missing tragedy

cock-and-bull……¡

恋か愛か、欲か願いか ③

  「……嘘だろう? ……そんな……」
 ふと耳に入ってきた呻きにも似た声に、エリスは入室を告げようとした手を止めた。
 良くない事と知りつつも、中の様子が気になりトレーを片手に持ったまま、耳をそばだててしまう。
 トレー上の二つのカップからは、熱々のカモミールティーの存在を示すように湯気が立つ。
(話があるって言っていたけれど、何かあったのかな……って、いけない。いけない。盗み聞きなんて駄目だわ!)
 鼻先を湿らすそれが幸いしてか、エリスは自らの過ちに即座に気付いて頭を振る。
 いつもより少しだけ大袈裟に書斎の扉をノックし、主に呼びかけた。

「ノア、お待たせ。いい?」
 承諾の声よりも前に勢いよく扉が開き、ノアが顔を出す。困ったような、どこか泣きだしそうな、なんとも言えぬ表情でノアはエリスを通すと、さり気なくトレーを引き受け小さなテーブルの上へと乗せた。
「ありがとう。……助かったよ」
「……ありがとう」
 手渡されたカップを受け取り、エリスはノアの正面へと座る。
 林檎に似た柔らかな香りとまろやかな蜂蜜の甘みを楽しみながら、言葉を待った。素振りこそ露骨ではないが、足らぬ言葉数と床に留まり続ける視線は、明らかに彼の動揺を表している気がする。

 沈黙は長く続かなかった。
「エリス。僕は絶対に守りきると約束して、計画を話そうと思ってたんだ。ちゃんと君と話し合って、了承を得た上で……なのにまさか、こんな……。エリスはもし、僕が嘘をついて……」
 一瞬の逡巡のうち、ノアは頭を振る。膝の上で握りしめられた手は白い。

「ごめん。ちょっと色々あって、取り乱してる。困らせてごめん……」
「ノア……」
 エリスはそっとノアの手に同じものを重ねると、つと飛び出てしまった言葉の続きを探した。

 彼は完全に落ち着きを失っている。この短い間に何かしらが起こり、何かを――――おそらくエリスを呼び出したところに正解がありそうだ――――躊躇い、そして尚も狼狽を隠すことに専念せず、必死に言葉を続けようとしている。

「大丈夫」
 強く手を握って、そのままエリスはノアに抱きついた。呆然とする彼の背を撫でながら、ぎゅっと力を込める。
「ノアの決断を私は信じる。不安だったら、間違ってると思ったら……それもちゃんと伝える」
 エリスが出来る事は、責任を持って彼の背中を押す事だと思った。進みたいと望み迷うノアに、手を取る準備と覚悟はあるのだと伝える事。

「大丈夫。話があるんでしょう? 聞きたいと思って、私はここに来たの」
 再会してから、こんなやり取りを幾度も繰り返している気もするけれども。それはきっと彼の背負う物の大きさと、置かれた立場の難しさと、彼の優しさ故だとエリスは思う。
 「うるさく言ってしまったらごめんね」と続ける前に、微動だにしなかった手がエリスの背中に回り、強く抱き締め返された。
「ありがとう……エリス」
 抱擁を解き、ノアは真っ直ぐにエリスを見つめる。深い青の瞳には迷いや不安の色はなく、唇には微笑さえ浮かんでいるように見える。
「聞かせて、ノア」
 重ねた手はそのままに、エリスが微笑むとノアもほっとしたように笑った。そして一転、真面目な表情が整った顔に浮かぶ。

「エリス。折り入ってお願いがある。再来週末、隣町のオルフ男爵家の晩餐会に出て欲しいんだ」
「晩餐会……?」
 予想だにもしなかった提案にエリスは瞳を瞬かせる。

「晩餐会と言っても、ちょっとご夫婦の趣味が特殊で……商家の子息や農場主、紹介さえあれば僕達みたいな一般人でも参加出来る気軽なものと捉えてくれて良い。準備は全てこちらでする。サラ姉とあと、ベークマンさんと……」
「えっ?! ベークマンさんって、あの?」
 思わず大きな声を出してしまう。
 眉を下げるノアの様子から、やはりあのフェリクス・ベークマンである事は間違えなさそうだが。

(あの、借金残して逃げた……?)
 ノアが肩代わりしてくれたお陰で事なきを得たものの、ゾッとするような結末になっていてもおかしくはなく。彼への感情はあまり良くない。
(これはどう、捉えれば良いの? 最初からノアと組んでた……?)
 混乱のあまり浮かんだ疑惑を、すぐさまエリスは否定する。ノアは金銭でエリスに恩を売るような人間ではないし、あのような強引で杜撰な計画も彼の性格にそぐわない。

「借金の件は彼もかなり反省している。彼も半分位は騙されたような形だ。それに元々は僕のせいなんだ」
「どういう事?」
「僕の素性を怪しむ人間がいたとして、借金は僕の素性を探る小手調べになる。上手くいけばエリス達一家に近付き、屋敷を見張る口実にもなるし、僕が肩代わりすれば少なくとも金がある人間だと判断できる」

 確かにそれはその通りではあるが。
「そんな事で? 偽証書でも本物でも、サラ姉が言うように無効化の証明や手続きも出来そうだけれど」

 慌て騙された自分が言えるものでもないが、振り返ってみればあの騒動は素性を知るためだけのものとしても無計画な部類に入るだろう。
 それに些か暴力的は過ぎやしないだろうか。金や権力の為に王族と懇意にしたいのなら下手に出た方が良く、素性を知った上で失脚等を狙って襲うのなら、無謀な計画は相手の警戒を強め悪手な気がする。

「僕も当初はそう思った。けど、証書は本物、となるとエリスがサインした時に偽装魔法がかかってた疑いが強い。だから証書に残る魔法とベークマンさん周りを調べてみたんだ。結果、彼に依頼したのは素人で、その人に依頼したのも得体の知れない男。証書からは、とある伯爵家が関与しただろう事もわかった。他にも色々探ってみたけれど、結局は本当に王都から来た僕が利用しがいのある人間か、そうで無いかを判断する事が出来れば良かったらしくて。失敗しても良い、程度の気持ちで行動に移したみたい」

「そんな、それだけの為にあんな事を伯爵家が……?」
「近年は貴族も苦しいからね……犯罪に手を染める人も多くなっている。ごめんね、エリス」

 俯いたままノアは呟く。寂しげな瞳にエリスの胸も苦しくなった。
(ノアは私が被害にあった事もそうだけれど、この国の人が道をそれてしまった一因は自分達にあると思ってるんじゃないかしら。だから『僕のせい』だなんて……)

 エリスは前を向き、ノアへと微笑みかける。
「気にしないで、ノア。救ってくれたのはノアなんだから。そこを誇ってよ。で、もしかしたら晩餐会もその黒幕に関係してるの?」
「……ああ、うん」
 少しびっくりしたように息を飲んで、ノアは続きを話し出す。

「偶然ではあったんだけれども、その伯爵は僕達が目をつけていたエーミール卿とも頻繁にやり取りをしていたんだ。エーミール卿は五大貴族とも言われているフェルザー侯爵家当主の弟君で、母と出身校や職場も同じで……その、」
「ええと、親しくしていた方で、陛下ご夫妻の事件に深く関わっていると……ノアは見てるのね?」
 言いにくそうなノアにエリスは察して、後を引き継ぐ。

「ああ、おそらく。彼と母の間には師弟関係以上のものは無かったらしいけれど。……母が息を引き取った現場からある物がなくなっていて……当時、彼がそれとよく似たものを持っているとの証言があったんだ」
「え? じゃあそれを? でも待って、それだけじゃ弱くないかしら?」
 首を捻るエリスにノアも頷きを返し話を継いだ。
「うん。珍しくもない物だし、見間違えという線もある。でも実は少し特殊な物で……ただ、それを兄さん達も当初は知らなかったんだ。手掛かりになればと、手当たり次第人を使って調べて。結果、彼は所持してなかった。その後は警戒されてしまったのか、益々彼は外との接点を持たなくなり、僕達は更に調べ辛くなってしまった」

 初手がその後に響いてしまう事はよくある。例えばあの魔鉱石のゲームのように。現在一番王に近い者をあまり悪くは言えないが、一番怪しい相手の警戒を強めてしまったのは悪手だったと言わざるを得ない。

「他にも動機の面、当時の警備状況、情報入手、能力的な問題、あと事件の捜査が一向になされないという観点でも彼は疑わしい。ただ、母が他界した時間のアリバイが彼にはあるし、誰かに依頼したような痕跡も、決定的な証拠も今まで手に入れられてない」
「じゃあ今回はその男爵家に取り入って、そこから件の伯爵、最終的にはエーミール卿に近付いて……? それとももう目星が……?」
 あまりにも見込みの薄そうな案に、エリスは言いながら首を傾げる。前者は”上手くいけば”が多過ぎるし、後者はあまりにもエリスは不適任だろう。

 案の定、ノアは首を横に振る。彼は唇に苦笑を滲ませながら、困ったように眉を下げた。
「エリスに頼みたいのは”無事に誘拐され、戻って来る事”」
「誘拐……?」
「ああ。十中八九、誘拐か、もう少し穏便に軟禁辺りを目論んでくるかもしれない。オルコット家遠縁のか弱い令嬢姉妹を装って事件に巻き込まれ、合図の音が聞こえたらすぐに、サラ姉とベークマンさんとで抜け出してきて欲しい。騒ぎを起こして逃げ出すだけと言えば簡単そうに聞こえるけれど。決して安全な仕事ではないし、僕は一緒にいけない……命の保証も出来ない。だから今、話した事を忘れてくれるなら断って」

 揺れる青の瞳を見つめて、暫し逡巡。エリスは答える。
「……やるわ」
「でもエリスが最も狙われる可能せ……」
「でもも何も」
 往生際の悪い幼馴染みにエリスは人差し指を立て嘆息する。

「一つ。ノアはわざわざ私に頼んだ。すごく重要な話を。二つ。わざわざ私が断れるように退路を用意して、『命の保証はしかねる』なんて、私から断りたくなるような脅し文句まで付けた。三つ。私が知る中でサラ姉は二番目に強いし素早い。熊や何人もの盗賊をナイフ一本で倒しているのを見たことがあるわ。サラ姉なら魔法も使えるのに。それからベークマンさんはああ見えても、かなり有名な商人のお家の人よ。一緒に居る限りは相手も気を付けるはず。四つ目。私の知ってるノアが頼んだ。以上。やった方が良いと判断したから、精一杯やらせて貰います」

 きっぱりと。強引とも言える程の態度でエリスは言い切る。鳩が豆鉄砲を食ったようにノアは呆気にとられていたが、エリスがもう一度受諾の言葉を繰り返すと、眉をハの字に下げて破顔した。

「エリスには一生叶わない気がするよ」
「別に……強情なだけよ」
 照れくさくなって俯くエリスの頬に、ノアの手が触れる。
「頼もしいよ。優しくて、真っ直ぐでキラキラしてて。僕はいつも誇らしく思う」
「うっ……嬉しいけど、あんまり実態が伴ってないような……」
「ただ、騙されないかちょっと心配だ」
「そ、それは、ノアの方でしょう……!」
 つい反論を零してしまった唇にノアのそれが重なり、すぐに離れ。悪戯っぽく笑む姿に、エリスも参ったばかりに相好を崩した。
「これを……」
 手渡されたは幾つかの小瓶。ノアの表情が再び強ばる。

「睡眠薬や麻痺毒のようなものを盛られた時に備えて、何種類か薬を渡しておく。この青い丸薬だけは前もって飲むと良いと思う。薬の効きが弱くなり、遅くもなる。あとは適宜、症状に合わせて飲んで効いたふりを。どれも嚙み砕ける。物が壊れるような大きな音が合図。逃走経路はサラ姉に従って」
「わかったわ。もしはぐれた場合は?」
「彼女の能力から余程離れない限りは無いとは思うけれど、万が一離れてしまった場合は大人しく捕まってるふりをして。眠っているふりでも良い。時間稼ぎをして欲しい。その場合、合図は無視して。必ず助けに行く。あとエリスには簡単な魔法をかけてあるから」

「えっ?」
 さらりと告げられた言葉にエリスは瞳を瞬かせる。
「守護魔法みたいなものだよ。ある条件に叶う人間がエリスに触れると、少しだけ電気が走るんだ。そんなに珍しいものじゃない」
「そうなんだ……。あとは自分の身は自分で……武器とか、サラ姉にも何か習っておくべきかしら?」
 身構えるエリスにノアは苦笑し、否定の意を示す。

「武器は警戒される。その魔法はさっき伝えた効果と、二回の電撃攻撃だけ。でも有名な魔法にそっくりだから、敵に魔術師がいるなら尚更、その魔法だけでも効果はあるはず。もし誘拐され一人になってしまった時に、相手が何も理解せずに触れようとしていたらエリスが言ってあげて。『守護魔法アマデウスが怖くないのか。命が惜しければ五日間は触れずに、丁重に扱った方が良い』と」
「了解。その時が来たら大袈裟に話すわ」
「その時が来ないように、他にも手は打つよ」

 一体いつの間に危なっかしい魔法をかけられたのかはわからないが、今そこを聞くのも野暮な気がした。
「あと、これを」
 ふとノアの手が頬を掠め、エリスの左耳へと触れる。

 瞬間、青い光が両の耳元で弾け、小さな蝶にも似た灯りが宙を舞う。囁くような小ささで、ノアの唇が何かの言葉を紡いだ。
「っ……⁉」
「……僕の代わりに」
 神聖な儀式の終わりを告げるかの如く、穏やかなノアの声がその場に響く。幻想的な灯は消え去り、部屋の灯りはまた小さな電灯とランプのみへと戻っていた。

「え……と? あれ、これイヤリン……ピアス?」
 気になり触れた耳には、左右共に硬質な感触と久しく感じていなかった重みを感じる。耳朶の裏側には留め具も。
(これ、成人の時に贈り合った……)
 小ささとシンプルなデザイン、特殊な留め具。成人の儀の祝いに彼の幸せを祈り贈った、彼もまたエリスを想って贈ってくれた物と同じデザインだ。

「本当は全然足りないのだけれど……」
 悲しげに微笑み、最後に。消え入るような声でノアは告げた。
「…………ごめん、エリス」
 たった一言、幾重にも重ねられた意味がエリスの胸に重く響く。
「……大丈夫。その言葉、全部終わった時に『ありがとう』にしてみせるんだから」
 自らに誓って。エリスは椅子から立ち、ノアへと手を伸ばした。そのままぎゅうと抱き締め、顔を埋める。
 硬く逞しくなった体に刻まれた傷と、悪魔を縛る無数の枷が目に浮かぶ。
(”枷は効力の証。効力は互いに創る”……)

「任せて。か弱い令嬢を装っても、私はしぶとさを忘れずに絶対無事にノアの所に帰るわ」
 笑いを誘うように戯言めいた発言をしたはずが、何故か瞼がほんの少しだけ熱くなる。しかしその熱も、返された力強い抱擁にとけて消え。安堵と覚悟と、新たな熱へと変わっていった。

「エリス」
 柔らかく心地良い声が耳を擽る。
 このまま温もりに身を委ね、分かち合いたい気持ちもある。だが話は途中、この上から押し潰すような形での抱擁も重たいのではないだろうか。
「ノア、」
「エリス……」
 身を離そうとしたエリスを焦がれるような声がひき止めた。僅かに強ばった身体から微かな緊張が伝わって、
「本当に、僕の元へ帰ってきて後悔しない?」
 静かな問いが部屋に響いた。

 震えてもいなければ、縋るような声音でもない。ただ穏やかに告げられた問いかけ。ノアはゆっくりと抱擁を解く。
「……どうしたの? ノア」
 答える前に聞き返していた。すぐさま答えないと、そのままこの世界に溶けて同化してしまうのではないか。ふとそんな考えが浮かんだからだ。
 しかしエリスの不安も、確固たる意志を秘めた言葉によって打ち消された。

「この件が終わったら、病弱な王子はその命を終え、僕は『ミニアム村のノア』に戻る」
 揺らぎなき青の瞳に、淡い微笑が続く。
「なんの教育も受けていない病弱な王子は不協和音だ。緊迫は時に役立つけれども、ずっとは要らない。本人や身内がどう足掻いても何れは災いとなってしまう」
 微笑みながらも淡々と。自嘲も謙遜も揶揄もなく、それはおそらく素直なノアの意見。そして、大方真理でもあるのだろう。
「……だからエリスが帰る場所に王子は居ない。何一つ王子には敵わない、凡庸な僕だけ。それでも……」
 エリスはすぐさま否定しようとした。彼が薬師でも、王子でも、彼が決めた道をどうして拒もうか。ましてやその存在に対する想いや価値は決して揺るがないと。
 ところが。

「やっぱり僕は君と居たい。無事に帰ってきて欲しい」
 ノアは朗らかにエリスに伝えた。
 既に瞳には迷いも曇りもない。あるのは澄んだ深い青。夜を映す湖面を思わす、静かで穏やかな色だけ。
「ノア……っ」
滲む視界が暗転し、懐かしい香りがエリスを包んだ。
「もちろん。絶対に、絶対に無傷で帰ってくるわ……」
 エリスもまた、力強い抱擁を返して微笑む。

 それから二人は飲みやすくなったカモミールティーを片手に、来週末の晩餐会について計画を詰めていった。
 場所、時間、予想される問題への対処法等々。春の夜はあっという間に更けていく。
 国王夫妻の事件解明にナールとの約束、そしてノアとの生活。道のりは決して易しくない。

(焦らずに、確実に……。でもノアが居てくれるお陰かな。大変でもきっと大丈夫だって思えるのは)

「エリス、また一緒にカモミールを摘みに行こう」
 空のカップを見つめ、ノアは思いついたように呟く。
「ええ。もう少しすればカシスも採れそう」
 何気ない未来の話を交わし合い、二人は互いの顔を見て笑った。

 近くで梟が鳴いている。つがいが出来たのか、呼応するような鳴き声が続いた。