missing tragedy

cock-and-bull……¡

それぞれの苦悩 ①

 「いやぁ~! しかし助かったわ! ほれ! 母ちゃんにこき使われることが出来るようになった」
 がっはっはと笑いながら肩を回す大男に、エリスもつられて笑う。

 ストーブの薪から火の粉が跳ね、灰の海へと落ちた。窓の外の畑にはまだ薄茶の雪がところどころに残っている。薄紫色の蕾は大きく巣作りを始める小鳥もちらほらと見かけられるようになった。
「本当に良かったです。ジョニーさん。あと少しの間だけ薬飲んでくださいね。この調子ならあと一月もすれば要らなくなると思いますから。もう少しですよ」
「あと一月か! なげぇなぁ!」
 ジョニーは再び大きな口を開け白い歯を見せる。半年前、背中を丸め真っ青な顔でここに来た人物と同一人物とは思えない。
「しっかし、医者が村にないのは困んなぁ。ドニ先生がいなくなってからぁ医者ぁわざわざ隣のフィグまで出ねぇといねぇし。一日かかんしなぁ」
「たしかにちょっと遠いですよね」
 その言葉にエリスは俯いた。

 サラに『医者になる』と宣言してから二年の歳月が過ぎていた。
 結局、エリスは医師の免許を取ることが叶わなかったのだ。

 サラに頼み込みドニに話を通して貰い、ドニの下で働くことになったまでは良かったのだろう。しかし、医師免許試験の独学はエリスが考えていたものよりも遥かに厳しいものであった。
 特別な学校に在籍していない女性が医師になるのは厳しいだろう――当初ドニにそう言われ止められたのが優しさだったことに気付いたのは、五回目の医師免許試験に落ちた時だった。高齢のドニの下ではこれ以上働けず、かといって学ぶ為にエリスが村を出れば村の薬師は一人になってしまう。
 王都に行かずに、村で働きながら医師になるのはエリスには無理なのだと、挫折を味わった瞬間であった。

 高齢の為、ドニが村に来れなくなってからのミニアム村の医療は脆弱と言わざるを得ない。
 二年前二店舗だった薬局はさらにその数を減らし、今はエリスの勤めるここしか無い。
 病人が隣の宿場町フィグへと行くのは容易ではなく、医者を呼ぶにしても、往復丸二日の交通費と宿泊費、治療費諸々を簡単に出せる家はミニアムにそう多くなかった。

「ノアが居なくならなければなぁ……今頃医者もすぐに行け……おっとすまん」
「良いんですよ。気にしないで下さい」
 何気なく漏れた台詞にエリスの胸が痛む。
 ノアが居なくなってから三年。もうすぐ三年半を迎える。エリスは二十一になった。
 巷では前国王の長男であるカルロが次期王となることがそろそろ発表されるのでは、と噂されている。
 他にも隣国リゾルトとの間の協定の為にも第三王子ノアとリゾルトの王女との縁談が進んでいるとの噂や、王家と側近のオルコット家、フェルザー家、三者の関係が後継争いにより思わしくなくなっているとの噂。それに関し各々が暗殺者を雇っているとの噂など。

 しかしミニアム村のノアが第三王子のノアだと疑う者は誰一人いない。
 そもそも病弱故、なかなか国民の前に姿を現さない第三王子は噂になることが少なかった。
(ノアは元気なのかな……。もちろん元気だろうけど、王子なんて激務だもの。無理してない?)
 胸の奥がずきりと痛む。
 まだだ。まだ、エリスはノアのことを引きずっている。過去の事なのに、新たにそれぞれ歩んでいこうと決めたのに、エリスだけ割り切れない。
 彼は病と闘いながらも王子として職務を果たし、国の発展の為に結婚までしようとしている。
 他方、エリスはどうであろうか。いくら夢を叶えるためとは言え、これからしようとしている事を彼が知ったら、眉を顰められてしまうかもしれない。
 エリスは自分の夢の為に周りを騙すのだ。村の皆のためにもなる事だと、免罪符のような呪いの言葉を自らに言い聞かせ、目を逸らしている。

「オラが言い出したことだが、まぁノアの事ァ忘れて幸せになれよ。しっかしエリスも伯爵夫人様になるたぁ大出世だよなぁ。どこで見つけたんだ?」
「はい……?」
 一変、にやにやと含み笑いをしだすジョニーにエリスは首を傾げる。
「おめぇお貴族様と結婚するらしいじゃねぇか」
「え……? ああ、ベークマン様のことね」
 思い当たる節はベークマンしかいない。彼は貴族ではないが、ジョニーにとっては資産家も貴族も同じ類の人間なのだろう。
「んな名前だったけなぁ? まあいいや、湖の近くに家さ欲しいって手紙が来てよぉ。同居人の名前見たらおめぇさんじゃねぇか。びっくらすらぁ」
 その言葉にエリスは目を瞬かせる。

(そんなこと言っていたかしら? 契約では私とは同居しないはずだけど……彼女さんと新しく住むところ……? それともカモフラージュの為に私の名前を借りたのかしら?)
「ごめんなさい、びっくりさせてしまって」
「いやぁ。めでてぇことだ!」

 ジョニーはがははと大袈裟に肩を揺らし笑うと「じゃあな! お幸せに!」と店の扉を押した。
 ガランガランと扉に取り付けられたベルが鳴る。エリスは苦笑いを隠しきれないまま、その背に頭を下げた。
 エリスが近くフェリクス・ベークマンと結婚することについてはまだ公表していない。
 そしてまた、その結婚の真実についてもエリスは墓場まで持っていくつもりだ。

「やあ、エリス」
 不意に、エリスの頭上から青年の声がした。
「いらっしゃいませ。ベークマン様、今日は……?」
 ジョニーと入れ違いで入ってきたのだろう彼は件のフェリクスであった。
 彼はエリスの反応に眉を下げると大袈裟に肩を落とす。
 明るい茶の髪に同じように色素の薄い瞳、薄い唇。身長はエリスよりも頭一つ半高い。入念にセットされた髪型と流行を取り入れた服装。色男と村で噂されるのも頷ける。

「やだなぁ。妻になる人に会いに来ては駄目なのかい?」
「いえ……でもまだ契約日になってないはずですけど……?」
「愛しい君に会いたくて会いに来たんだ、と言ったら?」
 エリスの手を取り微笑むフェリクスにエリスは複雑な表情を隠せない。
 彼には歌姫の恋人がいる。エリスが彼と籍を入れるのも、二人の関係を隠す為。早く結婚しろと口うるさい親兄弟を言いくるめたいフェリクスと、治療院を開くための資金が欲しかったエリスの利害が一致した結果だ。
 そこには愛情や恋情などはないし、この先も必要ない。一切お互いの生活には口出ししない、問題が起きない限り関わらない。戸籍上だけの結婚。
 周りを騙したとしても、結果的に愛する二人の仲を保てるのなら。治療院が出来たことで村の皆が喜ぶならば。そんな風に目を逸らそうとしていたエリスにとって、フェリクスの冗談とも判断のつかない行動は困ってしまう。
(出会ってから半年たつけれど、この人の考えている事がイマイチわからないわ。ここは私たち以外誰も居ないし、必要ないと思うのだけど)

 やはりまだ、フェリクスについては把握や理解がしきれない部分が多い。
「あの……? 他に何か用事があるというわけでは?」
 訝し気な顔でエリスが言葉を続けると、彼は肩をすくめた。真意の読めなかった笑みは呆れたような嘲笑混じりのものに変わり、やれやれとばかりに深く溜息までつかれてしまう。
「なびかないね君は。あまり眉間にしわを寄せていると折角の可愛い顔が台無しだよ。……まあいい、これを渡しに来たんだ」
 フェリクスは胸ポケットから三枚の用紙と黄色の布が貼られた小箱を取り出した。

 その形には見覚えがある。周りに貼られた布の材質も、その中身の金銭的価値も、意味さえも違うけれど。あの時彼から――ノアから――贈られたものと同じ形状(もの)だ。
 真っ赤に染まる頬と澄んだ泉のような青の瞳は今も鮮やかに記憶に残る。柔らかな声も、蕩けるような熱い眼差しも、包み込む温かさも。三年も経つというのに色褪せることは無い。
「指輪と土地と建物の権利書。あと私との誓約書だよ。読んでサインして欲しい」
 その言葉にエリスは我に返った。こんなことを思い出したところで、空しくなるだけだ。
 エリスは慌てて笑顔を作り、差し出されたものを受け取った。
「わかりました。家に帰って読ませていただきます。サインしたものは郵送でお送りすれば良いですか?」
「いや、今この場で欲しい。悪いがすぐに目を通してくれ」
「……わかりました」

 契約を開始するのは一週間後だと言うのに、フェリクスは意外とせっかちなのかもしれない。
 エリスは受付にあったペンを取り誓約書にサインをした。エリス・オルブライト――あと何回この名前をサインする機会があるだろう。
「指輪は必要ないとも思ったが、新妻がしてないのもおかしいだろう? だから用意させてもらった。良いアピールにもなるからしておいて欲しい」
「そうですね。わざわざすみません。人前ではなるべく付けるようにします」
「ありがとう。良かったら今してくれないか?」
 その言葉にエリスは首を傾げる。要はサイズがあっているか確かめたいと言う事だろうか。
「はい……? わかりました」
 エリスは目の前に置かれた小箱に手を伸ばした。しかしそれはフェリクスによって阻まれてしまう。伸ばした腕を掴まれたのだ。
「私がしよう。その方が良い」
 そう言い口角を上げたフェリクスはエリスの両手を取り指を撫でる。ぞわりと背中に悪寒が走ったことは口が裂けても言えなかった。彼の言葉の真意はわからないが、良かれと思ってしているのだろうから。
「は、はあ……」
「女性はこういうの好きだろう? 良かった。ぴったりなようだよ、ほら」
 その言葉にエリスは何も答えられない。ただ不意に甦った記憶に胸が鈍く痛む。
 彼がくれた指輪もまたエリスの指にピッタリであった。
 朱に染った頬も、贈ったピアスと同じ色の耳も、エリスを望んでやまない深い青の瞳も、満たされるような幸せな気持ちも。昨日の事のように思い出せる。何一つ色褪せることなくエリスの記憶に残っている。

(馬鹿ね……馬鹿だわ。大馬鹿者よ)
 フェリクスの腕がエリスの腰に回り、顎を掴まれた。されるがままにフェリクスを見上げれば、抜け目のない薄茶の瞳に射抜かれる。
「どうだい? 今夜」
「冗談は人を楽しい気分にさせるために言うものですよ。ベークマン様」

 胸を強く押し、エリスは拒絶の意を示した。
 ほんの一瞬だけ、彼の腕をとり投げ飛ばそうと思ってしまった事は許してほしい。流石に薬局で騒ぎになっては良くないし、彼とは長く付き合っていかなければいけない。良好な関係を自らの手で壊すようなことはエリスもしたくない。
 張り倒したい気持ちをぐっと我慢しエリスは俯いた。
「冷たい嫁さんだ」
「熱いのは恋人の方とだけで良いはずです」
「それもそうだな」
 それ以上、彼がエリスに迫ることはなかった。ただ冷たい視線とぼそりと聞こえた「やはりつまらない女だ」という言葉は、エリスの心にとげのように残る。
 そんなことは嫌という程知っている。自分が面白味のない人間だということも、可愛げのあることが言えないような女だということも。

「じゃあ、また連絡するよ」
 フェリクスは僅かに口角を上げると、薬局の戸を押し出て行った。
 エリスはその背が見えなくなると、止めていた息をすべて吐き出すかの如く、大きなため息を吐く。崩れ落ちるように冷たい木の椅子に座った。
「……疲れたわ」

 誰に言うでもなく独りごちる。胸の奥の不快感は未だぬぐえない。
 長年の夢がかなうと言うのに、エリスの心は晴れない。順調に進んでいるはずなのに、どこかで全て壊れてしまえば良いのにと願う自分がいる。

(私、昔はもっと純粋な気持ちで治療院を作りたかったはずなのに)
 膝の上であかぎれた手を握った。その手の中にあるのは空虚か取り残された見栄か。
 結局のところ、己の罪悪感と無力感を払拭するためにエリスは治療院を作りたいのかもしれない。彼に恥じないように、少しでも自分も前を進んでいるのだと、ただそれだけを証明したくて。

 窓から見える空には雲一つない。それでも、その空が何色なのかエリスが考えることも感じることも今はない。
(今日は久しぶりにあそこに行こう。雪もだいぶ解けてきたし。そうしないと……)
 遠くで午後三時の時を告げる鐘の音が聞こえた。エリスは本日の営業が終わったことを報せる旨の木札に手を伸ばした。

 ∞∞∞

 フェリクスと別れ、エリスはあの裏山の洞窟へと向かっていた。
 雪解け水でぬかるんだ獣道を一歩一歩踏みしめて進んでいく。西の空は茜色に染まり、遠くでは梟が物悲し気な声で鳴き始めていた。
 村の者はとある噂から近づこうとしない。しかし一人静かに考えをまとめたい時などは、かえってそれが有難いとも言えた。
 石が暗闇で光る様は美しく、それはあの頃と変わらない。少女時代ノアと二人で過ごしたあの時と全くと言ってよいほど。
「まだ早い、かな」
 エリスが目的の場所につく頃には、天(そら)はその色を茜色から紺青色へ変えていた。
 用意していたランプに灯をともせば、その光は薄暗い洞窟内を朧げに映し出す。目的地まではもうすぐだ。
 ひんやりとした湿った空気が肌を包む。久しい感覚にエリスはほっと息を吐く。足取りが心なしか軽いのは、下り坂だからという理由だけではないはずだ。
 
 外のあかりが届かなくなってから十数分。広かった道幅も今は大人二人が横に並べば塞がってしまう。ランプの灯に照らされた乳白色の岩壁も徐々に減り、次第に紫紺色のそれが多くなってきた。
 エリスの靴先が地面の小石を蹴る。 
 転がったそれが奥の何かとぶつかり、ぱちりと弾けた。
「良かった……」
 洞窟の最深部、目の前に広がる光景にエリスは感嘆と安堵の溜息を吐く。 
 そこはまるで夜空の神々を祭る神殿のようであった。
 狭くでこぼこしていた道は開け、広場のような平らな空間の中央には岩が三つ並んでいる。ドーム状の天井は村一番の大木の枝の先よりも高い為、洞窟内だというのに窮屈さは感じられない。
 三方を囲む岩壁には一面に無数の宝石が――否、『魔鉱石』と二人で名付けた石が――煌めいていた。
 赤、黄、橙、青、緑、紫。一つ一つの光はおそらく手元を弱く照らす程度だ。しかし気圧されるほどの数がそれをこの世のものとは思えないような神秘的な世界へと変えている。

 永遠と一瞬が、儚さと強かさが。ここには共に生きているみたいだ。記憶に残るあどけない少年が言っていた言葉を思い出す。
(すごく久しぶりに来た気がする。懐かしいな。一時期は毎日のように来てたっけ)
 エリスは中央にある人間の腰程度の高さの岩の一つに近付き、腰を下ろした。
 幼い頃はこの岩も随分大きく感じたものだ。一番高い岩を中心にノアと向かい合って座り、『魔鉱石』を並べれば勝負(ゲーム)の始まりだ。
 昔に倣ってエリスは足元で光る石を拾い、机代わりの岩の上に並べる。
 赤、黄、青、赤、青。揺れる光は今もエリスの前を照らす。

(並べる石の数もノアと決めて。並べる色も残す色もその都度決めて……。今思えば随分といい加減なルールだったわ)
 『魔鉱石』は、特定の色の『魔鉱石』と反応し合い、融合したり分離したり、時には消える。
 例えば赤と黄の石を近づけると引き合い、あっという間に混じって橙の大きな石へと変わるし、緑と紫の石を近づけるとくっついた後、双方とも消えてしまう。それらは偶然ではなく、一通り規則性がある――ことに最初に気が付いたのはノアだ。

 それを利用したのが【石消しゲーム】だった。色ごとに一手の移動範囲を決め、好きな石を交互に動かして、自分の陣地の石が早くなくなった方、または当初に決めた色と個数の石が残った方が勝ちという遊びだ。
 最初に並べる石の数や個数は毎回二人で相談して決める。もうそこからが勝負なのをエリスはノアが居なくなってから知った。

 今は勝負をする相手もいない。不思議なこの石のように、消えてしまったからだ。しかし、ノアと別れてからもエリスは度々洞窟へこの遊びをしに来ていた。
 時々思い出したようにふらりと。今日のように前を向くことに疲れてしまったときには必ず。
(ノアは元気かな。昔から身体が弱かったから無理してないと良いけど。噂のようにリゾルトのお姫様の元へ行くとしても身体は資本なのに)
『僕が病気になったときだけはうつらないように額に。元気な時は唇に。死ぬまで毎日君に口付けていい?』――不意に囁かれた甘い言葉を思い出す。真っ赤に染まった頬と、はにかむような笑顔、それに続く深い口付けまでも。思い出せば馬鹿みたいに胸が苦しくなり、顔が熱くなる。
「まったく、どうかしてるわ」
 それは過去のノアなのか、現在のエリスなのか。おそらく両方だ。
 噂に上がる隣国の姫の髪に似た炎のように紅い石をつまむ。そのまますぐ近くにあった、今は居ない幼馴染みの瞳と似た色の石へ近づけた。
「良いのよエリス。私はミニアムの歴史に残る治療院を建てる。絶対諦めない」
 手元ではじけるような音とともに、二つの間に小さな稲妻が走る。刹那、すぐ後ろから懐かしい声がした。
「エリス、ちゃんと僕にも手伝わせてね」
 記憶よりも少しだけ低くなった柔らかな声に、エリスの肩が揺れる。目を凝らし、洞窟内を見渡す。

(なんで? 今一瞬、ノアの声が。疲れてるのかし……)
 そして振り向いた先、エリスは息を呑む。

「……‼」
 やはり自分は疲れているのだ。そうでなかったら、目の前の光景の説明ができない。

「ただいま、エリス」
そこには三年前と同じ、赤いピアスを左耳に付けたノアが、頬を上気させ立っていた。