missing tragedy

cock-and-bull……¡

君を想えばこそ ②


 茜色の空が子供達の帰宅を促す。窓からの長閑な景色を時折見ながら、ノアは魔鉱石についてのレポートを進めていた。机上にはジーニアスに依頼し、追って届けて貰った分厚い本たちがうずたかく積まれている。
 ノアは薄茶に変色したページをめくると手を止め、二時間ぶりに大きな伸びをした。

『よう、似合うじゃねぇか』
「え? 何が?」
 振り向くノアにナールはニヤリと笑い、己の鼻筋に触れる。その動作が曲がった眼鏡を直す仕草だとわかり、ノアは表情を緩めた。
「ああ、眼鏡か。もしかして初めて見た?」
『いや。でもお前がしてるのは初めてだ。目悪かったんだな』
 ナールが知らないのも無理はない。長い間、城ではずっと会話でのやり取りであったし、こうしてお互い顔を合わせて話をするようになってからの日も浅い。
「そんなに目は悪くないから偶にね。長時間物を見る時はかけていた方が疲れにくいから」
『へぇ。てっきりそのクマを隠したいのかと』
 易々と内心を見透かされた気がして。ノアはギクリと肩を揺らす。

「……そんなに目立つ?」
『いや……まあ俺は悪魔だしなァ。どうだかな』
 にやにやと含み笑いで答える悪魔からは真実なのか揶揄なのかは読み取れない。

 正直なところ、ナールの言う通りノアは寝不足だ。
『毎晩眠れねぇのは忙しいからか? って思ってたんだが。その顔だと違うだろ?』
 そしてそれもまた、図星なだけに何も言い返せない。

 愛する妻エリス――――予定だろうとの悪魔の冷静な指摘は置いておいて――――と再会し新居で新婚(仮)生活を始め明日で一週間。初日の夜と次の日に犯した失態をノアは未だに引き摺っている。
 再会から二度目の夜までを何度も妄想し、あらゆる場合にも対処出来るよう対策を立て、薬等の補助的な準備も怠らず、閨で女性が喜ぶような恥ずかしい台詞の練習まで一人して。
 
 結局は何度も雰囲気を壊しかけ、手順に戸惑い慌て、早々に欲が抑えられなくなり。彼女を抱き潰しそうになっただけでなく、次の日休ませる事もせずに仕事にまで付き合わせた。

 あれから失態を次に活かす為に何度も振り返り、改善点を探し出そうと努めてはいる。だが言葉に表し、模索しようとすればするほど、ノアは己の失態の大きさを自覚するばかり。一度ならず二度までも、特に情事後の対応の点で言えば、二度とも最低の部類では無いだろうか。

 二日目の夜こそは彼女を休ませ、理解ある夫になろうと努めはしたが。エリスの温もりに何度も欲情し、唇を重ねた時や頬を染められ名前を呼ばれた時、肩に触れられた時など、幾度となく危うい場面があった。
 もし手を引いた時にエリスが肩を揺らした事に気付かなかったら、彼女が後ろを向かなかったら、拒絶から敷布を蹴った事をなんでもない事だと捉えていたら。
 二日目の夜、ノアは絶対にあのままエリスを抱いていたし、自分のしでかした事の重さに気付かずに今日まで優しい彼女に甘え、無理をさせ続けていたかもしれない。

 今は極力エリスに触れぬよう、特に夜は邪念を抱く機会を与えないよう気を付けて過ごしている。
 深い口付けを自制しているのもその為だ。
 ベッドに入ってからも異国の建築用語を脳内暗唱し、植物と土中の微生物の関係を思料しては円周率を可能な限り算出するなど、煩悩を振り払う努力は怠たらないようにしている。

 代償として睡眠は不足しているが、無自覚に彼女を傷つける酷薄な人間に成り下がるよりは遙かに良い。
(大事にしたいんだ……欲を押し付けたら、それはもう夫じゃない。他の人はどうやってその……相手と上手くコミュニケーションを取っているんだろうか。女性の身体の負担にならない程度って、一体どの位なんだ?)
 その辺りの事情についてノアは明るくない。今は多忙さを理由にどうにか諸々を誤魔化せているとは思うが、それも長くは続かないだろう。
 
 一方、押し黙るノアを見て、ナールは突然「あぁ」と俄然納得がいったように肯いた。
『もしかして嬢ちゃんに【なんか思ってたのと違う! 美化されてたのね! しつこい! ヤラシイ! 面倒くさい! それに物足りないわぁ~!】って……』
 声高い裏声を出しながら身をくねらせるナールを一瞥すれば、空気を読んだのか一応は悪魔も黙る。
 ナールに八つ当たりしても仕方が無い。ノアはため息交じりに再びペンを取った。
「はぁ……半分くらい当たってるよ。君の能力は帰ってきたら使わせて貰うから、またね」
『おいおいおい……すねんなよ。ほらよ』

 瞬間、ナールの周りの空気が淀み、揺らめく。そして長身の男は見る間にその姿を変えていった。

「……っ!」
「どうだ? なかなかいいだろう?」
 よく通る凛とした声音は恋焦がれた人と同じもの。艶やかな茶の髪も琥珀色の瞳もノアが愛した唯一無二のものと酷似している。
 それどころか服装までもがオリーブグリーンのジャケットに黒のパンツスタイルと、洞窟調査の時の彼女と全く同じ格好だ。ノアがプレゼントしたネックレスをしていない事位しか相違点がない。

「ははっ。びっくりしたか?」
 エリスと瓜二つの人物(それ)は親しい悪魔と同じ笑みを浮かべた。
「……するよ。君、そんな能力を隠してたの?」
 ジャケットの裾をひるがえし、ナールは一回転。
「違うさ。ほら」
 見せつけるように右腕をあげる。淡い光の後、幾つもの鈍色の手枷が表れ、その数が一つ減っている事にノアは気付いた。

「まさか……」
 次いでノアの唇から魔法の発動呪文が零れ、青白い六面体が表れる。予想通り中は空。してやられたと、ノアは頭上に漂う悪魔を睨んだ。
「……解呪できたのか」
 ノアの問いに悪魔は頷き、嘲りを添える。
「……今回の鍵は触れさせるだけ。俺の今の力でも十分。簡単だったぜ。これで右手はあと五つ。是非ともまたお前達にはあの秘密の部屋で遊んで欲しいねぇ」

 得たり賢しとばかりに、微かな呻きと叫び達がナールの声に続いていく。押し黙り俯くノアの顎に悪魔の細い指先が触れた。
「さあさあ。ご主人サマよぉ? 次のお望みは?」
 冷たい指が頬を辿る。騒がしい叫び声達が余計にノアの心を現実へと引き戻した。

「前に話した通りの案で。僕とサラ、連絡役にエリオットでいく」
 光の差さぬ水底にも似た、深い青が悪魔を見上げる。己の唇が弧を描く事を自覚しながらも、ノアは続けた。
「……総数と【フェリクス・ベークマンの利用、5000万グル、クリンゲ領、イザベラ嬢の醜聞、拷問】それぞれの利用時、【ローラント・バルト卿】がきちんと仕事をこなし【フェルザー家エーミール卿】がこちらの予定通り動いてくれる率が知りたい」

「…………良いのか、それで?」
「……? 何か問題でも?」

 一瞬の間の後の、些細な悪魔の躊躇いにノアは問いを重ねる。問い返されたナールの顔には泣き笑いのような珍しい表情が浮かんでいた。

「悪いが他の策にしてくれねぇか」
「何故?」
「どうしてもお前が行くのか?」
「適任は他にいない」
「お前は残れ。別にお前の為に言ってるんじゃない」
「知ってる。僕は理由を聞いている」

 鋭い視線から逃げるように瞳を逸らすナールはどこかおかしい。追の手を緩めるべきか一瞬だけ迷い、ノアは瞳を伏せた。
「答えろ……お前の返答次第では別案も検討する。何故他の策を望んだ?」
「チッ……お前が行けば確実に、最大の手駒が減るんだよ」
 意表を突く言葉と苦々しげな舌打ちに全てを察し。ノアは僅かに息を飲む。
「……そんなに驚くか? 悪魔が未練がましいと?」
 苦笑を滲ませる悪魔は普段より小さく、どこか生々しく感じた。
「……いや。良いよ。そういう理由なら君の意見を聞く。どうしたい?」
「やけに優しいじゃねぇか」
 ナールはまた、今にも泣き出しそうなあの笑みを浮かべる。愛する人と同じ相貌のせいか、はたまた彼が人と同じように笑ったからか。ノアの心はざわめいている。

「優しくないよ。全て僕の為だ」
「知ってるさ」
 まるで主に倣うかのように、ナールの眉尻が微かに下がった。

 

『なぁ、お前ってさ。俺の力を使う気ねぇだろ?』
 部屋の灯りを消した時、ナールはボソリと呟いた。
 ノアは足を止め、元の姿へと戻った悪魔に諭すように告げる。 
「あるよ? 現に使ったばかりじゃないか」
『兄貴やおっさん達に頼まれた時とか、仕事でしか使ってねえ』

 相手の見透かすような紫根の瞳には揶揄も作為的な意図も見えない。そこにあるのはおそらく純粋な興味。
 ノアが下手な芝居をうったところで騙せそうにはなかった。

「……使いたくない時は使ってない、それだけだよ」
『へぇ。あくまでワタクシゴトに使わないのはお前の意志と? 得た物を有効利用せずに腐らせるのが利口だと? じゃあ……嬢ちゃんが絡めば、使うのかねぇ?』
 邪気のない素朴な表情から一転、ナールは悪魔の笑みを浮かべる。
「調子に乗るな。策を戻しても良いんだぞ」
『あーあー、わーったよ。ちょっと不思議に思っただけだっての。だってよぉ、前に言ってたじゃねえか』
「何を?」
『嬢ちゃんは|ミニアム村のノア《そのままのお前》を好いて、お前もありのままを好いてくれる嬢ちゃんを好きになったんだって。嬢ちゃんの望みはお前の望み。なのに、お前は今も、これからも自分を偽ろうとしている。今もありのままのお前をお前は望み、村人だろうが王子だろうがまんまで良いと嬢ちゃんも言ってんのによォ。何故、お前は抗い続ける?』

 悪魔の問いにノアは微かに笑って、左耳に光る真紅へと触れる。

「……居続けたいからだよ」
「ハぁ?」

 唇を尖らせ「これだから人間って奴は」と唸る悪魔に、続きを告げるのは憚られた。

 誰かを好きになればわかるかもしれない――――今更そんな曖昧な戯言は言うべきではないと。渋面のままくるくるとその場を回り続けるナールを置いて、ノアはそっと書斎の扉を閉めた。

○○○
 大衆向けの食堂兼酒場では人々が各々の話題で多いに盛り上がり、店主自慢の料理に舌鼓を打っている。
 その一角、目立たぬ端の席で。

「しかし夢みたいだな。ノア君が帰ってくるなんて! 嬉しいよ! あ、店員さん! もう一杯おかわり!」
「俺も嬉しい……ノアぁ、俺はずっと、ずっとお前が帰ってくるって信じてたんだよぉ……」

 すっかり出来上がったラングロワと涙ぐむシンハに、ノアは微笑み安堵を滲ませた。
「ありがとうございます。ラングロワ局長、シンハ。本当にご心配をおかけして……」
「いやいやいや良いんだよ、」
「そうそう! ノア君がニコッと笑って『ごめんね』って言えば万事解決だよ!」
「いや、局長軽すぎ……」
 二人の軽妙なやり取りも記憶のまま、関係性も健在なようだ。

「そうかい? 今のノア君は王子と姫のような気品と麗しさだけでなく、本物の貴族の風格を持ち合わせた優秀な医者なのだよ! 微笑めば世界平和、全てが解決するどころか、数人は天使に手を引かれてこっちに運び込まれるだろうねぇ!」
「それ怪我人出てるよな?! 全然解決してないよな?! ……あぁ、ったくもう。なぁノア、この陽気メガネになんか言ってやってくれよ……」
「ええと……うん、皆に謝る時は気を付けるよ」

 否、もしかしたら以前よりも気安い関係になっているかもしれない。
 ラングロワは分局の薬局長から複数の薬局を纏める本部総務部長に、シンハも分局の一薬師から本局、本部勤務兼任へと昇進している。四年以上同じ職場なのだ。ノアの知らない間に更に二人が親しくなっていた事は、素直に嬉しかった。
「ところでノア、お前の事だけど……これからどう呼べば良いの? ノア・オルコット?」
「シンハ君、幾ら麗しのノア君でも、遠縁なんだからオルコットの名は名乗れないよ」
 ラングロワの微笑にシンハはあからさまに不満げに唇を尖らす。
「出たよ。局長の博識タイム。で、結局なんて呼べば良いんだ?」
 シンハの問いにノアは緩く首を振る。

「今まで通りに呼んで欲しい。オルコット侯爵家とは遠縁も遠縁。僕の家も色々あって叔母が当主を務めているから。これまで通り”ノア”と」
「おう」
「じゃあこれからも”私達のノア君”で居る事に乾杯しよう! おにーさーん!」
 ぶれないラングロワにノアもシンハも笑う。

「ところで、シンハと室長に話があって……」
「ん?」
「なんだい?」

 賑わいの中、続きは赤ら顔の二人の耳だけに届く。戸惑いのまじるノアの提案に二人は一瞬だけ瞳を瞬かせ。シンハに人の悪い笑みが、ラングロワに満面の笑みが浮かぶ。

「いいぜ。そういう話なら」
「ノア君の為に一肌脱ごうかね、シンハ」
「ありがとう」
 頼もしい友にノアはほっと息を吐く。反して、拭い切れぬ不安と躊躇いは未だに胸を燻らせていた。