missing tragedy

その声、違反行為です

▽イケボには注意です ①

 斎藤悠介君……それは優乃にとって『おんかれ』癒し枠のキャラクター名である。
 同じく『おんかれ』キャラクターの笹田勇太君の幼馴染兼お世話係のような存在の彼は、柔和な笑みと温厚な性格、そして守ってあげたくなるような少年声が相まってか、人気が高い。
 主人公との恋愛ストーリの時のみ聞ける、普段とは違う低めの声もギャップ萌えというやつか、人気の一つだろう。
 しかし優乃が悠介君の声優さんについて知っているのは、『たしか声優さんはまだ駆け出し新人のオレガノだったかセージだったか……ハーブの名前みたいな人だった気がする』その程度である。



「おい」
「はいっ?!」
 不機嫌そうな声に、優乃は現実に引き戻された。
 そう、なぜか今優乃は隣人宅の居間にいる。それもすこぶる汚い居間に。
 彼なりに綺麗にしたのか、辛うじて優乃の周りだけは空間が空いているものの、五十センチ先は闇……否ごみである。食べかけのカップ麺などは流石にないが、とにかく雑多としたもので溢れている。段ボールに紙の束、本、ゲーム機に漫画に筆記用具、洋服に季節外れのうちわなど、カオス状態だ。
「じろじろ人の部屋見るなよ……」
 もっともだが、人を通しておきながら少し理不尽ではないか。お人好しだと一瞬でも思ったなんて、自分が情けない。
 後それだけではない。彼が――国本誠司というらしい――が優乃にした罪はそれだけはない。最大の罪は何より癒し枠の悠介君像を台無しにしたことである。
 いくら中の人とキャラクターは別物といえども、これでは明日から楽しめないではないか。
「とにかく、俺が『釘谷セージ』だって他の奴らにばらしてみろ。どうなるか……その、わかってるよな?」
 これは脅されているのだろうか。第一、どうなるかわかってるよな? なんて抽象的過ぎて脅しになってもいない気もするが、彼も必死なのだろう。なんせ声優なんて芸能人みたいなものだ。身バレしてしまったらファンが家に押し寄せて大変だろうし、死活問題なのだとは思う。 
 優乃はようやく誠司がなぜあんなにも無口だったのかわかった気がした。『ああ』とか『どうも』くらいならばよほどのことがない限りばれることはないだろうからだ。
 しかし、声優さんも大変そうである。顔のように声は隠せないし、何も言わないというのも生活するのには不便だ。
「おい、わかってるのか?」
 眉根をあげて睨まれる。眼鏡の奥の瞳は先ほどのように笑っていない。優乃は苦笑しながら、誠司の方を見た。
「何かよくわからないけど、国本さんが困ってるってことはわかりました。大丈夫です、誰にも言いませんから。その代わり、お願いが一つあるんですけど」
「お願い……?」
 優乃の言葉に更に誠司は眉を顰める。ああこれは、完全に勘違いされてるなと感じた優乃は慌てて手を振った。別に彼に変な要求をするわけではない。隣人として、あくまでお願いだ。
「大丈夫ですよ、きっと国本さんが考えてるようなことではないです」
「……んだよ、付き合えとか、何か演じて見せろとか、勘弁だからな!」
「あー、前者は結構です。後者は……魅力的ですがまた今度ということで」
「じゃあ、なんなんだよ」
 そこまで言った彼の瞳には、訳が分からないと言わんばかりに困惑の色が浮かんでいる。
 優乃は深呼吸を一回すると、部屋を見渡し、身を乗り出した。あまりにも顔を近づけさせすぎたのか、誠司が身体を引く。
「片づけて下さい。部屋を」
「はぁ?!」
 素っ頓狂な声が部屋に響く。余程意外な言葉だったらしい。誠司は訝し気に優乃を見つめ返すと首を傾げる。
「なんで」
「困るんです。部屋が汚いと奴……Gが出るじゃないですか。奴らの繁殖力を舐めてはいけません。隣の部屋である私にも被害は出るんですよ?」
「だからって、なんで片づけ……」
「ばらしますよ」
「はぁ?! お前卑怯だぞ!!」
 余程この男は片づけたくないのだろうか。それに卑怯だなんて、脅してきた奴に言われたくはない。第一『付き合って欲しい』なんて言ってきてもおかしくないと思っていたならば、そのくらい条件を飲んでもいいでもいいと思うのだが。
「卑怯でも何でも、片づけて下さい。困ります。嫌なら私が片づけますけど、それも嫌でしょう?」
 すると暫し、誠司は押し黙った。何事かを考えているのか、難しい顔をして優乃との間に置かれた座卓を睨んでいる。
 そんなに考える必要もないと思うのだが、片づけるのが拷問に近いほど彼は苦手なのかもしれない。
「じゃあ、頼む」
 しばらく考え込んでいたが突誠司は真っすぐに優乃を見つめると、ぼそりと呟くように言った。唐突なその返しに、優乃は思わず目を瞬かせる。
 この男は何を頼んだのだろうか。今『片づけをして欲しい』と頼まれた気がしたのだが。
「何を?」
 つい、優乃はそう聞き返してしまう。すると誠司は少しむっとしたように優乃を睨んだ。
「だから、片づけて下さい、お願いします」
「はぁ?」
「だから、俺には無理だって言ってるんだよ! 片付けするくらいなら俺は逆立ちして町内三周の方がまだマシだ!」
 この男、そんなに片付けが嫌いなのか。ただの隣人に部屋を片付けてもらう男がどの世の中にいる。
「あんた、彼女にでも片づけてもらいなさいよ! いるでしょ?一人や二人!!」
「いたら苦労しねーよ!! だいたいいたら女なんて家にあげるかよ……」
 そこまで言って誠司はそっぽを向いてしまう。真っ赤な耳が、優乃の目に嫌でも入った。
(照れ……てる???)
 思わず優乃はきょとんとしてしまう。じっと誠司を見つめると更にうなじまで朱に染まっていく。
 何処に照れる要素があったか優乃は誠司を見つめながら真剣に考えた。しかし自分がすれているのか、彼が純情すぎるのか、まったく思い当たらない。
「見んな! こっち見んなよ! とにかくっ、俺には片付けなんて無理だから!」
 必死になって赤い顔を隠そうとする彼が可愛らしく思えて、優乃はふっと笑ってしまう。仕方ない、面白いものも見られたし、いい声も聞けたから一度だけならいいかもしれない。
「……わかった。じゃあ一度だけね。今日時間いい?あまりにも汚いから、十時くらいまで片づけたいの」
 するりと出た言葉に、自分でも驚く。ちょっと強引すぎやしないかとは思ったけれど、なるべくなら土日はつぶしたくない。それに、この土日で終わるかどうかも定かではない汚さだ。
「いい……けど。俺は別になん……」
 そこまで言って、ぐぅぅという重低音が部屋に鳴り響いた。慌ててお腹を押さえ彼がうずくまる。
「お腹……空いてるの?」
「……」
 無言だが肯定と捉えて間違いないのだろう。優乃はため息をつくと、起ち上がり誠司に手を差し出した。
 理解が追い付かないのか、彼は目を丸くしてこちらを見つめるばかりなので、仕方なく言葉を続ける。
「ほら、お腹空いてるんでしょ? ここだと汚いし、ご飯用意してあるから家来て。その後で片づけるから」
 座卓の上に置かれた彼の手を取る。我ながら大胆な誘いだとは思うけれど、今月は厳しいから外食する気にはなれないし、だからと言ってここで食べる気にもなれない。加えてもう家には夕飯の用意ができている。一人分を二人に増やすくらいなんともない。
「でも、」
 躊躇う誠司の気持ちもわかる。誰だって昨日今日出会った人間の家にご飯をご馳走になりに行くのは気が引けるからだ。
「あ、そう。なら私は食べてくるね」
「すみません、食べさせてください!」
 踵を返そうとしたら、必死な声が下から聞こえた。整った顔に縋るように、上目遣いで見上げられ、図らずも顔が熱くなってしまう。
(うっ! イケメンの上目遣い怖い!)
「なら行くよ?」
 フイっとそっぽを向いて、優乃はそう言うとその場を立ち去ろうとした。しかし不意にその手に温かい何かが触れて、悲鳴を上げる。
「ひゃぁ!!」
「ご、ごめん!」
 そうだ、思えば手を差し出したのは優乃であった。それに彼は応えただけなのだ、誠司が謝る必要なんてない。
「い、いや、こっちこそごめん。行こうか?」
 平静を装って優乃は歩みを進めた。触れられた手が熱い。隣人相手に、いくら顔と声が良いからと言って何をしているのか。意識しすぎである。
「はぁ~……寿限無寿限無……」
「どうしたの? 桜木さん?」
 後ろからする声は紛れもなく『悠介君』だ。それなのに、優乃の中でそれは少しずつ『国本誠司』へと形を変えていっていた。