missing tragedy

cock-and-bull……¡

それぞれの苦悩 ③

 王城のとある一室で。ナールは目の前の男を一瞥し、およそ二百年ぶりにため息を吐いた。
 あかりを取るための唯一の天窓からは、温かな日差しが差し込んでいる。ひんやりとしたこの牢も、日中は春を感じられるようになった。

 ナールの今の主でもある目の前の男――ノア・マリーツ・エリオット・ルイス・ファン・デル・ライ――との付き合いはまだ三年ほど。八百年近く生きる悪魔であるナールにとっては、ごくごく浅い付き合いである。

 しかしこの男ほど不幸な主は珍しい。男の家、ライ家に囚われるようになってから早六百年。初めてと言っても過言ではないだろう。
 身体が弱く、ライ家の呪いに耐えられなかったばかりに三度も名を付け加えられ、王族として公に育てられることも叶わなかった男。それがこの第三王子のノアだ。実の母に呪いまでかけられ、小さな村に幽閉されて。王位を決めるとなった時に初めて、思い出したように王族の責務だなんだと呼び戻された。挙げ句の果てに、今度は実の兄から呪いをかけられ、ついこの間まで囚われの身だった。薄幸と言わず何といおう。

 正直なところ、統治者、支配者としての教育不足は否めない。ナールにも未だに、何故自分がこんなお人好しを通り越して、マゾヒストじみた変人を選んだのかよくわかっていない。

 ただ、接触して、直感的に感じた。こいつならば見向きもされなくなった自分の力を上手く使えるかもしれない、案外面白いことが起こるかもしれない、と。
 まさかその行き当たりばったりな勘のおかげで、自由の身まで得られるとはさすがに予想だにしていなかったが。そういう意味でも、ナールはノアを気に入っている。
 そのノアが、怒りをナールに向けている。滅多なことでは理不尽な負の感情を他者に向けない男が、自分が原因だと薄々知りつつナールにむき出しの刃のような感情を向けているのだ。

「『知っていたのか』だって? 知ってたよ。俺様が見抜けねーわけないだろ」
(ああ面白ぇ。珍しいモンを見るのは何百年経ってもおかしい)
「じゃあ何で黙ってた……!」
 くつくつと笑うナールに、ノアは肩を震わせ声を荒げる。いつもは穏やかな青の瞳が怒りに燃える様は、ナールにとって『愉快』以外の何物でも無い。
「言う必要あったか? お前のせいで女が死にかけて、見かねた義理の姉貴が必死になって守ってるって。知ったらお前、とうとう狂って自分の命絶ってただろ。呪いをかけた当人を憎みきれずによ」
「……っ」
 唇を噛みしめ、押し黙るノアにナールは嗤い続けた。

 認めたくない真実を言うと、ナールの経験上、人間は大方三通りの反応を示す。
 否定し刃向かうか、認めるか、話を逸らすか、だ。大抵は否定し刃向かい、賢い者は話をすり替えようとする。悪魔に対してノアのように『認める』者は少なく、だからこそナールはノアが好ましい。
 今代の三兄弟はどれも皆面白いが、第三王子のノアは別格だ。一番穏やかで、疑うことを知らず、純粋で、愚かで。それでいて一番居心地の良い深い闇を持っている。併せて自覚しているのもなかなか興味深い点だ。
 滑稽さではおそらく随一。次いで長兄のカルロと言ったところだろう。

「ニンゲン、素直が一番だぜ? それより、良いのか? 本当に。俺なんかを放して」
「別に野放しにするつもりはない。ただ、契約内容を変えただけだ」
「甘いねぇ」
 にやりとナールは笑い、仏頂面のノアの周りをふわふわとまわる。身体が軽い。これも皆、忌々しい手枷を外してくれた今代の主サマのおかげだ。

「この調子で首輪も外そうぜ? そしたら俺の力を全て、お前に貸してやれるけど?」
「断る。なるべくナールの力は使いたくないし、首輪を外したら、力を貸すどころかまたそこら辺で暴れ回るのは目に見えてる」
 透き通るような青が鋭くナールを射貫く。ぞくりと、実態のないナールの背中に快感が走った。

(さすが我が主サマ。甘言に釣られねーってか。良いねぇ。虐げても虐げても、曇ったことのない青、か。まるでおとぎ話だ)
「へいへい。そう簡単には離してくれねーよな」

 ナールは鋭い瞳から逃れるように頭上へと昇り、再びノアの前へと戻った。手枷のなくなった今、第三王子から逃れる方法が全くない訳ではない。しかしもう少し一緒にいれば、もしかしたらもっと面白いものが見られるかもしれない。
「離すも何も、僕だって首輪の方の壊し方はわからない。腕輪を壊せたのだって、あの石を知ってたから……単なる偶然だよ」
「そうかねえ。俺はあの光る石……つーか洞窟の方にまだなんか、ある気がするけどな」
「それは兄さん達に叶えて貰って。僕は『選定』から辞退させて貰うから。それはナール、君との約束だ」

 念を押すノアにナールは「そうだなぁ」と曖昧な返事をする。
(『選定』か。意見を変える気なんて無いけどな。それを言うのは野暮ってもんだろ。ノアが疑ってるかまでは俺にも見えねえ。が、そんなのどうにでもするさ。俺は面白ければそれで良い)
 薄い笑みを浮かべ、ナールはノアを見つめた。
 まっすぐな目も嫌いじゃない。

「で、次はどうすんだ? 俺は何を選べば良い? 女の為に動くんだろ?」
 ナールはノアの鼻をつつくと、人差し指を振る。

 これまでノアとナールは何度か計画をたて何かしらを潰し、同時に作り上げる準備もしてきた。
 しかしあくまでそれは多くの善良な者を守るためという大義名分の元行われたもの。人身売買組織や違法薬物研究所を潰したのも、長年の悪しき慣習の賄賂を取り締まる法や動植物保護法の改正の準備も、全てノア自身の為ではなかった。
 しかも実行に移したのは全てカルロやジーニアスだ。ノアは助言のみ。ナールに至っては、ノアに力を貸しただけである。
 二人の間では全て机上の空論止まり。それもこれも、ノアもナールも、ナールの魔法でさえも、この狭い城から一歩も出ることが叶わないからだ。仕方ないことだが、それはひどくつまらないことであった。

 だが、今は違う。枷はこの愚かな滑稽な第三王子自ら、安すぎるナールの約束と引き換えに取っ払ってくれた。ノアの呪いもまた、三年と三ヶ月あまりの時を経て効力を失った。これからはナール自身が自由に動ける。平和の為だ、国民のためだと、正義を振りかざしつまらないことばかりに利用しようとするカルロやジーニアスに従う必要も無い。

 もっと世界の面白いものが見られる。もしかしたらこの第三王子が私利私欲のために堕ちていく珍しい姿も見られるかもしれない。

「俺は早く、面白いモンが見たい。珍しくて綺麗で、残酷で、愉快なものなら何でも良い。その為なら見返りなしでお前に協力してやってもいい」
「遠慮する。頼むならば対価は払うよ。付き合いが続く限りはね。あと面白いものが見られるかどうかは、ナールが決めるから僕にはわからない。責任は持てない」
 ノアの言葉に、ナールはにやりと笑った。突き放すような言葉だが、一理ある。ノアと自分の「面白い」が同じとは思えない。ならば、とりあえず今は色々なものを見るために動くのも手だろう。
「わかった。じゃあお前がどうしたいのかだけ聞く。俺の力を使いたくねーか? 良いぜいつでも準備は出来てる」
「じゃあ……バルト閣下の狙いと動向、あと取引の時期。ついでにフェルザー家のものが本当に関係しているかどうかも。関係しているとしたら、誰なのかも三日以内に調べて。対価は『チェスの勝負一回分』もしくは『王都で人気のアップルパイ』。受けられないなら別に良い。自分で調べる」
 暗に「お前の力は借りない」と言われ、ナールは実態のない眉をしかめた。
 たしかにノアとのチェスは面白いし、アップルパイも興味深い。しかしナールの能力を丸っきり有効活用できてないその望みは、悪魔の誇りを傷つける。いらないと言われたも同然だ。
「お前、俺様の力を貸して欲しくねーのかよ」
「だから何度も言ってるじゃないか。ナールの力はなるべく使いたくないって。これからも僕個人として使うことは無いよ。エリスには近づかないで」
 ノアの最後の言葉にナールはほくそ笑む。

(なんだ。要はエリスとかいう女に近づいて欲しくないのか? これは面白れー予感がする。絶対に面白い)
 ナールは嬉々として一回転してから、呆れたように嘆息していたノアの鼻を弾いた。鼻を押さえたノアにいぶかしげな瞳を向けられる。細められた深い青、不可解なものを見るような瞳もまた、美しい。

「いった……君は魔法を使って鼻をつまむの好きなの? それ面白い?」
「面白い。あとつまんでねーよ。はじいてんの。男の鼻をつまむのは想像以上につまらねえ」
 真面目に答えると、ノアもまた真面目な面持ちでナールを見つめ返す。 
「……ナールの面白いって未だに理解しがたいよ」
 表情と不釣り合いな言葉に、ナールは満足そうに笑むと天窓へと向かった。久しぶりの下界に心は躍る。契約がある限り、ノアのため以外の魔法は大して使えないが、それでも自由は嬉しいものだ。

「別に理解して貰わなくて良い。それより、バルトの件良いぜ。外に出るついでに、調べてきてやる。『アップルパイ』用意してろよ」
「頼む。僕はミニアムに戻っているから。気をつけて」
 ナールは天窓から外へ出て行く。既に己の肉体は滅び、ノアが望まない限りは大がかりな魔法も使えないので実体も持てない。姿でさえ、現状では誰か他の人間の身体を借りない限り、ノアにしか見えないのだ。
 なのでわざわざ窓から出る必要も無いが、それは魔術が自由に使えた頃の名残とでも言えよう。
 ナールは浮かない顔のノアを置いて、上機嫌で飛び出していった。

 ∞∞∞

 鼻歌交じりに出て行ったナールに、ノアは苦笑した。

 王家に囚われた悪魔、『選定』の能力を持つナール。彼とノア自身の移動の自由は手に入れた。

 あとは父と母の死の真相を探り、ナールに『ノア・マリーツ・エリオット・ルイス・ファン・デル・ライ』を殺して貰えば、エリスを迎えに行ける。やっと『ミニアム村のノア』に戻ることが出来る。
 そんな風に一週間ほど前までは思っていた。

 しかしエリスに再会し、王城に帰りジーニアスに確認し、それはとんでもない勘違いだと気付いた。
「あの指輪だって、仕方ない。自業自得だ……」
 深いため息を吐き、ノアはその場にしゃがみこむ。
 エリスがとある商人の次男と結婚すると聞いたのは、両親の死を探っている最中だった。
 噂を聞いたときは俄に信じられず。またその時は自分の伝言がきちんと彼女に伝わっていると思い込んでいた事もあり、サラからエリスの様子も聞いていた。だから、どうせ噂だろうと特別に気にとめることも無かった。

 しかし再会してみれば、噂を信じないわけにはいかなくなった。それどころか、長い間自分が犯していた罪も、知ってしまった。

 初めて身体をつなげた次の日に突然「すぐ帰るから」といなくなり、三年以上も音信不通だった恋人が。いきなり現れ、訳のわからない事を告げてまた王都に戻っていった。

 自分のしたことを振り返っただけで目眩がする。そんな不誠実な恋人との再会を、喜べる人間がいるだろうか。
 ノアとしてはエリスと別れたつもりは無い。だが、彼女の中でノアとの結婚の約束が過去になっていることは大いにあり得る。それどころか恋人や友人という関係さえも危ういのではないか。最低最悪な人間に分類されている気しかしない。
(本当に僕は最低だ……。サラ姉の事だって、感謝することはあっても責めることなんて出来ない。サラ姉が僕の伝言を伝えていたら……僕はエリスの命を奪っていたかもしれない……)

 恐ろしさにノアは身震いする。思い出すのは、ジーニアスに魔法をかけられた時に一緒に告げられた言葉だ。
 『お前は少し頭を冷やして王族の責務について考えた方が良い。未練がましく連絡を取るな。取ればお互い不幸になる』――その言葉の可能性をもっと考えるべきだった。
(直接連絡を取らなければ、エリスに影響は出ないだろうなんて、なんて僕は馬鹿だったんだ。ジーニアス兄さんがそんな甘いことをするわけがないのに……!)

 突然消え、すぐ帰るとの約束も破り、三年以上連絡も取らず。ノアは愛する人の心を踏みにじるような事をし。そればかりか、身体まで、彼女を危険にさらした。ノアの高熱から考えても、エリスが体調を崩したとの報告は真実だったと考えるのが自然だ。義姉に守られなければノアは最愛の人の命を奪ってしまっていた。
 そんなノアが、エリスを迎えに行く事なんて許されるのだろうか。散々傷つけて、心も身体もボロボロに痛めつけて。今更愛しているなどと、共に生きたいなどと、きっとこの身が滅んでも願ってはいけないことだ。

 それなのに、ノアは諦めきれない。近くに居たい。頼って欲しい。想って欲しい。もう一度口付けて、どろどろに溶け合うまで愛し合いたい。それは三年以上経った今も変わらない。もっと言えば、彼女に恋をした幼き日から一瞬たりとも、変えられたことは無い。
「エリス……」
 再びノアの唇から苦しげな吐息が漏れた。罪悪感と焦燥感、激しい恋情に、自分がきちんと呼吸できているかもわからなくなる。
「僕が苦しむなんて、間違ってる。もう一度迎えに行くなんて、もっと……」
 それでもノアには、このまま引き下がるなど出来ないのだ。どんなに後悔し、罪の意識に苛まれ、彼女と幸せになる資格が自分に無いと知っても、この想いを断ち切ることなんて出来ない。彼女の口から、別れを告げられない限りは、もう二度とノアを選ぶことはないと言い切られない限りは、儚い望みを追い続けるだろう。

 ノアの澄んだ青の瞳が揺れ、その深さを増していく。今からでも全てを隠して、辻褄を合わせてしまおうか。最悪合わせられなくとも、悪魔の力を完全に手に入れた後なら――。

(だめだ……! 絶対に)
 僅かに生まれた仄暗い感情に、浮かんだ汚い手段に、ノアは首を振る。
 絶対にだめだ。そんなことをしたら、それこそ彼女の傍に居られない。ノアが欲しいのはそんなまがい物では無い。

「ノア殿下、よろしいですか?」
 牢の中央で蹲るノアに、低い男の声が届いた。

「ああ。入ってくれ」
 ともすれば崩れ落ちてしまいそうな身体を叱咤する。ノアは立ち上がり、姿勢を正すとゆっくりと振り向いた。
 視線の先、十数年来の付き合いの髭の男にノアは薄く笑む。
  「例の取引先の商人達は見つかったか?」
 冷たい声とその顔は、既に第三王子のものだった。