missing tragedy

cock-and-bull……¡

変わらないもの、変わっていくもの ②

 浴槽に浸かりながら、エリスはぼんやりと今日あったことを思い出していた。
 突然帰ってきたノア、顔をしかめるサラ、そして借金取りの来訪。
 ノアの帰還に戸惑う暇も、連絡の途絶えたフェリクスに騙されたのだと言う事実に驚く暇も、全くなかった。あれよあれよという間に事が進んでしまい、正直いまだに現実味がわかない。
 先ほど終えた三人での食事の話題は、もっぱら村の人たちの様子について。サラも少しだけ角が取れ、打ち解けたようにノアとも話していたが、エリスは割り切って食事を楽しむことなど出来なかった。

(ノア、まだ私があげたピアスしてた……。私を迎えに来たって、やっぱり……)
 洞窟でのノアとのやり取りを思い出す。
 自然と赤くなってしまう頬を隠すように、浴槽に深く身を沈めた。諦める気はないと、失いたくないとノアは告げた。眉間の皺も、ハの字に下がる眉も、すがるような声も。

 彼がこの先のことを何も考えずに、行き当たりばったりで口から出任せを言っているので無いことはエリスにもわかる。
 チラリと聞いたあの言葉。エリスをオルコット家の養女に――。その思惑が本当ならば、とんでもないことだ。
 当然サラが反対することだって、彼になら予想の範疇だったはず。だからこそノアは長期戦を覚悟して泊まる準備をしていたのだろう。
 オルコット家の当主が頻繁に会いに来ては、持ちかけてくる信じられないような話も彼は知っていたのかもしれない。亡き兄の忘れ形見のサラをエリス共々養女にしたい等という、恐れ多い話だ。

(どうしよう……治療院の話も白紙になって。簡単に話が進むとは思えないけれど、今ならノアの気持ちに応える事が出来る。皆の期待に応えられなかった理由だってちゃんとある……)
 胸の奥が鈍くきしむ。誘惑に一瞬心が揺れて。すぐに強く唇を噛んだ。
(でも、それで良いの? 遠のいたからって諦められるなら、叶えられないって言い訳で納得できるなら、とっくに諦めてるわ。確かに私はこの夢にすがっていたけれど、それでも……)
「やっぱり簡単に諦められない。けど、ノアの気持ちに応えれば私はまた……ノアを頼って利用しちゃう。そんなことをして、それで、良いの……?」

 最初はただ、純粋に身体の弱い幼馴染みの為に医者になりたかった。
 それからハンナが病に倒れ、苦しんでいる人を笑顔に出来る人間になりたいと思った。やがてそれは、一緒に目指そうと言ってくれた幼馴染みに誇れる自分になりたいという想いと混ざって――――。

 エリスは湯気の立つ湯に水音を立てて顔を浸ける。熱い。頬や耳がヒリヒリする。医療器具を消毒する時のように、熱い湯に浸かって純粋な気持ちを忘れ、汚くなってしまった自分が消毒できるならば。そんな馬鹿みたいな事を思う。
「……っはぁ、はぁ……」
 湯から顔を上げ、エリスは呼吸を整えた。顔に張り付いた冴えない茶の髪の毛を払う。顔が熱い。エリスはもう一度唇を噛んだ。
 見栄と矜持。何よりも本当の自分を知られ、彼に嫌われる事への恐怖。
 それらは皮肉にも、エリスを悩ます根源であり、正気を保つための唯一の支えだった。
(ちゃんと、話さないと。わかってもらう為にも私はノアにきちんと話すべきだ……)
 この後ノアと会う約束になっている。ベークマンからの指輪はまだ、はめたまま。それは彼への想いや未練からでは全くないけれど、きっとノアを説得するのに役に立つ。

 変わらない彼と、完全に変わってしまった自分に、長い長いため息を付く。
 エリスの面差しに暗い影はもう見えなかった。
 
 ∞∞∞

 外はすっかり暗くなり、窓からは点々と僅かな灯りが見えるだけであった。時折聞こえるコマドリとフクロウの声にノアはほっと息を吐く。

 ランプの頼りない光が、恋い焦がれた記憶と同じ小さなベッドと簡素な机を照らし出している。
 ここには煌びやかなシャンデリアもなければ、広い上に柔らかすぎて居心地の悪いベッドもない。二時間に一回見回りに来る人間もいなければ、様子をうかがいながら媚びる人間も、ノアに愛想笑いしかしない人間もいないのだ。

(やっと、帰って来れた。ここに……エリスの隣に、帰って来れた)
 ようやく叶った夢を噛みしめながら、これから彼女にどう話そうか考える。

「おいおい、主サマ。あんまりニヤけると顔が変形するぞ?」
「しないよ」
 ノアは虚空に向かってぼそりと呟いた。瞬間、虚空だったそこに朧気な陰が現れ、あっという間にそれは人の形となる。
「うまいな、これ。人間はこんないいもんを食ってんのか」
 空中であぐらをかきながら、 それ ・・ はノアが贈ったアップルパイを頬張り真っ青な瞳を輝かせていた。年の頃は二十五前後、りりしい眉と色気のある厚い唇が特徴だ。しなやかな筋肉のほかに、彼が纏っているのは上質な絹のズボンのみ。豪快にパイを食べる姿も、言葉遣いも粗野だが、悪魔から零れるような色気は老若男女全ての人間を虜にするような力があった。

「……はぁ。美味しいよね、それ」
 ノアは諦めたように、ため息と共に同意の言葉を吐く。首を縦に振る悪魔は、見た目よりもずっと素直なところがある事をもうノアは知っていた。
「……それよりさ、お前、あれで良かったのか?」
「あれって……?」
「あの女……エリスだっけ? の借金だよ。別にあそこで返さなくとも良かったんじゃねーの? 嘘くせーし」
 ノアは緩く首を振り、立ち上がる。
「そうかな……」

 手を伸ばし、本棚から一冊の本を取った。そのままおもむろに開き、文字を追う。
「僕はあそこで一旦返した方が良いと思った。彼の言っていることの真偽はまだわからないし、仮に金銭の貸し借りがあったとして。エリスに払う義務はないけど、それでもあの男は最初からエリスを娼館に売り飛ばしても良いくらいの気持ちでここに来たんだ。今後の事を考えても必要だと判断した」
「でもよー、そんな不確かな話に乗っからなくても、売られたエリスをお前が買い戻せばもっと安く済む話だろ。……それとも単純に恩を売りたかったとか?」
 ページをめくる手を一瞬止める。心外な言葉に、思わず深いため息が漏れた。
「違うよ」
「じゃあなんでだよ?」
「売人や仲介人の手に渡ったら彼女の安全は保証できない。だから払った。大体、せっかくエリスに会えたのに何で危険に晒してまで離れる必要があるの? 僕に自虐趣味は無い」
「えー」
 きっぱりと断言するもののナールは疑わしいと言わんばかりの反応だ。
「なに?」
「いや……百歩譲ってあの女のために無駄なことしたのはわかる。が、主サマはどう考えてもドえ……」
「様子も見たかった」
 一言。遮るように告げた。嘘ではない。相手の今後の動向は探りたかった。ベークマン達と繋がっている可能性があるならば、尚更。しかしその為にエリスを危険にさらす必要は無い。それだけのことだ。

「へいへい。無駄に思えるけどなぁ。ま、で? 初手としては上々なのか?」
 絨毯の模様からゆっくりと頭上のナールへ視線を移す。自分と同じ真っ青な瞳は奥が良く見えなかった。
「どうかな」
 視線を絨毯に戻すと、今度は一時前のノアを倣うかのようにナールから呆れたようなそれがもれた。
「へーいへい。お得意の『どうかな』『そうかな』ですか。だがな、過保護な主サマ。決して見誤るなよ。それだけは言っておく。不確かなものに振り回されるのは愚かってもんだ」
「わかってるよ。忠告ありがとう。ナールってさ、悪魔なのに世話焼きだし、多分すごく良い奴だよね。僕よりもずっと」
 心配性の悪魔に眉を下げる。肩を震わせるノアにナールは納得いかない素振りだった。
「……そうかぁ?」
「そうだよ」
 物言いたげな唇とひそめられた眉に即答する。

 ノアの瞳は青く、深く。きっと底なしの沼のように暗いのだろう。
「だって、僕達の方がずっと、悪魔みたいでしょう? 沢山の人を……愛するはずの民たちを……自分たちの手で不幸にしておきながら、間違えた者を『許されない罪』だと勝手に決めて、天罰だとばかりに……」
 一番罪深いのは自分だと知りながら。『最善の選択』を悪魔に委ね、『正義』の名を語り。

「……殺してるんだよ?」

 再び聞こえたフクロウの声に、ノアの口角が安堵とは別の意味で上がる。一瞬の静けさの後、ナールの口角も上がった。

「楽しいぜ? 俺は」
「君は、ね」
 皮肉を込めて告げた言葉に、悪魔の彼の笑みはますます深くなる。にんまりとでも言うような表情からは既に色香は感じられない。
「意味わかってねぇだろうなぁ。ま、俺は 楽しいけどな。なんたってあの主サマが女に怒鳴られて小さくなったり、あれこれ悩んで無駄なことしたり……」
「ちょっ……! そんなこ」
「ああそうそう。洞窟では慌てすぎて花束渡し忘れてたしな」
「あれは……っ! タイミングが悪かったんだよ!」
 突然の指摘にノアの頬がカッと赤くなる。重苦しい空気は一瞬で吹き飛び、話はいつの間にかとんでもない方向へと進んでいく。
「ほら、それだよ。いやーお前が女にも男にも見向きもしないの、てっきり恋とか愛とかめんどくせえからかと思ってたんだよ。エリスは建前でさ。なのに、あれは……く、ハハ! 台詞も行動も……ダセぇ!」
「だっ……ださっ……?! じゃあどうすれば満足なんだよ!」

 笑いを噛み殺しきれていないナールを睨む。しかし効果は全くない。その証拠に彼は美しい顔に下卑た笑みを浮かべながら、馬鹿にしたようにノアの前でくるりと一回転した。同時にノアの耳元で青い光がパチリと音を立て弾ける。
「おおこわ。知らねーよ。精々慌ててくれよ。俺が面白いから。童貞主サマ」
「はあ?! 何度言えばわかるんだ僕は――っ」
「ほぼ童貞か」
 もし過去に戻れるならば、先ほど少しでも良い奴だと言った自分の口を塞ぎたい。塞げるのなら、奴に買ってきたアップルパイででも良い。

「さて、俺は消えるかね。お前も女とエロいことするところ、見られたくねーだろ?」
「!!」
 持っていた本を取り落とすノアをよそに、悪魔は笑いながら部屋の隅へと移動すると闇に溶けるように消えていく。

 残されたノアの頬はランプの灯りの下、真っ赤に染まっていた。