missing tragedy

薬の薬 前編

cock-and-bull……¡ SS 4
 
時系列としてはエリスに求婚する少し前~ノアが王都に行った後くらい。ノアとドニの話。
 きりが良い感じで終わってますが、後編に続きます。
 ※あくまで医学的な分野に明るくない人間の書いた、適しても当たらない程度(?)のなんちゃって医学が出てきます。
 ゆるい気持ちでお読みください。




 青天の霹靂だった。

「断る」
 くだらない話はそれだけかと言わんばかりに、ドニは薬研を脇に置き、大きなため息を吐く。
 地方も地方、小さなミニアム村の小さな出張医務室で。ドニは弟子であり、助手の一人であるノアからとんでもないお願いをされた。
 弟子の顔から朱が引いていく。恥を忍んで申し出た頼みを一瞬で袖にされてしまい、ショックを受けているのかもしれない。 

「でも、」
「でもも、何も、ない。そういうことは所帯を持ってからやれ」
「それはわかっています!」
「どの口が言う? 避妊薬など作らん。どうしても必要ならば余所をあたってくれ。我慢ができない男は明日から来なくていい」
「待って下さい!」
 ドンッという大きな音が部屋に響き、ドニは刮目した。音に対してでは無い。ノアが目の前に置いた紙束に対してである。
「先生が納得されるよう、資料を用意してきました」
 解雇まで仄めかせば引くだろう。そんなドニの思惑は甘かったのか。
「こちらは数年前の魔術師協会の科学研究班による調査書です。せめてこちらを読んでから答えて下さい」

 甘かったようだ。
 見れば表に『性行為が与える心身への影響について』『環境と人格形成』とある。
 前者は確か『適度で適切な行為そのものは心身へ好影響をもたらすが、両者が心身共に一定以上の年齢を達している事、行為以上の道徳的付加価値を認める事が前提条件である』との結論だったはず。
「お前、ガキだろ」
「成人してます」
「いや、中身がガキだろ!」
「ですがエリスのことを愛してます! エリスだって……」
 中身が子供だと言うことは認めた上で、道徳的付加価値も認められるのだとノアは言いたいらしい。
「想い合ってても、そこは我慢しろ! どうせあと少しなんだろ? お前の積み重ねてきたモンに比べりゃあどうってことねぇだろ!」

 ならばとドニも言い返す。先ほどの『環境と人格形成』の内容を搦めての言葉だった。
 ところがノアは美しい顔に眉根を寄せ、鋭い視線を返してくる。澄んだ青の瞳に大の男であるドニも一歩引きたくなった。
「資料を読んでから今一度考えてくれませんか? いつも『説得するならまず明確な資料を、目に見える数字と八割が納得する論理を用意してから取り組む事』って仰ってるじゃないですか」
「それは仕事だけだ! それにそれは読んだ。読んだとて頷けるか」
「どうしてですか? 僕は五年我慢しています。十分抑圧された環境に長期間置かれていると見て間違えないでしょう?」
「それはお前の主観だ、主観!」
 ノアは一歩も引かない。それどころか、完全にこの弟子はドニを説得、もとい論破する気でいる。
 ドニは嘆息する。面倒臭い事になりそうだ。今日はノアが助手として来たから仕事が早くあがる、これは酒が飲めると喜んでいたのに。
「抑圧された状況はどこかを変えなければいけません」
「お前の考え方を変えろ」
「五年努力しました。無理でした」
 しれっと答えるノアにドニの怒りも募っていく。
 件の後者、『環境と人格形成』の中には『抑圧された環境下では人格形成に悪影響を及ぼす可能性が高い』とある。その事をノアは言っているのだろう。 
 されど。ドニには安易にノアに薬を与える事など出来ない理由があった。
 今はさっさと家に帰って酒が飲みたい。嫌な記憶も、切ない思い出も、濁った酒の中に溶かして有耶無耶にしたかった。

「お願いです。先生の気持ちは痛いほどわかります。僕を想ってのことも」
 不意に。弟子の声が弱々しくなる。
「わがままだという自覚はあります。ですがもう、明日自分の欲望が抑えられているか自信がないんです」
「その時の為に俺が薬を?」
「いえ。歯止めが効かない獣に成り下がった時、僕はきっと今の僕じゃないので。薬は使わないと思います。僕が狂わない為に結婚前に一度だけ、目標が欲しいんです。良い方法でないのはよく知ってます」
 精神を保つ|薬《もくひょう》を自ら作る為に、ノアはドニに薬を処方して欲しいと言う。

「……どうして俺に?」
「先生なら僕に作用する薬が作れるはずです」
「副作用はつきものだぞ?」
「代償もつきものでしょう?」
「俺は他人に必要以上の薬を飲ます趣味はねぇ」
「でも他人の苦しみを見過ごせるような方でもないです。それに人をよくみてらっしゃる方だ……」

 だからなんだと言うのだとは、言い返せなかった。
 ノアは危うい。細身で整った顔立ちをした優男風だからではない。もっと中身の方が危ういのだ。澄んだ青の瞳の奥底は見えず、ともすればあっさり折れてしまうような儚さが見え隠れする。
 ドニもまた、ノアと同じように人を愛し欲望が抑えられない自分を想像し恐怖した過去がある。そしてノアのように精を殺す薬を求め、大事な事を誤ってしまった過去も。
 だから、迷う。果たして薬は、薬がもたらす薬は、大事な弟子とその大事な相手を守る事になるのだろうか。

「俺でいいのか?」
「はい。先生が良いです」
 ノアは微笑む。偽りのない笑みにドニは苦笑する。
「後悔するなよ?」
「しません」
「副作用でへろへろになって、お前のやる気も無くなるかもな」
「大丈夫ですよ。僕、結構丈夫ですから」
 なんて残酷で冷静な弟子なのだろう。計画的犯行か、無自覚での言動か判断出来ない。でもきっと、ノアにとってもドニにとっても、そんな事はどうでも良いのだ。


 後日、高い位置のお日様の真下で。ノアはドニからとある薬を手渡された。
「少しだけ催淫作用あるから抑えろよ。あとどうしても眠くなる。一回分しかないからな。これで下手なことしたら俺はお前を許さん」
「ありがとうございます! 今度改めてお礼をさせて下さい」
「あーいいわ。とにかくこれ1回で精神の安定とやらを手に入れてくれよ。そんで働け。馬車馬のように働け」
「はい」
 仏頂面の師匠にノアは満面の笑みを返す。
 ドニが渡したのは自らの精を一時的に不能にさせる経口避妊薬。
 その薬にありったけの知恵と知識と日頃の感謝を込めた事をドニは誰にも言わない。
 気持ちが悪いとノアなら言わないだろうが、これ以上感謝の眼差しを向けられるのも照れくさい。
 脆くて危うい弟子の幸を願って。ドニは真っ青な空を仰いだ。