missing tragedy

その声、違反行為です

▽プロローグ

 会社帰り、午後八時二十五分。辺りは闇に包まれ、月明かりと住宅街の僅かな街灯のみが桜木優乃の歩く道を照らし出していた。コツコツという優乃のローヒールのパンプスの音が閑静なそこを打つように響く。その音に不可解な音が加わったのはついさっきだ。
 そしてどうにも誰かにつけられている、そう確信したのもほぼ同時だった。
 黒いマスクに帽子、そして野暮ったい便底眼鏡。極めつけは帽子の上から更にと言わんばかりに、かぶされたパーカーのフード。後ろの男はすこぶる怪しい。
 男の手足は長いし、姿勢も良い。まるでモデルのような体型だ。それなのに格好が、醸し出す雰囲気が、奇怪だった。
 極めつけは挙動である。先ほどから周りをきょろきょろ見まわしつつ、こちらの後をつけているその様はどう見てもストーカーだ。
 優乃はいつもよりも無駄に何回も曲がって、早足で振り切ろうとしてはいる。しかし少し離れたと思うとすぐにその距離は縮められてしまうのだ。
 ああ、なんで寄りによってソーシャルゲームのイベント中に、痴漢やストーカーの類にあわなければいけないのだろう。あと数時間でイベントは終了し、メンテナンスに入ってしまうというのに。
そんな行き場のない怒りと男の不気味さに気分は最悪だった。
 不意に、右肩に温度が触れる。振り向けば、件の帽子パーカー男がすぐ目の前にいるではないか。
「きゃ、ぎゃああああああ?!」 
 思わず、とても女子とは思えぬような声をあげると優乃は持っていたカバンを男の顔めがけて振り上げる。鈍い音が響き、見事彼の頭にカバンがクリーンヒットした。
「うぅっ」
優乃は真っ青になりながら、男のそのうめき声が耳に届くか届かないかの内に走り出したのだった。
(なっ、なんだったのよあれは!!)
 必死になりながら全速力で自宅のアパートについた優乃は、ようやく男がついてきてないか確認するために恐る恐る後ろを振り返った。
 よかった、誰もいない。広がるのは見慣れた住宅街の風景だけだ。カバン攻撃で怯んだのかもしれない。
優乃はホッと胸をなでおろし、大きなため息を吐く。
 女性の一人暮らしと言えば何かと用心しなければならない。それがストーカーだったり、泥棒だったり、はたまた送り狼だったり今日のようなことだったりそれは人それぞれだが。
しかし地味な肩までの黒髪に眼鏡、流行おくれの服装が幸いしてなのか。はたまた特にスタイルが良いわけでも、特別美人なわけでもない容姿が良かったのか。優乃は今まで全く縁がなかった。
 だからこそ耐性がない優乃にとって今夜のことはかなりショックだったと自分でも思う。まぁそうそうつけられることに慣れたくなんかはない。
 優乃はカバンの中の鍵を探し出すと、ドアを急いで開け中に入った。
「ふぅ……」
安堵からため息が漏れる。今日は忘れるためにも、さっさと着替えてご飯を食べたらゲームでもしよう。
 優乃はパンプスを脱ぐと、リビングへとその歩みを進めた。




『こんばんは。ゲームでもしてく?』
(はぁ……良平君いい声!! 今日は変な奴につきまとわれたけど、それさえも忘れられるいい声!! 宇留志勇将さんのイケボが毎日聞けるなんて、運営さんいい仕事してる!! )
 スマホにつないだイヤホンから流れる、あざとい少年声に優乃はクッションの上で身悶えた。
 因みに良平君とはスマートフォン音楽ゲームアプリ『音楽×彼氏』通称『おんかれ』の優乃の推しの名前である。そして宇留志勇将とはその良平君の声優さんだ。
 優乃は特別どの声優が好きと言うのはない。今回だって特別に宇留志さんが好きだったからアプリを始めた訳では無いのだ。
 ただいい声は聞いていて気分が良いし、推しの絵と声が合えば申し分はないのは優乃も同じである。
『ゲームやらないのか? 早くやりてぇんだけど』
『まあまあ、ゆっくり行こう?』
(はぁ~!!勇太君のこの俺様感と悠介君のこの癒しもいい!)
 一日の疲れをとってくれるこのアプリには感謝してもしきれない。彼氏なし、一人暮らしの優乃にとって『おんかれ』は大切な存在だった。
 不意に、ポーンというインターホンの電子音が部屋に響いた。
 急いでイヤホンを外して優乃は玄関へと急ぐ。こんな時間に誰だろう。もう夜も9時半を廻っているというに宅配便なのだろうか。
「はーい、どちら様ですか?」
 反射的に応えてしまってから、優乃はハッとした。
 思えばどこの誰だかもわからない人が来たならばまずは覗き穴から確認すべきである。これでは怪しい人の時よく使う『居留守』が使えないではないか。
 優乃はそっと覗き穴を覗いた。知り合いであることに望みをかけて。
 ところが、その望みは見事に叶えられなかった。それどころか、覗き穴から見えた人物に思わず絶句する。
(あ、あのフード帽子野郎!! )
 まさかここまで追ってくるなんて予想外だった。完全にストーカーではないか。
「隣に越してきた国本です。ご挨拶と……」
 ぼそぼそと聞き取りにくい声で隣に越してきたと言ってた気がするのだが、いやいやいや。なんの冗談だろうか。まさか隣に越してくるほど好かれているわけでも……ないとは言いきれないが、考えたくない。
 優乃はひくつく口元を必死に抑えて頭をフル回転させる。
 どうしたら早くお帰りになられるだろうか、問題はまずそこだ。
 下手に相手の機嫌を損ねては何をされるかわからない。
「あの、申し訳ないのですが、今手が離せないので今度また……」
 ありきたりな答えしか浮かばなかったが仕方がない。これで帰ってくれるといいのだが。
「じゃあ、これポストに……拾ったんで」
 そう言うと、国本と名乗ったその男性は優乃の社員証をドアの覗き穴の前にさしだした。
 そしてすぐにそれをポストに投げ込むように入れると、踵を返して去っていってしまう。
「え、」
 あっけにとられたのは優乃だ。まさかこんなに簡単に帰ってくれると思ってもみなかったというのもあるが――
(もしかして後付けてたのも、これを返すためだけ……?)
 だとしたらすべてに納得がいく。たまたま拾った社員証を渡したくて追った、しかし逃げられ、それでも後を追ってみたらそれは隣人だった、だから届けて帰っていった。
 もしこの仮定があっていたとしたら、彼には申し訳ないことをしてしまったではないか。きっとこんな夜中に来たのも、社員証がなくては明日出勤できないと心配してくれたからだ。
「ど、どうしよう」
 挨拶もきちんとできなかったし、ここはなにかお礼でも持ってこちらから挨拶し直しに行ったほうが良いかもしれない。
 しかしお礼と言っても何を持っていけばよいだろうか。思えば国本という人の好みも知らなければ、彼が一般的なお礼というものを喜ぶかどうかも知らない。 
「ど、どうしよう」
 もう一度、優乃は同じ言葉をつぶやく。お礼を言いに行くなら今週末が適当だろう。しかしもうすでに今日は木曜日……それも日付がもう少しで変わってしまう。
 大問題が発生してしまった。




 結局悩みに悩んだ挙句、お礼は菓子折り――甘いものが苦手だといけないのでおせんべいの詰め合わせ――という無難なものに決まった。
 会社帰り、珍しくデパートに赴き購入。思ったよりも早めに済んだので、金曜日のうちに渡してしまおうと決めた。
 昨今の社会事情、土日が休みとは限らないからだ。勿論、平日の七時ごろにお邪魔しているかどうかというのもわからないが、駄目ならまた明日行けばいい。それにあの格好に仕草、そして年を見るに……彼は学生かフリーターなのではないだろうか。少なくともスーツを着て働いている姿が思い浮かばない。
(あれでスーツ着てたらそれはそれで面白いだろうなぁ)
 スタイルは良いし似合うとは思うが、挙動が如何せん拙い。仕事もばっちりという感じではなさそうだ。
 それでも、彼が社員証をわざわざ届けてくれるくらいにはお人好しなのは知っている。女性の家に無理にあがることはせず、さっさと帰ることができる人だということも。
 お隣さんとして良い関係を気付けるといい、優乃は頬を緩めながらそう思った。
「き、緊張する……」
 震える手で隣人宅のインターホンを押す。
 男性宅のインターホンを押すなんて、元彼の家に二、三度訪問した以来だから……もう五年も前だ。あの頃は仕事を始めたばかりで、そう言えば形だけの彼氏もいたのだなぁと一人物思いにふける。
「はい」
 低い、眠そうな声が短くドアの奥からした。優乃はハッとしたように現実に引き戻されると、慌てて返事をする。
「突然すみません。昨日はありがとうございました。隣の桜木です」
「ああ……」
 そう言うと、彼は薄く扉を開けてくれた。ぼさぼさの黒髪に黒縁の眼鏡をかけて、眠そうな様子で顔を出す。すっと通った鼻筋と形の良い色気をも感じる唇、長い睫毛に縁どられたやや切れ長の瞳がはっきりと見えて、この人実は美形だったんだなとぼんやりと思った。
「あっ、あの、改めて昨日はどうもありがとうございました。つまらないものですが、良かったら召し上がってください」
 声が思わず上ずってしまう。だって仕方がないじゃないか。こんなイケメンに見つめられるのは慣れていない。心臓がバクバクいうし、とても身体に悪い。早く帰った方が身のためだ。
 それに、もしかしなくても寝ているところを起こしてしまったのだとしたら、尚更早めに帰るのが得策だ。
「どうも」
 意外だったのか、切れ長の瞳を丸くして彼は驚いていた。こう見ると、優乃よりもだいぶ幼く見える。年齢も五つ以上下、二十一か二といったところだろう。
 口数が先ほどから少ないが、表情が豊かなので何を考えているかわからないといった風ではない。これは大変女の子にモテそうだ。挙動が昨日のようなものばかりでなければ、だが。
「これからも何卒よろしくお願いいたします。では私はこれで……」
(いけない、いけない。ついガン見してしまった。ここはスマートに隣人のお姉さんらしく去らねば)
 優乃はそう言うと一歩後ろに下がり、勢いよく頭を下げた。その時、かけていた眼鏡がカシャン、という音を立てて床に落下する。
 そこでようやく、新調した眼鏡がうまく合わずよく外れることを思い出した。
「す、すみません」
 慌てて優乃は眼鏡を拾おうとしゃがむ。しかし悲しいかな、視力が良くないので、暗いのもあってかどこにあるのかわからない。
「あれ……?えっと、ひゃあっ!!」
 瞬間、何かにつまずいたのか足元を掬われる。これは盛大にこける、そう感じたときには身体が完全に傾いた後だった。
(まずい、顔面からいっちゃう!)
 しかし、そんな心配も杞憂に終わる。なぜなら何か柔らかいものが転んだ先に会った身体。眼鏡がなくて見えないが、クッションのようなそれが衝撃を最小限に抑えてくれたのだ。
「大丈夫ですか!? 」
 しかしホッとしたのもつかの間、突然聞き覚えのある声が耳元でする。ついでに聞き覚えのある台詞に、既視感を感じた。
(あれ? 私この声と台詞どこかで言われたような……?)
「斎藤悠介君……?」
 優乃は反射的に、フルネームを呟いていた。