missing tragedy

cock-and-bull……¡

新居にて ①

「さてと。疲れたしそろそろ俺は行くぜ、ノア」

 ぐっと伸びをした悪魔はその場でくるりと一回転すると、ちらりとエリスを見やった。
「あの、宜しくお願い致します!」
「ハハッ。それだけで良いのか?」
 この不思議な悪魔をもう少し知りたい。そんな気持ちが顔にも出ていたのかもしれない。

 エリスは失礼を承知の上で「あの……」とナールの言葉を継ごうとする。が、具体的には何を聞いて良いのか、さっぱり見当がつかなかった。
「好きな食べ物は……?」
 エリスは赤面する。これではまるで慣れないお見合いのようだ。しかも問うてから悪魔が食物を摂取するかも不明な事に気付いた。
 しかし、当の本人は気にした様子もなく、寧ろ意気揚々と質問に答える。
「甘い菓子だな。辛いもんと羊の肉以外なら好きだが、甘い菓子は特別にイイ。甘くて良い匂いのするやつ……シナモンの効いたアップルパイとかナッツがぎっちり入ったプディングとか。最近街で流行ってるあれ……チョコレートトルテだったか? あれも濃厚でうまい。俺に気に入られたくば甘い物を差し出すと良い」
「はい」

 上機嫌で菓子について話すナールに、エリスは笑いを噛み殺し返事をした。高価な酒や名前しか知らないような世界の珍味を好みそうな彼が、女性や子供に人気の甘い菓子好きだなんて意外だ。
 張り詰めていた空気は、いつの間にか解けて消えていた。
「もういいか? ノア、例のものは?」
 そわそわと落ち着かないナールにノアは苦笑と溜め息を返す。
「裏庭の東屋に。トフィーナッツあたりはそろそろリスに食べられてるかもしれないね」
「はぁ?! 防護魔法くらいかけとけよ! じゃあな!」
 風もない洞窟でナールは黒髪をたなびかせると、霞のように消えてしまった。

 嵐のような彼が去り、その場に静けさが戻る。
 未だ呆気に取られるエリスの手を、ノアが握り直した。
「ご、ごめんノア」
 慌ててエリスは手を引こうとする。しかしノアは引いた手に導かれるまま、エリスとの距離を詰めた。
「嬉しいな。エリスにずっと離して貰えないなんて。夢みたいだ」
「ゆ、夢だなんて……」
 おどけたような物言いに反して、眼差しは熱い。腰に回る骨ばった手は労わるように優しく、力強く。鼓動は益々速くなる。
「僕達も今日はもう帰ろうか」
「えっ……ええ?! 早くない? だってまだ、調査とか何も」
「……わかった。じゃあ色ごとに幾つかずつ石を採取して今日は帰ろう? 経過時間と石の反応と品質の変化は何度も検証した方が良さそうだから」

 ノアの言葉にエリスは魔鉱石の特徴を思い出す。
 煌めく色とりどりの石たちは特定の色の石とそれぞれ異なる反応を示すが、洞窟の外へとそのまま持ち出すと輝きを失っていってしまう。
「そっか、研究所に持ち帰る時に役立つかも……」
「うん。まずはそこから」

 ノアは悪戯っぽく笑むと左手を上向け、ボソリと何事かを呟いた。手のひらの上に淡い青の光の点が集まり、場が明るくなる。それらは幾つかずつに別れると、ふわふわと宙を舞い洞窟の壁面を撫でるように各々進んだ。
「すごい。初めて……何魔法なの?」
「守護魔法の一つをちょっと利用したもの……かなぁ。採集とか、物を保護しながら移動させる時に使うと便利かと思って」
 六つの光の点を結んだ八面から成る空間には、それぞれ赤、黄、橙、青……など色とりどりの石たちが集められている。

「素人の感想で恥ずかしいのだけど、まるで蛍石や琥珀みたいね。あと学校に置いてあった標本箱」
「うん、用途はそれで大体合ってるよ。むしろエリスの方が優秀だと思う。僕は虫かごやピクルスの瓶をイメージしてこの魔法を創ったんだから」
「えっ、創った?! 魔法って創れるものなの?! しかもノアが創ったって……?! もっと詳しく聞か……あ、ご、ごめん。私ったら……」
「良いよ。らしいと言うか……嬉しいな」
 くすくすとノアは笑うと、開いていた左手を握る。瞬時に青の光の点と石たちは消え、その場に静寂と仄かな灯りが残った。

「どこから話そうか?」
 さりげなく差し出された左手を極自然にエリスは取る。
「じゃあ……」
 懐かしに似た安堵と新たなこそばゆさを感じながら、エリスはノアと再び歩き始めた。


「ま、待って! ノア!」

 洞窟を出て山道を進み、夕日が隣の山麓に隠れるのを確認した後。未知の世界である魔法の話に夢中になっていたエリスは、大きな屋敷の前で我に返った。
 西の裾野が薄明るいだけとなり、天空では星々が輝きを放ち始めている。
「エリス?」
「ノア、ノアから見れば同じように見えるかもしれないけれども、そこは人様のお家! うちはえ……っと……」

 左右前後を確認し、エリスは自分達がミニアムのどこにいるのか予測する。
 左前方には隣村との境にある湖、右下方にはミニアムの中心街の南に位置する村唯一の郵便局の赤い屋根が見える。後方は先程の洞窟があった裏山。という事はおそらくここはミニアムの南東部、裏山の反対側の高台。エリス達の家とは真逆の麓へと降りてしまったらしい。
 ところが。
「大丈夫だよ。ここは僕の家だから」
 ノアの口から思いもかけない言葉が飛び出す。

「えっ? ノアの?」
「サラ姉の居る所では、流石に……色々問題が……あるからね」
 白磁の肌に朱を差し言葉を濁らすノアにエリスの頬も赤くなる。
「あの、でも……サラ姉とか、料理人のショウさんが来てご飯、作ってない……?」
「それは伝えてきたから大丈夫。エリスさえ良ければこの屋敷も……今日から僕達の家にしたい」
 はにかむように、しかし真っ直ぐな瞳で望みを伝えられ、エリスは羞恥と戸惑いを隠せない。緩く繋いでいた右手の指にノアの長い指が絡められた。
「……荷物とか……っ」
「近いから少しずつ運べば良い。家具や食器、エリスの着る服も……ある程度はもう揃えてあるから」

 ノアは気恥しそうに微笑むと、エリスを屋敷の中へと促す。未だ状況が把握出来ないエリスの脳裏にジョニーとの会話が過ぎった。
(湖の近くのお屋敷って……!)
 用意周到さにおののくべきか、事前準備が万端な彼を誇るべきか。若干頭が痛くなりつつも、上機嫌の幼馴染みにエリスの頬はすぐに緩んでしまう。
「ありがとう。ノア。よろしくね」
 しかしそれも束の間。

「ノア、あの思ったより広いのね……?」
(一部屋目が居間かと思った……まだ一階なのに四部屋目……? 掃除大丈夫かしら? 使用人を雇った方が……)
「ああ……仕事で使える部屋も必要かと思って。いずれ僕達の家族を迎えた時にも安心だし、この広さなら図書室も作れるから。掃除なら任せて……!」

 門扉の大きさから予想した屋敷よりも中は数倍広く。

「クローゼット……室……? ノア、あの……洋服……ありがとう……」
(そ、そっか。クローゼットって部屋なのよね。前に泊まったホテルの部屋より大きいし、豪華な気がするけれど……)
「ごめんね。エリスの今の好みに自信がなくて。少し用意し過ぎた……かな」

 二部屋あるクローゼット室にはエリスが半年かけても全て着れないであろう有名ブランドのカジュアル服を始め、この家から一体どこへ着ていくかも不明な程の高価なドレスに装飾品、靴がこれでもかと揃えられ。

「ノア、これは……?? あの……き、綺麗ね……! 繊細でお姫様が使うカップみたい……」
(これ、装飾ではないのよね? 私、絶対柄を折るわ……!)
「そうだね。柄が細いし危なかったかな……」

 エリスのような一般庶民が使う食器やキッチン器具に混ざるのは、エリスの月給半年分にボーナスを付けても購入出来るか不明な高級カトラリーだった。

(ある程度想像もしてたけれども……ここは別邸にも満たない仮の拠点的な意味合いで購入したんじゃ……? でも待って、さっきのノアのあの言葉……)
 衝撃を受けながらも必死に平静を装うエリスに、ノアも次第にしょんぼりと萎れていく。
「なるべく前に家で使っていたメーカーのものを取り寄せたんだけれども、なかなか難しくて……ごめん、エリス」
「ち、違うの! ありがとう。ノア。ただあんまりして貰ってばかりだから……」
 エリスは慌てて己の胸の内を正確に表す言葉を探す。
 三部屋続く図書室に地味で目立たないが上品で丈夫そうなエリス好みの服たち、女性物の仕事用の靴に食器、家具や室内装飾まで。それらの多くは派手さや煌びやかさを最小限に抑え、優雅さや高級感さえも感じさせ過ぎないよう細心の注意が払われている。
 元々ノアが購入した屋敷と言えども、その間取りや用意された品々を見れば、当初からエリスとの暮らしを想定していた事は手に取るようであった。
 だからほんの少しだけノアとの世界の違いに驚き、罪悪感や引け目を感じてしまったのだ。
(これからもきっと思うのかもしれないわ。でも……)

 暫し逡巡し、エリスは微笑んだ。

 遠慮でも欺瞞でもなく、驚きや罪悪感よりもずっと多くの嬉しい気持ちや感謝をノアには伝えたい。
「びっくりしたの! ありがとう、ノア」
 エリスの反応に、ノアはほっとしたように笑みを和らげた。
「良かった……。夕飯も用意したんだ。急ぎだったから出来合いのものを届けて貰って……」
 「口に合うかわからないけれども」とノアは続けると、居間への扉を開ける。案内された部屋の中央、食卓の上にはミートパイとパン、野菜の煮込みが並んでいた。
「ふ、ふふっ……本当にありがとう。ノア」

 広大な屋敷に高価な服や装飾品。てっきり食事も数度しか味わった事の無いコース料理をどこからか現れた使用人に囲まれて取るのかと思いきや。
「せっかくだから冷めないうちに頂きましょう。お腹すいちゃったわ!」
「ああ。そうだね」
 場所や時は違えども、口元に手を当て微笑むノアに懐かしさと安堵を覚える。彼が帰ってきたのだと、改めて実感する夕食はエリスにとって特別な時間となった。

 楽しく穏やかな時を過ごし。場の空気が少しずつ変化している事にエリスが気付いたのは、食事を終えた頃だ。
「エリス、先入る……? ……替えの服は用意してあるんだ……」
 口ごもるノアの頬は熟れた果実のように赤い。つられてエリスの頬も熱くなる。
「え、ええ。ありがとう」

 替えの服という言葉が寝巻きを指すのか、下着までもを指すのかはその場では聞けず。後者だと知ったのは浴室が寝室に隣接し、更に言えばこの広大な屋敷の寝室は現時点では一部屋だと知った時だった。
(あんまり色んな部屋の説明を受けたから、同じ部屋だってことをすっかり忘れてた……。そっか、そうよね。夫婦だも……にはまだなってないような……?!)
 夢心地のまま入浴を終え、用意して貰った下着とネグリジェ型の寝巻きに着替えたエリスは自らの寝所ーー屋敷の二階、主夫婦の寝室で顔を覆う。
 今更と何をと言われればその通りだろう。
 エリスだって右も左もわからぬ処女では無い。ノアの裸体を初めて見る訳でも無ければ、どのような事を行うか具体的に知らない訳でも無く。
 ただほんの少し前まで、一度しか経験した事のないその行為は彼との別れや続いた悲しい記憶で薄れ、目を背けるように思い出すこともしなかっただけ。

 つまるところ、恋愛的な経験に非常に乏しいエリスは、ノアと再びそういう事をするとは、しかも今夜そのような流れになるとは意識していなかった為、大変動揺していた。
 寝室には小さなテーブルセットに本棚、そして天蓋の付いた大きなベッドが一つ。
 万が一にもベッドは高貴な身分のノア専用で、エリスは床、もしくはおやすみの挨拶をしてから廊下で寝る可能性も捨てきれなくもないが。
『すぐに済ませてくるから、少し待っててくれると嬉しい』
 浴室へと消える際にエリスへとかけられた言葉からも、握られた手と甘い眼差しからも、鈍いエリスにもその線は薄そうに感じた。

(よ、世の中の成人男女ってこんなにすぐするものなの?! わからないわ……! ど、どうしよう。沢山食べたからお腹とか……そ、それにまたあんな、あんな……)
 羞恥にエリスは悶える。三年半前、初めてノアと愛し合った時はそれこそ隅々まで、見られ、口付けられ、弄られ……一挙一動息を飲まれながらも、それはそれは丁寧に扱われたのだ。
(またノアとそういう事をするなんて……嫌じゃない、嬉しいけれど……不安だわ……変じゃない? 予定なんて無かったし余計な贅肉とか、匂いとか……)
 幻滅されたら? 体を重ねて記憶が美化されている事に気付いたら? 他の誰かの方が良かったとがっかりされたら?
 そこまで思考し、エリスは首を振った。
 それこそ今更後悔しても遅い。多少、エリスの体には落胆するかもしれない。しかしノアはそれだけで相手に冷たくするような人間ではない……はずだとエリスは信じている。
「ああもう! 大丈夫だって……!」
「どうしたの?」
「うっわぁ、あ、ノ、ノア!」
 心地の良い低音が耳元をくすぐり、エリスは色気の無い叫び声上げた。振り向いた先、ノアは悪戯っぽく笑む。

「お待たせ、エリス」
 湯上がりの頬は上気し、煌めく金髪はしっとりと濡れていた。上質の絹で作られたエリスと揃いの寝間着は純白で、それがかえって彼の色香を際立たせている。直視出来ず瞳を伏せると、今度はベルガモットに混じった彼の柔らかな香りがエリスの鼓動を速くさせた。
 未だ湯の温もりを残した手がベッドの上のエリスの手に触れる。躊躇うようにゆっくりと温もりが絡められる。
「ノア、あの……」
 エリスなりに精一杯、彼に応えるようにぎゅっと握り返すと、頭上で息を飲むような気配を感じた。
「……うん」
「そ、それになりに貧相で……あの、余計な部分もありますが……っ、こ、ここ今晩は宜しくお願いします……」
「へ…………えっ?! えっ……?!」

 数秒の間を置いて。高低の差がある二度の音と共に、ノアの気配が僅かに遠くなる。
 失言をしたのだと気付き、慌てて顔を上げれば先程よりも増して頬を真っ赤にし瞳を丸くさせた彼が目に入った。
「え、っとあの……ごめんノア、ち、違った……?」
「違わないよ……!」
 混乱するエリスにノアは強く首を振ると、おずおずと続ける。
「けど、良いの……? 僕、今夜はキスだけのつもりで……本当に? その、準備はちゃんと……エリスに内緒で実は色々……だけど、本当に疲れてない?」
「だ、大丈夫……元気……」
 ノアの問いにエリスは若干混乱しながら、緊張で舌を噛みそうになりながらも、精一杯の気持ちを口にした。心臓が破裂しそうなほど大きく、速く鼓動を刻む。
「なら良いんだけど……その、久しぶりだから……僕の方が余裕なくて……」
 そこまで口にしノアは勢いよく立ち上がる。呆気に取られる間もなく彼はベッドサイドの抽斗を探り、すぐにまたエリスの傍へと座った。彼の後ろ、ベッドの上に広がるそれらにエリスの頬が再び熱を持つ。
「ノア……それ……」
 工芸品のような上品な造りの小瓶に桃色を基調とした金字のパッケージの紙箱、実験室にでもありそうな無味乾燥な遮光瓶などなど。一見して統一性のないそれらはおそらく。
「初めての時……かなり無理させたから……あった方が良いと勝手に僕が判断しただけなんだけど……」
 ノアの声が益々小さくなり、最後は消え入るような大きさとなる。真っ赤な耳が金色の髪から覗き、エリスの胸がきゅうと締め付けられる。不躾にも彼の反応が可愛らしいと思ってしまったのだ。
 何もよりも、心の奥底ではエリスを求め、期待し精一杯準備をしていてくれた事に、胸がいっぱいになる。

(嬉しい……はしたないけれども、私ノアがこんな風に準備してくれた事が……すごく……)

「もちろん精一杯努力はする……します」
 温もりが再び近付いてエリスを包む。二人どちらともわからぬ鼓動が早鐘を打っていた。湯上りの肌は熱く、抱擁は次第に力強くなっていく。
「エリスの夫にしてくれますか?」
「……宜しくお願いします……」

 エリスは何度も首肯し、羞恥から掠れてしまった声の代わりにぎゅっと寝巻きを握った。