけど! でも!」
「じゃあ……」

 ノアはそう言うと立ち上がり、エリスをひょいと抱え上げる。そのまま幼子を抱くようにエリスを抱き締め、机の上の小箱も持って歩き始めた。
「わっ! ノア⁈ 危ないって! 落ちるから!」
「大丈夫だよ。僕にだってエリスを抱えることくらい出来る」
 瞬く間にエリスはノアによってベッドへと運ばれ、そっと柔らかな敷布の上へと下ろされる。覆いかぶさるように彼もまたベッドの上へと乗った。

「エリス、教会、来月の二週目なら大丈夫だって」
「教会……」
 エリスの頬に熱が集まり、甘く胸が締め付けられる。ノアはちゅっと音を立てて口付けると、エリスの左手を握った。
「その時には僕とお揃いのを贈らせて欲しい。今は未だ……予め、だけど……」
 小箱から取り出された銀白色の輪がエリスの薬指へとはまる。まるで最初からそこに嵌るべきものだったかのように、リングはぴったりだ。
「エリス……その……」
 俯き彷徨う瞳と真っ赤な彼の耳が、何を聞いているのか如実に物語っていた。
「ノア……」
 思い切ってエリスはノアの頬に口付ける。見上げられた熱い眼差しがエリスを捕らえて。
 真夜中を映す湖の水面のような、青の瞳が揺らめいた。