cock-and-bull……¡
エリスが屋敷の書斎でナールに耳打ちをした時刻よりも、少し前。
ミニアム郊外の別荘地の一角、古びた木製の門扉の前で一人の薬師がくだを巻いていた。
「悪魔に取り憑かれたんだ! 助けてくれよぉ! どうか、どうか!」
男が振り上げた手が門扉を震わす。十分程前より始まったそれにより、バルト伯爵家別荘の正門は急速に寿命を縮められていた。
今後、噂などになる可能性が無いからこそ、彼の名誉のために申しておけば。彼は二十代、とある大手薬局の本局に勤務する至って真面目な薬師である。決して正気を失っている訳でなく、誰かを傷つけたり、本気で伯爵家の門を壊そうなどとも微塵も思っていない。しかし本人の人となりや真意などは当然、屋敷の使用人達の知る由でない。
「ったく酔っ払いめ! おい、バケツに水もってこい」
「え? 良いんですか?」
「警察呼ぶよりは簡単だろ。一応上にも伝えてこい。ったく、母ちゃんの飯食ってたのによ!」
悪魔だなんだと騒ぎ立てる男を取り押さえ、庭師の男は怖じ気づく新人のボーイに怒鳴りつける。
数人のメイド達が遠巻きに見守る中、真っ青になりながら新人ボーイは手近のバケツを掴み、混乱したまま家令の元へと駆けだしていった。
∞∞∞
「だから、どう責任とってくれるんですかぁ」
主の部屋の扉から漏れる、女々しい男の嗚咽を無視するべきか。新人ボーイは暫し迷った。
しかし手が放せぬ家令から、主に直接報告をするよう言いつかったのだ。いわばこれは主人にアピールできる初めての仕事、格好の機会にほかならない。彼は思いきって扉をノックする。
入室の許可が出され、中に入ったボーイは異様な雰囲気に顔を引きつらせた。
主人であるバルトの足元には、色男風の茶の髪の青年が半べそをかきながら跪いている。洋服から出た青年の腕には無数の擦り傷。おそらく普段はなでつけられ、流行の最先端を意識した髪型も今はぐちゃぐちゃに乱れていた。
「あの……外でご主人様に悪魔払いをして貰いたいと騒いでいる者が居ますが、いかが致しますか?」
「取り込み中だ。そのままにしておけ」
呆れたようなバルトの視線がボーイにも向けられる。この状況で自分を売り込むことは難しいだろう。ボーイは瞬時に判断し、その場を去った。
「はぁ……で? どこまで話したかな?」
「だから、貴方のせいでこっちは大怪我をしたんですよ! 僕の父を知ってますか? 言いたいことはわかりますよね?」
半泣きになりながらも、青年フェリクスは重要な情報を逃さず相手に伝える。
「つまり君は、私たちを脅すのかね?」
「そんな事言ってません。ただ、秘密を守るために少し取引をしませんかと申し出ているのですよ。ちょっとばかり融通してくれれば、それで構いません」
「……詳しく聞こう」
バルトは嘆息し、内心を隠すように瞳を閉じた。
「僕はね、かねてから隣のリゾルトの魔法工学に興味がありまして」
「つまり違法出国に手を貸して欲しいと?」
「そんな、そんな!」
左肩の大怪我の痛みは何処へやら。フェリクスはにこやかに微笑み、おもむろに首を傾ける。
「バルト卿はお顔が広いでしょう? そのお力を借りて、僕は正式な手続きを踏んで留学したいのです。向こうは医術も進んでいますしね。それに私を助ければ、貴方達がお困りの時に何かと助ける事が出来ます。貴方に損はさせませんよ。これは真っ当な取引です」
断ればどうなるかは目に見えている。
経済界において、最近頭角を現してきたベークマングループ。その次男が怪しげな仕事により大怪我をした。しかもどうやら、かの噂の悪魔侯爵家と関わっていると騒ぎ立てているとなれば。
想像力の豊かな記者と根も葉もない噂好きの暇人により、あっという間にぼやは大火事に。ありもしない大爆発や噴火を仄めかす輩も容易に出てくるだろう。
加えてフェリクスの提案は非常に有益な可能性を的確に示している。
フェリクスの来訪よりも一時間程前。エーミールと談話していた事により、偶然手に入れた情報とうまく組み合わせることが出来れば、更なる効果が見込めるかもしれない。
(まあ、上手くいくかはわからんが……)
「わかった。伝手を当たろう」
「怪我もありますからね。早急にお願いします。それから、くれぐれも僕に手を出そうなどとは。二度はないと思いますよ?」
「……わかっている」
バルトは深いため息を吐き出した。
一時前までの頼りなく気弱な青年はもういない。そこには抜け目のない商売人、ベークマン家次男が胡散臭げな笑みを浮かべている。
(全く……私をなんだと思っているのか)
「明日には留学許可と魔術院付属大学への編入許可証、身元保証書を揃えておこう。あとは役所で取れる身元証明書だけ在れば、リゾルトでもフォルメルでも、どこでも行けるさ」
「ありがとうございます。さすがバルト卿」
吐き捨てるバルトに対して、フェリクスは満面の笑みを返すと部屋を去っていった。
残されたバルトは深い深い息を吐く。
「次々と……お騒がせして申し訳ありません」
「全くだ。この屋敷には勝手に人の部屋に入らねばならないという特別な規則でもあるのかね?」
不機嫌な声が壁にかかる鏡から漏れ、声を追うように男の青白い手が境を超える。鏡の中から現れた男に、バルトは深々と頭を下げた。
「申し訳ありません」
「金があっても奴らは所詮、学もなければ品もない卑しい家の者。今後は使い方を考えるか、始末方法を考えてから使うんだな」
揶揄するエーミールに内心歯噛みしながらも、バルトは愛想笑いを返すのみに留める。
「……それで、お急ぎのところ申し訳ないのですが留学許可証のサインを頂けませんか?」
バルトは机の引き出しから用意していた留学許可証を取り出し、嫌悪を隠さぬエーミールの前へと差し出した。
王家の紋の入る紙には【留学許可証】との題字。これに国立大学理事や公的機関の署長など、社会的信頼の置ける人物二人のサインと魔法印があれば。単なる分厚い紙は公的な書類として完成し、フェリクスを国外へと逃がす有力な手段となり得るのだ。
「私がか?」
「申し訳ありません。ですが、あやつに恩を売り、父親の方にも接触しておけば後々役に立つかと……例えば、先程の魔術大学の事に関しても……」
「あれは本家がどうにかするだろう! やれ経営難だの、資金調達の見込みはあるかだの! 私にまで……!」
エーミールは伯爵位を持つ独立した成人男性とは言え、件の大学の理事であり、経営する侯爵家当主の弟なのだ。少しくらいは仕方がないだろう……とは言えない。
バルトはぐっと堪え、愛想笑いを浮かべた。
「だからこそ、ベークマンの次男を助けておく事は次の布石になります。あやつに内緒で父親に仄めかすのも、なかなか見込みのある一手でしょう。手懐けるのは私が代わりますから」
「はぁ…………わかった。全く、手間のかかる奴だ。次回は豚小屋の掃除くらい自分で出来るようにしておけ」
「ありがとうございます! ああ、例の女はエーミール様の指示通り、洞窟近くの屋敷に送っておきましたよ!」
「……そうか」
バルトは苛立つエーミールに全く気付かない素振りをし、話を続ける。
「仰る通り丁重に、縄で縛るような手荒な事はしておりません!」
「……それは随分だな」
エーミールが万年筆をいつもより乱暴に胸元から取り出した事も、普段より露骨に唇を曲げた事も、バルトは気にしなかった。
美しい漆黒の万年筆が目下で文字を綴る。エーミールの呆れと苛立ちの混じる溜息を合図に、彼の右手先が光り、山吹色の螺旋まとった翼が紙の上に浮かび上がった。エーミール独自の魔法印が彼の名の横、【留学許可証】の署名欄に刻まれる。
「しばらく邪魔をするな。今後、お前の尻拭いをするつもりはない」
吐き捨てるような台詞を残して、エーミールは再び鏡の中へと消えて行く。
「はぁ。やれやれ…………これで終わるのかね」
災難続きのバルトから、安堵とも諦念ともわからぬため息が漏れ出る。
辛酸を舐め、泥水を啜り、保身に奔走し続ける生活に、本当に終止符を打てるのだろうか。
「"馬鹿な男"、か……」
半ば諦めていた己の余生を夢想し、バルトは再び存在感の薄い小さな目を閉じた。
∞∞∞
突然の出来事に、エリスは呆然としていた。
男に見覚えはない。銀灰色の髪と瞳はこの部屋のように無機質で、下がった口角と眉間のしわ、銀縁の眼鏡は硬い印象を受ける。歳は五十前後に見えるが、もしかしたらもっと若いのかもしれない。
また、ニットにズボン、革の靴と装いはラフだが、どれもエリスでも知っている名の通ったメーカーのものばかり。先程の男達とは違い、貴族もしくは富裕層らしい事が見て取れる。
「お前、動物(ティーア)じゃないな?」
鋭い視線が全身を一つ一つ突き刺していく。
すぐには意味がわからず、無言を貫いていると、男から独り言のような呟きが漏れた。
「ああ。やはり。するとあの卑しい男の化身のうち、誰かの手駒か。あの噂を流したのもお前らだな?」
忌々しそうに顔を歪め、男は続ける。
(動物(ティーア)? 何かの比喩か隠語? それに噂って……)
「お前の主は……いいや、相手はやはりカルロか? それともジーニアス? お前らはどこまで知っているんだ? ……言え。さもなくば一本ずつ骨を砕く」
男の手がエリスへと伸びていく。
「安心しろ。魔法で一瞬だ。まずは鼻か頬骨。それとも腕か……」
ゆっくりと、しかし確かな悪意をまとう動きに肌が粟立つ。銀灰色の瞳は薄く笑っていた。
瞬間。エリスの視界が一面、湖を通したように滲んで。微妙に色味の異なる青色の膜が幾重にもエリスを覆う。
呆気に取られる間もなく、二人の境で乾いた破裂音が響き、男の指先から山吹色の閃光が八方へと走った。
「ッ!」
「?!」
男が飛び退き、エリスもまた息を飲む。
(ノアの魔法……? え、ええと……)
「しゅ、守護魔法アマ……」
「お前……何故! 何故、アメリア様の加護を持っている?」
牽制や抑止力になればとの言葉は、言い終わる前に叫喚にかき消される。
感情の灯らなかった男の瞳は、今や爛々と光り、眦には涙まで浮かぶ。薄い唇は歪み、愉悦とも皮肉とも取れる笑みを象っていた。
(アメリア様……? アメリア様って、アメリア元王妃様の事……? じゃあこの人はもしかして……)
突然出てきた聞き覚えのある名が、一人の人物を思い出させる。
ノアの両親の死に深く関わった疑いがあり、今回の晩餐会潜入の目的にも関わっているであろう人物――――。
「あなた、エーミール卿なの……?」
驚きに思わず口をついて出た名は、目の前の男と寸分違わなかったようだ。
「それがどうした。私はお前に聞いているのだ。お前はどこで、あの方の加護を得た?」
「誤解です。私はあなたの言うアメリア様を……」
「気安く呼ぶな」
何者をも許さぬ冷たい声が遮り、再び骨ばった手が伸ばされる。今度は一度目よりも派手に光は弾け、エーミールを壁まで弾き飛ばした。
二重に重なる薄青色の膜も、やはり何かしらの魔法の一貫らしい。今回も僅かな間のみ現れ、山吹色の閃光が消えた頃には跡形もなく消失。魔法攻撃が可視や発現を左右するのかもしれない。
(どうしよう。もう一度あの言葉を言ってみる? でも、耳も貸してくれない気がする……)
「あぁ。どうしようか。すぐに殺さずとも観賞用とするのも……」
背を打ったエーミールがゆっくりと顔を上げる。
焦点の合わぬ瞳は熱を含ませ潤み、歪んだ唇は艶めいた笑みを造る。が、それらは何故か、とある悪魔とその周りで苦しむ影達を連想させた。
(そっくりだわ……)
冷たい汗が背中を伝う。全身を震わせるような動悸が更に大きくなり、胸が熱くなる。
(また……?)
「そうだ。もうすぐ手に入る……ならば、残影などあの方への冒涜にほかならないな……」
「っ!」
ゆらりとゆらりと。さながら屍が生への未練を持て余し彷徨うように。エーミールがエリスへと近付いていく。
(逃げなきゃ……)
頭では既に判断が下り、すぐにでも行動に移すべきだとの答えが出ているはずなのに。エリスの体は思うように動かない。
(しっかりして、早く……! このままじゃ……)
「そうか。お前のような卑しいものがあの方に近付く事があるから、私がいるのかもしれない……」
エーミールの声が薄闇を震わす。鼓膜の奥で、あの叫び達がエーミールとエリスを揶揄するように嘲笑う。
ほとんど意味を成さぬ速さで、エリスは地面を這うように後退る。エリスを青白い手が追い、不意に。エーミールの表情が驚愕と悲哀に歪んだ。
「……どうして、何故、お前もあの方と同じ……」
「っ!」
言い終わる前に、エリスは思い切りエーミールの臑を左手でなぎ払い、揺らいだ長身へと体当たりする。
否、なぎ払おうとした刹那。
胸元のペンダントが熱と共に深い青色の閃光を放ち、臑へめがけて勢いをつけていた左手先でもまた、強い光が膨らんだ。
「⁉」
「ッ⁉」
エリスとエーミールが息を飲むと同時に、鼓膜を貫くような破裂音が轟く。目もくらむような白光が室内を満たして。次いで、深い青色が瞑った瞼の裏を掠める。同時にふわりと、エリスの鼻先をベルガモットと温かな香りがくすぐった。
(……!)
「ノア!」
「エリス、大丈夫?」
瞳を開けたエリスの前には、誰よりも信頼し、信じたくも願う者の背中。淡い金の髪は乱れ、息を整える為か肩は大きく揺れている。
(ノア、だ……)
張り詰めていた何かが溢れ、エリスの頬を濡らす。
しかしそれもすぐに。
「う、うぅ」
微かなエーミールの呻き声によって、現実へと引き戻された。
エリスは唇を引き結び、エーミールとノアの挙動にすぐに反応できるよう姿勢を正す。素早く腰を上げ、膝をつき、小声で指示があっても良いよう耳を澄ませた。
「エリス、少し後ろで」
囁くような小声にエリスは頷く。
エーミールは咳き込みながらもゆっくりと体を起こした。歪められた顔には、信じられないものを見るような畏怖と嫌悪。今もって尚も、嘲笑めいた微笑みは唇に残る。
「……? お前は、」
「ノア」
鋭い声音でただそれだけ。ノアは答える。
「ッ、」
エーミールは舌打ちすると、くるりと踵を返した。
微動だにしないノアと直前の言葉に、エリスは従う。
エーミールによって部屋の扉が乱暴に閉められ、派手な音が張り詰めた室内を揺るがして数秒。ふっと緊張の糸が解けたように、目の前の肩から力が抜けた。
「エリス!」
振り向いたノアに、エリスは抱きすくめられる。伝わってきたのは温もりと、僅かな震え。彼の香りに微かに混じる血の匂い。
「ごめん、エリス……」
「ノア。大丈夫。怪我もないし、ありがとう」
「怪我、無いから良いとか……そんな問題じゃない。もっと、もっと……エリスは怒って良いんだ……」
どうしたら伝わるだろうかと少しだけ考えて。エリスはノアに負けないようにと、更に強く強く抱き締め返す。
「ノア、ありがとう。大好きよ。ノアが望むなら、帰ったらちょっとだけ怒ろうか?」
エリスが笑うと、耳元を泣き笑いに似たノアの吐息がくすぐった。益々温かくなる胸は心地よい心音を奏で、重なるノアの体からも同じ音が伝わってくる。
「お願いするよ。エリス、ありがとう。僕も君のことが大好きだ……」
「ノア……!」
ありったけの想いを込めて、エリスはぎゅうとノアを抱き締めた。
何度だってエリスは思う。そしてこれからもきっと、思い続けるのだろう。
彼の傍に居たい。今、傍に居られる事が何よりも嬉しく、誇らしい。
ふと。ノアへの不信を煽る悪魔の言葉が脳裏を過ったが、エリスは幼子に諭すようにそれに首を振る。脳内の悪魔も、実は知っていたとばかりに悪戯っぽく笑む。
いつの間にか。エリスの眦からも熱い雫が零れ落ちていた。