missing tragedy

元弟弟子の婚姻事情。
~己の倫理観のぶつかり合いの末、元弟弟子(既婚者)と不義をはたらくことになりそうです~

 王都から魔法汽車で半日。北星の森と呼ばれる広大な森には魔女が営む小さな宿があるらしい。
 その名も愛の館Liebe(愛情)。館主のネーミングセンスと知名度はさておき、館には実に不可思議な規則が設けられている。

 一、宿泊は夫婦関係にある者のみとする。(重婚は原則不可。但し、両者とも重婚を認められている外国籍である場合及び夫婦の子供の同伴を希望する場合は予約時に要相談。)

 一、宿泊予約は宿泊する者全員が館主と会い、正式な手順をおって行うものとする。希望者は宿場町シェル外れ、大梶の下にある小屋の郵便受けを利用すること。(詳細は郵便受けに記載)

 一、宿泊可能かの判断は館主に委ねられる。予約訪問から一週間の時を経て郵送で伝えられる。

 一、館内では共に宿泊する相手を知り、尊び合い、大切にすること。慮る心を第一とする。特定の行為だけに走るような事は以ての外である。

 一、期間中は貸切とし、宿泊客以外の入館を禁ずる。また過度の飲酒、喫煙も不可とする。外出は推奨。

 一、魔法薬の譲渡、持ち帰りは不可。館内での使用のみを許可する。

 一、値切り交渉は不可。
 などなど。
 
 このような不可思議な館ではあるが、客が途絶える事はない。
 今日も今日とて、愛の館は互いに愛し合っているが、何かしらの悩みから性行為がうまくいかない人々がやってくる。

 とある夫婦は新たな家族を望み、とある夫婦は日中の穏やかな時だけでなく夜も深く心地よく交わりたいと願い。
 そして本日もまた――。


 
 元伯爵令嬢、現『愛の館』の主である魔女エルゼ・コルネリウスは碧眼を鋭くさせ、目の前の元弟弟子へと言い放った。
「帰りなさい」
 対して元弟弟子、フォルクハルト・グラーツは彼の妻であるエアフォルクの背を撫でる。
「何故ですか?」
 甘い相貌に微笑みをたたえて、彼は見せつけるように婚姻届を差し出した。

(何故って……!)
 エルゼは目の前の男を睨めつける。

 赤みの強い赤銅の髪に金の瞳、高い鼻梁に非の打ち所ない整った顔立ちと、記憶と寸分違わぬ点は多い。
 一方で、記憶よりも体躯は鍛えられ、容姿も洗練されてた。分厚い前髪は後ろへと撫で付けられ、ひとつの寝癖も見当たらない。背丈も頭一つ高くなり、態度も百倍以上尊大になっていた。

 エルゼは濃い蒼の髪をかき上げ一呼吸するが、怒りにも似た呆れはおさまらない。ハスキーボイスが知的な印象の魔女――などという客人の前での役作りをかなぐり捨てて、持ち前の低音を響かせた。

「確かにこの国の婚姻届に間違いないわ。王家の許可も降りているようね」
 ところが。
「ええ。ちゃんと役所の印もありますよ」

 フォルクハルトは余裕綽々。
 養成所時代、共に自由奔放な師や偏屈教師陣に鍛えられた結果であろうか。尚も妻の背を愛おしそうに撫でると、平然とエルゼに正当性を示してきた。

「同居開始日、それから住まいも。俺の職業と妻との生活において、最低限の保証を約束するサインはここに……」
「そうじゃないわ!」
 あまりの事に耐えきれず、ついにエルゼは話を遮る。妻を撫でるフォルクハルトの手が止まり、黄金色の瞳がこちらを捉えた。
「何が? 条件は全て揃っていますよね? 魔女様」

 その通り。依頼については何の問題もない。現に問題がないから、彼は入館制限のかかったこの館に入れているのである。それに彼は別れ際に契った、エルゼとの約束もきちんと守っている。辻褄が合う真っ当な話をしているのだから、見蕩れるほどの余裕の笑みを浮かべてしまうのも当然だ。しかし。
 エルゼの口元がひくりと震える。

「条件は揃ってるわね。でも……でも……っ奥さんが猫なんて聞いてないわ‼」
 指摘に妻エアフォルクも「にゃあ」と同意。

 そう、問題は彼の結婚相手が人外――それも愛らしい黒猫だった事なのだ。

「言ってなかったのだから、当たり前ですね」
 にこりと笑う弟弟子にエルゼの怒りは爆発寸前。自然と青色の眼差しも語調も荒くなる。

「伝えてって事じゃないから! な、ん、で⁈」
「ごねたからですね」
「ごねたって、貴方今は伯爵でしょう?! せっかく貴族になれたのに猫と結婚したい! ってごねたって言うの?」
「いえ。愛のある結婚をしたいと縁談を断り続けていたら……運命的な出会いがきっかけで一年前に。貴女との約束は違えてないですし、良いじゃないですか」
 語られぬ間と下がった眉に全てが表れている。

 エルゼは頭を抱える。おおよそ彼の言葉に大きな嘘はないのだろう。

 彼が業火の魔法騎士と呼ばれるようになって早数年。

 元が魔術師であるが故か、二つ名の由来である彼の勇姿は優美で流麗。相手の魔物が凜々しさから服従するとの眉唾ものの噂まであるくらいだ。
 本来の所属が医療班とあって医学にも長け、指揮や事務能力も高く、皆からの信頼も厚い。今や騎士団には無くてはならぬ存在であると、近隣の田舎町でさえ噂されるほどである。

 だからこそ、つい先日までエルゼも「フォルも頑張っているんだ」などと尊敬の念を抱いていたのだが。

「良いって、いたいけな猫ちゃんをたぶらかして妻にして良いとでも?」
 とんだ変た……更に変人になってしまった。

 魔法騎士として将来有望、花形のように扱われる立場でありながらも、元々変わり者の魔術師、色恋にも興味が薄いフォルクハルトのことだ。
 適齢期の乙女達が個人的な関わりを持とうと努力する姿に、得意の魔法で逃げ回るフォルクハルト、どうにか身を固めさせたい周りの苦労と……経緯は目に浮かぶ。

 しかし一方的に惚れこまれ、巻き込まれた猫はさぞかし驚いたことだろう。多分。
「こんな、こんな可愛い猫ちゃんなのよ?! ……っまさか……」
 一瞬、良からぬ想像も浮かびあがり、エルゼは口元を押さえた。一方、そんな兄弟子の内心を察したであろう彼は、胡乱げな瞳をエルゼへと返す。

「何考えてるんですか? エアフォルクは毛艶も良くて、従順で大人しくて賢くて良い子で……俺が性的感情を持っている訳ないでしょう」
「……それは……良かったけど」

 毛艶が悪くて気ままでやんちゃな猫だったらあれこれを抱(いだ)いていたのか? との疑惑は呑み込んだ。疑惑が拭えぬだけに、これ以上の詰問は再会を悲惨なものにしてしまう気がしたからだ。

「話を進めましょう。今回俺たちが来たのは魔女様のお力をお借りしたいからです」
「お断りします」
「二ヶ月前にレオン殿下と妃殿下がご成婚なされたのはご存知ですよね」
 さらりと無視された挙句、いきなりこの国の王子が出てきてエルゼは面食らう。
 フォルクハルトは妻の機嫌を取りながら、事の経緯を話し出した。

 彼の主であるレオンは王の三番目の王子であり、他の兄弟に比べてかなり控え目な性格であるらしい。
 思慮深く思い遣りのある優しい王子である反面、真面目な彼は女性との交流経験が非常に乏しく、王子妃との夜の交流にも苦慮しているという。
 レオンは愛する妃を大切に扱いたいが、閨の際に妃を前にして冷静かつ情熱的に対応し続けられるかの自信は無い。そこでエルゼの計画と薬を利用し、妃との仲を深めたいと考えたそうだ。

「殿下は助けとなる薬をぜひ魔女様に処方して欲しいと。安全性は俺が保証しておきました」
「待って、館の規則にもあるように」
「館内に限っているのは魔女様の目が届くようにですよね。他の条項も皆、悪用されないよう、万が一の時は魔女様が責任を取れるように。ご安心を。今回は国の未来に関わる事ですから城へ来て貰います」
「待って! フォルならわかるでしょう? どれだけこの結界を張るのが大変か!」

 防御や防音、結界内で起こった特定の出来事や言語の制限など単純なものならいざ知らず。館の結界は複数の特定事項の制限による監視に加え、エルゼ側へ一切具体的な事象が伝わらないなど、大衆的な目的に反して複雑に組まれているのだ。それがどれ程大変な事か、彼が知らぬ筈はない。

「大丈夫ですよ、貴女なら。俺もサポートします。それに城の立地を見て下さい」

 彼は地図と資料を取り出し、胡散臭い笑みを浮かべたまま、やり手の商人の如く説得し始める。
(フォルめ……私が魔力と土地の問題を取り上げて拒否するって読んでたのね……)
 防犯や報酬面、日程に情報の取り扱い、この仕事を受ける事によってどんな利点と欠点があるのかも。断る理由も受けない理由も尽く潰さていく。

「わかったわよ……」
 エルゼはとうとう、憎たらしい元弟弟子と行儀良く椅子に座るその妻へと白旗を揚げた。

「にゃあ」
 猫に罪はなく、大変可愛い。
 エルゼは変わり果てた弟弟子と無垢な彼の妻――元恋人とその妻の背中を見送りながら、心労を避ける為にそれだけを覚えておくことにした。

 十日後。魔法薬を作り終えたエルゼは父からの手紙を読んでいた。

 五年前、父ダニエル・コルネリウスは騎士団の運営費横領の疑いをかけられ伯爵位を失った。
 〝不倫関係にあった事務方の女性魔術師と共謀した〟との疑いは正に青天の霹靂。妻を早くに亡くし、男手一つで娘のエルゼを育ててきた実直なダニエルは無実を主張したが、無力な父子には何も出来なかった。

 魔術師として騎士団への内定が決まっていた十八歳のエルゼは内定を辞退、養成所を去り、父も失職。
 剥奪を予期していたダニエルはせめてもとの思いからか、伯爵家の資産のほぼ全てを領地内の大雨被害の復興と補填へ使った。

 後日、ダニエルの疑いは調査と審問により全て晴れ、不起訴に。雀の涙程の資産の差し押さえも免れたが、失った諸々のものは返ってこない。真犯人が捕まり、真相が解明されぬ限りは爵位剥奪が無効となるかの判断はできず、当然、回復請求も行えない。ダニエルは知人の助けを得て民間の魔術機関の雑務に、エルゼは父の下を離れて魔法と薬学を活かした仕事を始め、今に至る。

 無論、エルゼは父に「魔法知識のお陰で良い所で働けている」と嘘をつき続けている。
 父は娘の未来を奪ってしまった。
 娘は優しい父を心の何処かで信じきれなかった。
 親子の物理的な距離は両者の後悔をも表しているのかもしれない。

「ええと【この間、フォル君に会ったよ。覚えているかい? 立派に育っていて嬉しかった。ただ、噂では大分参っていると聞いたから、もし今も連絡を取っているようだったら適切な距離を保って支えてあげなさい】って、フォル貴方……」
 猫と婚姻を結んだばかりに、民間魔術機関(よそ)に勤める父にまで心配されているではないか。
 エルゼは【近く良い報せが出来ると思う】との言葉で締められた手紙を折り畳むと、魔法薬の瓶へと視線を移した。

 とろりとした薄紅色の液体は、想い合う二人に絶大な効果をもたらす魔法薬。今も伯爵令嬢エルゼであれたならば、使えたのかもしれない。
「変な所義理堅いのよ、フォルは」

 フォルクハルトとは養成所時代に10年あまり共に過ごした仲、同じ師についた兄弟弟子の関係であり、恋人同士でもあった。
 と言っても互いに内定が決まってからフォルクハルトに告白され、交際を始めたので恋人であった期間は非常に短い。エルゼとフォルクハルトは年齢や入所年も近く、恋人と言うよりは無二の友人や切磋琢磨するライバル関係だったと言える。
 今思えば、恋心とは言えぬ未熟な想いだったかもしれない。お互い応用魔術干渉学なる人口少なき分野に魅入られた変わり者同士、同好の士に対する親愛に等しい感情とも言えたかもしれない。

 それでも、エルゼにとってフォルクハルトは誰よりも大切で大事な人だった事に変わりはない。フォルクハルトはエルゼにとって特別な相手だった。

 だからこそ事件後、父の伯爵位剥奪が決まってすぐに、エルゼは親身になってくれていた彼を手酷く振った。
 魔術師として才ある彼のあしでまといになりたくない、彼まで誹謗中傷に晒されるのは我慢ならない。――そんな自分勝手な欲望の為にエルゼは彼の厚意を喧嘩腰で跳ね除け、一方的とも言える約束を捨て台詞の如く吐いて、夜逃げ同然に王都を離れたのだ。

 その後、彼は内定していたはずの魔法技術研究所ではなく、因縁深き騎士団へ就職。魔物討伐の医療班として地道に信頼を集める中で、養成所時代から親しかった第三王子側仕えの任をも得た。髪色以外は目立たなかった容姿は一変、魔法騎士としての才能も花開いた。

 結果を見れば良かっと言えるが、就職先の急変を考えても自分の一件が当時の彼に悪影響を及ぼした可能性は高い。
 騎士としての才能は彼の才のごく一面、魔法の技術と深い理解、そして周りが及び腰になるほどの強い探究心こそが彼の天賦の才だとエルゼは思っている。

「『愛する人と幸せを見つけられなかったら、その赤い髪が滅びゆく呪いをかけてやる』……なんて、なんで私あんな酷い事を……」

 そもそも彼が「わかった。約束する」と応えたのもおかしな話だ。彼ならば一蹴、軽蔑に値する人間だと判断し、共に居た記憶をも消し去るだろうと踏んでいたのに。
 彼が猫との婚姻に至った発端もエルゼにないとは言い切れない。覚えている限りでは、エルゼと交際する以前の彼は恋愛に一切興味がないと公言していたはず。
 急かされ続ける婚姻、信頼関係を壊された諸々のエルゼとの約束(過去)によって形成されたであろう恋愛に対する恐怖等、複数の要因から苦肉の策として愛する猫との婚姻に至った。……とすれば、エルゼにも責任の一端はあるだろう。

「……やっぱりフォルはまだ」
 その時、リィンと脳内で軽やかな音色、結界への侵入を報せる合図が響き渡った。
「アライグマでも迷い込んだのかしら?」
「エル」
「きゃあぁッ?!」
 背後からの突然の声にエルゼは飛び上がる。
 振り向けば、息を切らしたフォルクハルトが胸を押えているではないか。
 無理に結界を破って入館したのだろう。騎士団服の黒衣は乱れており、辺りには魔法使用を示す紅の燐光が舞っていた。

「大丈夫?! フォル!」
「ええ。それより困った事に」
 フォルクハルトは息を整えると、一層眉根をひそめる。
「うるさい輩が……秘薬の安全性を示せと」
「え? それなら、薬の成分と加工に使った魔法を書いて……」
「それじゃあ納得しない相手なんだ」

 フォルクハルトは恨めしげに首を振る。彼の頬が上気しているのを察知して、エルゼはようやく彼の言わんとしている事を理解した。
「……確かな証例が必要なのね?」
「……ああ」

 その場が静まり返る。
 エルゼもフォルクハルトも浅はかだった。思えば一国の王子夫妻に使うのだから薬の効果と安全性を証明する事は必須。口外禁止の極秘案件ならば、推薦人や薬の開発者がそれらを己の身で示せとの要求も不思議でない。
 しかし現在二人は他人同士。しかもフォルクハルトに至っては曲がりなりにも既婚者である。
 不貞行為は倫理的にも道徳的にも決して許容出来ず、館やエルゼの『人としてまずは相手を大事に』との主義にも反するものだ。
 だが、かと言ってグラーツ夫妻間で証明するなど言語道断。
 万が一にも任務の為と彼が気の迷いを起こしでもしようものなら、エルゼはすぐさまフォルクハルトを殴って昏倒させ、彼女と逃げるだろう。その後は責任を取ってエアフォルクと一緒に暮らしてもやぶさかでない。

 夫婦間の性交は(エルゼの倫理的に)認められないが、断るのが妥当との判断もフォルクハルトだけでなく王子夫妻の面子を考える限り難しい。
 煩い輩が厄介な相手でないとは考え難く、場合によっては国際問題に発展しかねないからだ。

「……わかったわ」
 ふと浮かんだ許せぬ感情を振り払うように、はぁと大きな溜息を吐いて。エルゼは真っ赤な顔でフォルクハルトを睨むと、低く険しい声で言い切った。
「私が……やる」
 単体で聞けば殺人を決意した者のような台詞に、フォルクハルトは顔を曇らせる。
「でも」
「大丈夫。それっぽい所で男の人に声をかければ」
「……っ⁈ それ、どういう事だよ」

 具体的な話がまずかったのか。咎めるように腕を掴まれ、エルゼは不快感に眉をひそめた。

「失礼ね。どういう事をしようとしてるかくらい、わかってるわ。相手には悪いけれども事情はぼかして、乗ってきたら茂みかなにかにうまく誘導すれば経費は最小限に……」
「どうして、そんなよくわからない男と」
「よく知らない方が都合が良いでしょう」
 エルゼは吐き捨てるように告げる。

 効果が示せればそれで良いのだ。
 大切で大事なのに、もう触れてはいけない相手よりはずっと良い。お互い割り切った一夜限りの関係の方が楽だろう。
 腕は熱く、胸は痛かった。
 エルゼの不快感の正体は捨てきれぬ想いと浅はかな己への怒り。一瞬でも合法的にフォルクハルトと触れ合えるかもしれないと、期待してしまった自分が情けない。
 独り森に引きこもり、理想の愛を謳っては、自分には叶えられぬと他に求め続けた魔女の末路。そんな滑稽な図がエルゼの脳裏に浮かぶ。

「でもそうね、協力金をこちらから渡すのが筋よね。大丈夫よ。相手の居場所もきちんと抑えて、万が一に備えて後で連絡もできるようにすれば……」
「だから、」
 ぐいと腕を引かれ、エルゼは思わずよろめいた。驚く間もなく、エルゼの体は温もりに包まれる。
「なんで選択肢がそっちなんだよ」
 焦れたような掠れ声が耳朶を擽った。
 みるみる顔が熱を帯び、鼓動が速くなっていく。
 たった一言の彼の言葉に、行動に、成長した硬い胸板から伝わってくる速い心音に。エルゼは激しく動揺してしまう。

「フォ、フォル?」
「エル」
 懐かしい呼び名にエルゼの瞼は熱くなった。
(フォル……)

 吹き抜ける風が涼しい中庭、木漏れ日が部屋の片隅を照らす図書室。
 笑い合い、共に切磋琢磨し、時々意見が食い違っては話し合い、仲直りして。
 強く抱き締められ、もしかしたらずっと肩を並べて過ごせるかもしれないと抱き締め返したエルゼに、泣きそうな顔で「わかった。約束する」と答えるフォルクハルト。
 まるで絵本の頁をめくっていくように、次々と過去だと言い聞かせたそれらが蘇る。
 取り戻せたらどんなに良いかと、訴えかけてくる。

(なんで今、思い出すのよ……)
 どうにかして振り払おうとエルゼが唇を噛んだ時だった。

「殿下ご夫妻のことが終わったら、エルに告白するつもりだった」
「えっ?! ええっ?!  何を?!」

 衝撃的な事実をさらりと告げられ、思わず瞳を見開いてしまう。
 聞き間違えでなければ、そして思い違いでもなければ。それはこの愛の館の掟を破るようなとんでもなく不誠実な言葉ではないだろうか。
「まさか俺の秘密の趣味でも明かすとでも? そのまま、エルへの気持ちと交際申し込みだよ」
「どうして?! 貴方、猫、エアフォルクちゃ……さんは?! 立派な不貞行為よ?! 事情はあれど、彼女と生涯を共にすると国と神に誓って結婚したんでしょう?!」

 そこまで言いかけて違和感に気付く。
 生涯を共にする……とは随分と曖昧な言葉であり、飼い猫の場合は珍しくない関係性とも言えるのではないだろうか。

 それに多分エアフォルクは主人が構ってくれない事には不服を申すかもしれないが、交際に関しては特に何も思わないだろう。多分。
 フォルクハルトが誰か他の女性に心を寄せようと、(またエアフォルクが他の雄猫に心を寄せようと)双方の結婚に至る事情を鑑みれば問題は通常の夫婦間にくらべて些末とも言える。

 しかし果たして、あのフォルクハルトが端から不貞を働く前提で、諸々の面倒から逃れる為にと結婚を選ぶだろうか。
 彼ならば如何様にも理屈を捏ねて回避できそうな問題に対して、国やら神やらを巻き込む解決策を選ぶだろうか。

「……もしかして、結婚、殿下の為に?」
 導き出された答えにフォルクハルトは頷く。
「殿下は聡明で懐の深いお方だ。あの事件の時、|俺《・》を救ってくれたのも殿下だった……だが、優しすぎるが故に妃殿下との関係に悩まれている。愛の館の評判は俺の耳にも入っていたし、エルの作った薬と結界なら信頼できるとも思ったんだ」

「……よく反対されなかったわね」
 全く、この一言でしかない。

 自分を卑下する趣味は無いが、実際エルゼが王子夫妻の事情を知る臣下であれば、フォルクハルトの案には反対していただろう。
 呆れるエルゼに、フォルクハルトは苦笑交じりの笑みを零す。

「そこはまあ、色々やり方もあるから。それより、問題は館の規則だった。殿下と妃殿下が出向く訳にはいかないし、エルの結界の強固さは俺がよく知ってる。エルの性格上、一つの結界にするなんてこだわりは捨てて、その分有事の探知機能や防御機能の速度や精度を上げてるんじゃないかと思って」

 フォルクハルトの推測は当たっている。
 現代魔法は法則と論理を友に、魔法による産物は精密機械を双子兄に持つ。
 もちろん結界も例に漏れず、非常に緻密で繊細なものと言える。
 そして複雑な規則を術式として組み込めば組み込むほど、現段階では強度や精度も落ちやすい。
 愛の館の場合、客の外出の度に規則に則っているかの判断をするよう組み込むとなると、都度負荷がかかり、修復魔法をも余儀なくされるだろう。

 だからエルゼは館の結界を簡略結界にし、幾重にも重ねる事にした。
 一度館の入館許可が降りた者に対しては複数の結界を無効化。魔力消費を抑え、その分、一番外側の結界に迷い込んだ者や破った者を穏便に森の外へと送り届ける機能を付けた。

「実際色々探ってみたら、予想通り。協会の会報に載せたいくらいだ。ひとつひとつの結界の出来に、術式の美しさに、改めて感服した……エルも男避けしてるとは思わなかったけど」
 調査当時を思いを馳せているのか、フォルクハルトは瞳を伏せる。

 彼の言う通り、この見栄えの悪い方法には別の利点もある。
 万が一、魔術師や観察者(ウォッチャー)の目に止まったとしても、未熟さを表す歪な簡略結界を堂々と見せてくるような取るに足らない魔術師だと見くびってくれる点である。
 つまり魔除ならぬ厄介な魔術師避け。
 魔力を持つ不法侵入者に対しては頭数分だけ鐘がなるので、魔鳥の群れがうっかり入ってきた日だけは脳内がうるさいことこの上ないが、己の力の誇示に固執する戦闘狂や魔力を餌にする黒の魔術師、魔力至上主義者など、面倒事回避にはとても役に立つのだ。

 とは言え、真に賞賛されるべきはフォルクハルトの方である。
 エルゼの性格や癖から結界の仕組みを推測することはまだしも、外から観察して構造を把握、短期間で術式を解読……と。それほどの能力があるならば、国内どの魔術研究所からも重宝される人材と言えるだろう。

「入館制限と結界の目星はついた。そこで、殿下ご夫婦を慕う気高き彼女に鶏肉一生分を献上し、入館の為に一週間の間ご協力いただくことにしたんだ。神は身を呈して国を守る行為を禁じていないし、政略結婚や貴族間のやむを得ない事情による離婚も認めている。エルの魔法を破る事なく堂々と館にも入れる。名案だろう?」
 茶化すフォルクハルトにエルゼは言葉を失う。

 思えば彼はそういう男であった。
 傷付いた彼を励まし、才を見抜いて導いた主。その恩ある主の為ならばフォルクハルトは迷わず猫とも結婚する。犬でも魚でも躊躇いなく、周りさえも納得する答えを用意して事に取り組む。
 過去、うまく魔力を操れぬ彼に手を差し伸べ、魔術の奥深さや喜びを教えた師が、あらぬ噂により窮地に陥った時のように。
 教授が人工星緑花の魔術解析の匙を投げ、全責任をエルゼに負わせようとした時のように。
 彼ならば、試行錯誤を繰り返しながら計画を完遂、円満な答えを導き出すだろう。ただ、己の犠牲のみを厭わずに。
 
 憎たらしい程に目的に貪欲で、|飄々《ひょうひょう》とした態度な癖に、その実は非常に不器用で純粋。
 策を練り、何も知らぬ人々を動かすことも可能だが得意ではない。己の能力や感情の客観視もできるが故に、合理的判断の下の自己犠牲には躊躇いがない。むしろ第一候補に挙げてくる。

 思えばフォルクハルトは、そんな愛おしくも危うい弟弟子だった。

「エルの反応は予想通りだったから複雑だったけど……」
「予想通りって……驚きながら受け入れるか説得するかの二択じゃない。それに騙すなんて! なんで最初から言ってくれなかったの!」
「お返し、だ。それにエルなら猫とって時点で全部読めるかと思ったんだよ。もし約束をちゃんと覚えていてくれていたなら、確信が持てずに少しは俺への気持ちを思い出してくれるかもしれないし」

 エルゼは思わず呻く。
 彼は気付いていたのだ。
 五年前の約束の言葉「愛する人との幸せ」にエルゼを除外する言葉を含めずに、わざと逃げと期待を残した事も。約束を果たす為に気に留め続けるとの言い訳が含まれていた事も。
 そして自分の性格を誰よりも知っているが故にエルゼが一件の推測に翻弄され、揺らぐであろう事も。

「本っ当に貴方って意地悪」
「可愛げ無い弟弟子だろう?」
 おどけるフォルクハルトの肩をエルゼは叩く。力は入らず、拳は肩を撫でるように落ちていった。
 涙は滲んで、引き結んでいた唇は苦笑を象ってしまう。

「そうね。フォルは呪文だけに飽き足らず、くだらない約束まで一言一句覚えているし、せっかく皆の信頼を得たのに、自分勝手で騒がしい元恋人に今も振り回されっぱなし……馬鹿よ。可愛くない。愚かだわ……」
「エルが言うならその通りかも」

 下がる眉に、和らぐ黄金色の瞳に、胸が苦しくなる。
 エルゼとの人生を選ばなければ、彼はきっと幸せになる――別れ際のそれがいかに身勝手な押し付けであったか思い知る。

「そうよ……いつまでも心配させないでよ……」
 絞り出した声ごと、エルゼはフォルクハルトに抱き締められた。
 彼の抱擁はいつだって温かく、言動はどんな時もエルゼを一番に想ってのもの。
 なのにどうしてか、フォルクハルトと過ごす時がこんなにも心地好い理由ばかりは、いまだうまく言葉にできない。

「これからは口うるさくて賢いエルの傍に居るから安心だな。振り回されるのも俺の性癖だと思えば、全て一件落着だ」
「ばか、変態」
「ああ。馬鹿で変態で卑怯な俺だから、どうしてももう一度エルの傍に立ちたい。ずっと触れていたいんだ……エルの呪いが残ったまま殿下に仕える人生も、それはそれで良いとは思ったけど」

 向けられた眼差しはふざけた台詞に反して、今にも泣き出しそうだ。
 不意に、懺悔という残酷な二文字がエルゼの脳裏を過る。

 エルゼはあの日、フォルクハルトを守りたいがあまりに彼を傷つけ、逃げ出した。彼は生まれ持ったほんの少しの才と積年の努力により得た能力を認められ、充実した生活を送っていた。――エルゼはそう思っていた。

 優秀な魔術師は愚かな兄弟子から解放されたことで、より研鑽を重ねられるようになり、結果的に魔法騎士として大成した。――皆はそう思っていたかもしれない。

 では、フォルクハルトはどう捉えたのだろうか。

(馬鹿なのは私だわ……)
 そもそも彼は見え透いた嘘をつき、暴言を吐いて逃げた女に対して怒りを抱くほど素直だろうか。
 自らには関係のないことと疑問を放り、特段思考することもせず、相手を記憶から消し去れるほど器用だろうか。
 あの堅物で、理屈屋で、義理堅くも手厳しく、良くも悪くも探究心の強いフォルクハルトが、エルゼの一件を放置し、己の幸運をも全く疑わずに華やかな生活を甘受するだろうか。
(フォルは……私があんな事をしたから余計に、自分だけが助かってしまったと思ってしまったんだわ。そんな風に思う必要なんて最初からないのに……全部、フォルの力なのに……)

 エルゼはそっと手を伸ばし、赤銅色の髪を撫でた。視界が滲んで、確かに在るフォルクハルトに精一杯の微笑みを送る。

「今も私の気持ちは変わらないわ。貴方には幸せになって貰わないと」
「それは俺が望んでいた返事と受け取っても?」
 迷いなくこくりと頷いて。
「困るのよ」
 エルゼは目の前の弟弟子と同じ満面の笑みを返した。

 
 
 フォルクハルトに導かれるまま隣室へと入ると、頬に長い指が触れた。剣を握る彼の指に一切の記憶はないにも関わらず、優しくも遠慮がちな触れ方はひどく懐かしい。
 飲んだばかりの秘薬は体格や時間、二人の関係性を考慮しても、互いにまだ効果を発揮するに至っていない。
 にも関わらず、エルゼの頬は既に熱く、心臓は破裂してしまいそうなほど速く動いていた。
「エル……好きだ」
「?! ず、随分素直ね」

 突然の真っ直ぐな言葉につい、エルゼは可愛げのない返事を返してしまう。
 色々と性急すぎないか……と続けて文句を言って照れ隠しをしておきたいところだが。依頼の完遂はエルゼの信条。フォルクハルトと側近らとの関係や王子夫妻への恩もある。
 それに一時前まで、見ず知らずの男に同衾の協力を仰ごうとしていた性急な人間が言える台詞でもないだろう。

「フォルは素直さの切り替えが……昔からバランス悪いというか」
 羞恥心を持て余したエルゼが、訳のわからぬ悪態をつき俯くと、頭上から苦笑が漏れた。
「なら、ずっと素直になろうか?」
「それはもうフォルじゃないけど……フォルはフォルで、そのままで良いのだけど」

 エルゼの煮えきらぬ言葉にフォルクハルトの苦笑は満面の笑みに、間もなくして艶を含んだ微笑へと変わる。
 額に柔らかな感触が降ったかと思うと、エルゼは軽々と抱き上げられ、ベッドへと運ばれる。魔法による光の粒が舞うと部屋の灯りが落ち、足元の淡い灯りと窓から降り注ぐ月光のみが残った。

「フォル……」
 流れるように覆い被さり、自らの上着のボタンを外し始めるフォルクハルトにエルゼは真っ赤になってしまう。
 熱っぽい眼差しを向けられるのも抱き締められるのも初めてではないが、この先の事はまだ経験のない世界。互いに明確な意思を持って同じベッドを使うのも初めてならば、転倒以外で彼に覆い被さられるのも、彼の素肌をまじまじと見るのも初めてである。
「可愛い妻にそのまま好きにして良いって言われたんで」
 シャツをも脱ぎ捨て、フォルクハルトはにこりと微笑む。
 眼前にさらされた体躯はたくましく、エルゼの想像以上に艶めかしい。

「いっ、言ってな……くもないけど! その、妻ってまだ……とっ、とにかく節度は守って……っ」
「ああ」
 言い終わる前に、エルゼの両手にフォルクハルトのそれが重なった。エルゼの反応を堪能するかの如く余裕のある艶笑とは裏腹に、両の手の力は弱くない。
 薄明かりの中で黄金色の瞳は煌めいていた。

「エル、口付けても良い?」
「い、良いに決まってるでしょう⁈」
 緊張故の情緒にかける返答になってしまったが、フォルクハルトは口元を手の甲で押え、肩を小刻みに揺らして笑うばかり。気にする様子はない。
「そんなにおかしい?!」
「ああ。変わってないなと思ってさ」
「フォルと違って私は数年で変われるほど器用じゃないもの」
「そんなに俺、変わった?」

 軽口に似合わぬ悲しげな色をフォルクハルトの笑みに見た気がして、エルゼの胸はぎゅぅと苦しくなる。
(変わったわ……色々と。びっくりするくらい。でも……)

「……まあ、そうね。私を揶揄う技術に磨きがかかったと言わざるを得ないわね」
 エルゼはすねたフリをして、頬を膨らませる訳にもいかずに鼻を鳴らした。
 おそらく彼の生真面目さも、軽薄な言葉を照れ隠しにするところも、人を寄せ付けぬ美貌に隠れる優しさも、好ましいと思っていたところは変わっていない。変わったであろうところについても、好感こそあれ嫌悪感など抱いていない。けれど、その原因を彼の口から聞くのは耐えがたいので誤魔化しました――とまでの本音は言えない。

 そんなエルゼを全て理解しているのか。
「エルに再会した時にたくさん褒められたかったから」
 フォルクハルトはエルゼの恐怖を吹き飛ばすような満面の笑みで冗談を告げて「今夜もこれからも、もっと。俺の成長を知って貰おうと思ってる」とまで付け足してくる。
 まるで現在も過去も未来も。フォルクハルト自身がエルゼと共に居たいと望んでいる、望んでいた、望んでいくのだと誓うように。

「覚悟して、エル」
「望むところよ……わ、私だって負けないわ! それに貴方の成長だけじゃなくて衰えだって、きちんと見るつもりなんだから……」
 勢い余ってあらぬ方向に話を進めるエルゼに、フォルクハルトは吹き出す。
「それはありがたいな」
 屈託のない無邪気な笑みはやがて、甘く柔らかなそれへ。愛おしげな眼差しがエルゼを捕らえる。

「好きだ。エル。エルの良い雰囲気を緊張で壊す所も。全部。全部、好きだ」
「っ……フォル……私も」
 続きは全て、どちらともわからぬ甘い吐息に変わった。フォルクハルトの唇がエルゼのそれに重ねられる。柔らかな感触を味わうように、甘い唇に溺れるように。フォルクハルトはエルゼに口付ける。
「んっ……あっ……」

 幾度目かの触れ合いを経て、エルゼの下唇を熱い舌が撫でた。ぴくりと肩が揺れてしまったのは驚愕か、快楽の予感に反応してしまったからか。答えを自覚する間もなく、熱いそれは口内へと入り、上顎を撫で、怖気付くエルゼの舌を捕らえてしまう。
 ぞくりと愉悦が背を走り、堪らずエルゼは身を震わせた。
 深く合わさっていた唇が離れて、淫らな銀糸が後を追う。薄闇の中で、欲の灯る黄金色の瞳が見えた。

「薬は安全性だけ報告すれば済むことだから……媚薬の効能とか、良かったところとか、改善した方が良いところは……俺だけに教えて」
 フォルクハルトはエルゼを抱き締め、「報告書で妬きたくない」と頬擦りして甘えてくる。首筋に唇を当て、エルゼの反応を見ながら舐めてくる。
 独占欲を隠さぬその様子は、さながら赤毛の猫。

「もう、んっ……フォルったら……っ」
「エル……ところでこんなに刺激的な格好で……」
 骨ばった左手がエルゼのブラウスのボタンに触れた。異論を唱える間もなく彼の指がボタンを外――すかと思われたが、実際は外さなかった。正しくは外せなかったのだ。
 どうやら当の本人も想定外だったらしい。フォルクハルトは少々バツが悪そうに起き上がると、両手でエルゼのボタンに取り掛かり始める。

「ごめん、こんな筈じゃ……予定ではもっと滞りなく外せるはずで……」
 恋物語で活躍する美男子のように、薄暗い中、片手で難なくボタンを外せるとでも思っていただなんて。用意周到なのか夢見がちなのかわからないところが面白く、愛おしい。

「大丈夫よ、フォル」
 エルゼは緩む頬を抑えながら、ふと、気になる文言へと話題を移す。
「ところで、そんなに刺激的な格好だった……?」
 返事の代わりに返ってきたのは拍子抜けしたような表情。ようやくエルゼは彼の言及通りに失敗を重ねてしまったと気付く。
「つ、続けて!」
「そうか、魔女様としては気になるか……。ごめん。刺激的って言うのはその、業務に支障が出そうな格好だと指摘したわけではないんだ。服装についてはきちんとしていて、良いと思う」
「良かったわ。いつも似たような感じの服で接客してたから」

 ほっと胸を撫で下ろすエルゼにフォルクハルトは微苦笑すると、最後のボタンへと手をかける。
「すごく素敵だ。きっちり上のボタンまでしめて、着込んでいるのもエルらしいし、安心。だからその、さっきのは俺にとっては刺激的だったって意味で……」
「ああ、色のこと? たしかに正装と比べると……?」

 ただしそれも致し方のないこと。フォルクハルトやエルゼが好むような由緒正しき魔術師の装いは、一般的には不気味で不評なのだ。そうエルゼが説明する前に。フォルクハルトは首を振る。
 同時にブラウスがはだけて、温かく大きな手が薄い下着越しにエルゼの両胸を掴んだ。
「全て、だよ」
「っ?! フォ、フォル!」
「色も落ち着いていて、清潔感があってエルによく似合ってると思うけど。だからこそ禁欲的で、俺にとっては何もかも刺激的だ」
「そ、そうじゃなくて?! いえ、わかったけどそれよりフォルの手が……っん」

 抗議にも紛う声が、決して静止を求めての本心からではないと理解しているのか。フォルクハルトはエルゼの両胸を包み、感触を確かめるように揉み始める。優しくも、もどかしいくらいに遠慮がちなそれに、エルゼの熱は上がってしまう。

「柔らかくて可愛い」
「馬鹿……っフォル……んっ……やぁ、も……へ、変態」
「俺もそう思う」
 羞恥に身をよじって苦し紛れの悪態をつくが、フォルクハルトの不埒な手は止まらない。
「でも仕方ないとも思う。好きな人の下着姿の妄想だけで人前に出られなくなるほど興奮できる男を普通だとか、一般的だとかは……少なくとも俺は胸を張っては言えない」
「えっ?!」

 大真面目に伝えられるとんでもない告白に目眩を感じる間もなく、フォルクハルトの指がエルゼの胸の先へと触れた。瞬間、エルゼの内に得体の知れぬ何かが走る。
「っ……」
「もしかしてエル、感じてる?」
 そこに揶揄する色はない。おそらく彼に他意はなく、素朴な疑問、或いは期待を込めての確認。彼なりにエルゼの反応を知りたいだけなのではあろう。

 しかしだからと言って、素直に首を縦に振れるほどはまだ、素直にはなれないのだ。
 じっと反応を待つフォルクハルトに、エルゼは無情にも首を横に振った。
「違うっ。全然、このくらい日常の範囲内よ。そんなあるわけないわ。それこそ猫や子犬を抱っこしても、ほら、この程度の触れあいはあるもの」
 他にも着替えや散歩程度の運動でも起こりうる程度の接触に、特別性的な感情を抱くなんて……とのエルゼの強がりは、どうやら曲解して伝わってしまったらしい。
 フォルクハルトの薄い唇から久方ぶりの|好敵手《ライバル》時代の悪戯っぽい笑みが零れて。

「へえ。猫や犬、ね。そいつらはエルに日頃から随分と仲良くしていたみたいだね。野生も忘れて、エルの肌に触れていたなんて」
 意味深長な言葉が続く。
「え? フォル、普通の猫ちゃんよ? なにか勘違いを……」
「大丈夫、知ってるさ。毒虫の防虫効果はあっても動物の出入りはあったから当然、万が一のことも、エルの結界なら多分ないだろうけど……盲点だったなと」
「フォル??」
 結界に防虫効果はない。はずだ。盲点、それが欠点と同義ならば、あっただろう。
 そんなどうでも良い思考は、彼自身によって遮られる。

「馬鹿みたいな見栄なんか張らずに、エルにもっと早く会いに……もっと早く、終わらせたつもりなんて微塵もないって伝えれば良かった」
 苦笑を滲ませながらも、フォルクハルトはちゃっかりとエルゼの下着を取り払う。
 無理やり押し込められていた二つの膨らみが解放され、フォルクハルトから悩ましげなため息に続いて、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。

「あ、あの、」
「すごい、綺麗……」
 ぽつりと、飾らぬ言葉が零れる。恍惚とした表情は再び漏れ出た吐息をはさんで、やがて満足気な笑みへと変わった。
「触れてしまうのが勿体ないくらいだ……」

 付き合いが長いからこそ、はにかむ彼が本音をエルゼへと告げていることは明白。そして見よう見まねの口説き文句でないからこそ、質(たち)が悪い。
「エル、」
「フォル……っ、やぁ」
 少しも迷わず、フォルクハルトはエルゼの胸を食んだ。
 ねっとりとした舌が敏感な肌を舐め上げ、エルゼの肌が粟立つ。鼻に抜けたような甘ったるい声を我慢したのも束の間。
「っは、可愛い。エル、声も可愛いから、我慢しないで」
 フォルクハルトは難易度の高いお願いを告げると、エルゼへと深く口付けた。

「……エル、好きだ……っん、エル」
 熱いそれはエルゼの舌へ優しく触れ、溶け合うようにゆっくりと絡め取っては、少しだけ息が苦しくなったのか名残惜しげに離れて。甘い吐息と心底嬉しそうな笑みが見えたかと思うと、また柔らかな感触がエルゼの唇へと合わさる。
「私も……フォル」
「エル」
 数え切れぬほどの口付けを重ねて、フォルクハルトは再びエルゼの胸の先を口に含んだ。
 快楽と羞恥にエルゼの体がぴくりと震える。そんなエルゼを熟知しているかの如く、フォルクハルトは桜色の先端を吸い上げる。

「あ、や……フォ、ル……」
「……やっぱり、エルはここが好きみたいだ」
「ちが、ちがうっ」
 必死に首を振り、もどかしさに敷布を蹴り、涙目で訴えても無駄だ。薬の効能以上の身の内を焦がす熱に、フォルクハルトに触れられる度に駆ける悦びに、エルゼはもう気付きかけていた。
「そうなんだ? エルがそう言うなら……ひとまず今夜はそうだったと覚えておこうか」

 好戦的で生意気な弟弟子の顔を覗かせながらも、彼の表情は柔らかく、熱っぽい。
「もっと確かめさせて」
 好奇心か悪戯か。彼はエルゼに見えるようにと言わんばかりの仕草で、朱に熟れていく先端を舌で舐る。
「も、フォルっ……あぁっ」

 胸を吸われ、膨らみを愛でるように舐められては紅い蕾を擦られて。エルゼは身を捩り、疼く下腹の奥に耐えられずに敷布だけでなくフォルクハルトの足まで蹴ってしまう。

 逃れたいのか。もっと深く囚われたいのか。
 羞恥心に揺れるエルゼへ、フォルクハルトはところどころ手間取りながらも残った衣服を取り去り、己もまた一糸まとわぬ姿となって、ひとつひとつ丁寧に明確なこたえを示していった。

「エル、ごめん」
 何に対しての謝罪かは判然としないまま、エルゼの腹にフォルクハルトの手が触れる。期待と羞恥に身を震わせれば、そのまま彼の指は淡い茂みを撫で、既に潤うそこへと辿り着いた。

「あっ……フォルぅ」
 秘所がフォルクハルトの指を飲み込む。待ち望んでいた触れ合いに、エルゼの中が切なげに震え、唇から甘やかな吐息が零れた。
「……っフォル、もう……」
 なにかに耐えるような険しい表情の彼を抱きしめ、エルゼは快楽を甘受する。蜜壷は淫らな音をたてて悦び、彼の熱を逃がすまいと切なげに畝っては、恋しい愛しいと締め上げる。
 鼓膜を犯すような淫らな水音と、二人分の切なげな吐息と、互いを求める声とが交差して。やがて彼のそれが敏感な花芽を掠った。
「ひっ……?! っあ、やぁっ……」

 抗えぬ甘美な刺激にエルゼの視界が瞬く。背はしなり、勢い余った足先は意味もなく空を蹴った。
「エル、可愛い……ここ、少し膨らんでるね……」
「やっ、そんっ……ッ、わかんな……やぁぅあぁっ」
 止まぬ快楽はエルゼの眦から生理的な涙を零させ、悲鳴にも拒絶にも取れる言葉を溢れさせる。
 それでもエルゼを知り尽くした彼が、その意味がなんたるかを誤ることはない。

「良かった。えっちな気持ちになってくれてるみたいだから、もう少し……」
 フォルクハルトは悩ましげなため息をひとつ零して微笑むと、秘所を暴く指を増やして従順なまでにエルゼの欲望を叶えていった。
「あぁ、ここもいいんだ?」
「やっ、あぁッ……」
「はぁ……可愛くて、凛としたエルも夜はえっちになってくれるかもって、ずっと夢想してたけど」
「ふぁ、あっ……」
「想像なんて、やはり想像でしかないんだ。可愛い。えっちなのに可憐で……」
 フォルクハルトの指は彼の想いを表すように、内壁を優しく撫で、愛でるように摩っては執拗に花芽を転がして弄ぶ。

 自分が愛されているのか、彼の欲望のままにぐちゃぐちゃに犯されているのか。時折判断がつかなくなるくらいには激しい行為は、エルゼの欲を煽っていった。

「ねぇ、エル。薬が効いてるのは俺だからなんだよね?」
「っ……あっ」
 艶めかしい音と共に蜜洞から熱が離れ、フォルクハルトから核心を突いた言が零れる。
 眉根を寄せる表情に大人の余裕は見えない。そこにはエルゼがいつか見た、己の無力さを呪いながらも必死に不安に耐え、そうであって欲しいと切に願い続けるひたむきな少年の面影があった。

「っ大丈夫。推測の通り、フォルだからに決まってるでしょう……? それとも……」
 エルゼはあえて多様な受け取り方ができるよう効能書きに記載した言葉をこっそりと思い出しながら、笑いを堪えて。愛おしい人に手を伸ばす。
「薬が効くから嬉しいのか、効くからなくても嬉しいのか……ちゃんと確かめてみる?」
 勇気を奮い起こして、エルゼはフォルクハルトを抱き締める。
 そのまま昂る熱へ肌を寄せ、固まる彼の赤い耳へと口付けた。

「……私だってフォルのこと、大好きなんだから」
「……エルっ」
 エルゼの唇に滑らかなフォルクハルトのそれが重なる。
「良い……?」
 尚も躊躇するフォルクハルトに、エルゼはこくりと頷いた。
 ごくりと喉を鳴らす音が聞こえる。熱いフォルクハルトの両手が腿に触れたかと思うと、ひんやりとした夜の空気がしとどに濡れる秘められたそこを撫でた。

「エル、好きだ」
「フォル……私も」
 微かな水音をたてて、フォルクハルトの昂りがあてがわれる。
「あっ……フォルぅ」
「エル……」
 とろりと溢れ出た蜜を纏わせて、フォルクハルトの熱はエルゼの柔らかな花弁を押し開く。途端、エルゼは彼の熱がとてつもない質量だと気付いてしまった。
「……あ、っ……」

 想像以上の圧迫感に慄いたがもう遅い。
 フォルクハルトの熱情はエルゼの隘路を押し進む。
「あっ、ぁっ……」
「……逃げないで、エル……っ」
 互いの艶めいた吐息が荒々しいそれに変わり、やがてフォルクハルトの熱情はエルゼの最奥へと至った。
「……エル」
 しっとりと濡れた肌は心地好く、過ぎた月日を埋めるような力強い抱擁はエルゼを満たしていく。
「フォル」
 泣きそうな金の瞳の奥には、その身さえ滅ぼしかねない狂焔のような欲が宿っている。
「ずっと傍にいるわ」

 誓いの言葉への応えなのだろう。ほっとしたような微笑と一粒の雫を零すフォルクハルトに、再び懐かしい愛称が呼ばれて。まるでそれが合言葉だと承知しているかのように、フォルクハルトはエルゼの望み通りに中を揺さぶり始めた。


 窓から覗く十三夜月の下、想い合う魔女とその元弟弟子は契りを交わしているだろうか――レオンは私室の窓から満ちていく月を眺めながら、無粋だと己を恥じつつも友の成功を祈り続けていた。

「殿下、お二人が気になりますか?」
「ああ。万が一にも備えるのが仕事だからな」
 くすりと笑う妃に合わせて、足元から「にゃあ」との同意らしい声も聞こえる。

「しかし、長らく私を惑わせるのはエアフォルクだけかと思っていたが。君と、フォルクハルトまで。悲しんで良いのか、喜んで良いのか」
「あらまあ、惑わせるなんて。レオン様にはお話していましたわ。それに恩人を蔑ろにされて、黙っていられるほど私がお淑やかでないこともご存知でしたでしょう?」

 微笑む妃には敵わない。
 愛らしく華奢な容赦からは想像もできない豪胆な性格と抜かりのない手腕――運命か、偶然か。つくづく自分達は似た者夫婦だとレオンは思う。

「でもまさか君の相談と僕の悩みとが交わってるなんて。それにフォルクが全て片付けてしまっただろう?」
「他の方々にはお伝えできないような悩みを打ち明けられたのはレオン様ですわ」

 それは妃からもフォルクハルトの様子について、やんわりと言及を受けたからだ。
 初動捜査ミスから警察関係者が異例の処分を受けた事で有名な騎士団運営費の紛失・横領事件。その事件の容疑者だった元魔術師の女性と密かに会っている。
 ――ともすれば業火の魔法騎士の遅い春、女の過去を知らぬ故の偶然と紛う事実に、レオンの疑惑は確信へと変わった。
 妃の心配事とレオンの憂慮と、フォルクハルトの計画が交差した時、自分達には何ができるか。
 閨の悩みをフォルクハルトに持ちかけることはレオンたちの精一杯の助力だった。
 フォルクハルトにとっては渡りに船だっただろう。
 その偶然にもおそらく、既に気付かれてしまっているだろうけれども。

「私が浅慮で、言葉も足りないばかりにフォルクを苦しめることになった。負わずとも良いものをいくつも背負わせ……フォルクが命を削り魔術を使い始めたのは私のせいだ」
「レオン様。フォルクハルト様の振る舞いはフォルクハルト様が望まれたこと。それに今日からはエルゼ様がお傍にいらっしゃいます。気に病むことなどありません。エルゼ様の努力を尊重なされたレオン様の優しさを誰が咎められましょうか」
「だが……」
 なおも頑ななレオンに妃は慈愛の滲む眼差しを向け、ゆっくりと諭すように告げた。

「レオン様。フォルクハルト様は今も、レオン様に心からの忠誠を誓われております」
 深窓の令嬢と謳われた隣国の第二王女、訳あって、とある魔術師の女性に育てられた彼女はにこりと微笑む。
「心から。それは真実でございますし、まずは一番のお友達が信じてあげなくては。……報われませんでしょう?」
「そうだな」

 彼が今も望まぬ地位を受け入れ、役目を果たそうと粉骨砕身するのはレオンを思ってのことだろう。

「礼は何にしようか……」
「まずは殿下からの労いのお言葉と、少し長めのお休みなども喜ばれるかと」
「そうだな。今のままではエルゼ嬢とゆっくり話す暇もない。他には……」
「にゃあ」
 我もと言わんばかりに膝に飛び乗り、エアフォルクは喉を鳴らす。王子夫妻は思わず顔を見合せると、誇らしげな小さな騎士に総合を崩した。

 腕の中でうごめく温もりに、フォルクハルトは目を覚ました。

 すぐ傍では最愛の人が健やかな寝息を立てている。明け方の空からの微かな採光が、こちらの心まで澄み渡るような蒼色の髪を照らしていた。
(『北星の魔女』なんてエルには似合わないと思っていたけれど……)
 自分の無力さを証明するような名に抱いた僅かな未練は、フォルクハルトによって手放させてしまうという罪悪感が引き起こしたものかもしれない。

 フォルクハルトはそっと青色の髪をとり、神を前にした時の如く恭しく口付ける。

 思えば、彼女に抱いた初めての感情は幼稚な畏怖であった。

 物心つく頃には既に孤児であったフォルクハルトが、密かに親のように思っていた人に初めて会えたのは養成所時代だ。

 両親譲りの類い希なる魔力の高さと、真面目を通り越して少々融通が利かない頑固な性格。加えて孤独に慣れきった生活等々。養成所入所を迎えたフォルクハルトを一言で表すならば、拗らせた少年。妙に斜に構えた所を恥とも思わぬ、痛々しい少年であった。
 しかし一方で、幼き頃から手紙で彼を支え、師と仰いだ人との逢瀬から始まる生活には少なくない子供らしい夢を抱いてもいた。

 ところが、父と呼びたいと願っていた師の元には既に優秀な弟子がついていたのだ。

 名をエルゼ・コルネリウス。
 コルネリウス伯爵家の子女であり、数代前には公爵家に縁した辺境伯サイモン卿の末妹の忘れ形見であった。

 彼女には既に父と呼べる人がいるのに。
 齢七つとは言え、両親や家族というものに強い憧れを抱いていたフォルクハルトは、エルゼに幼い嫉妬を抱いた。

 厄介にも彼女は聡く、少々お節介な面はあるものの周囲の者にも優しい。その上、同い年のフォルクハルトが舌を巻くほど魔法も美しい。良くも悪くも孤児であるという事に無関心であったし、子供らしく姉ぶり、甲斐甲斐しく世話をやこうともした。

 もっと人と関わると面白い。愛情をもって接すると人生が楽しくなる。興味のないことも取り掛かれば楽しいかもしれない。――そんな夢物語のような彼女の言い分と行動は、次第にフォルクハルトを変えていった。

 同時に、月日が経つにつれて彼女への気持ちは言語化しにくい、深く重いものへと変わっていく。

 あんなにも敬愛し、自分を認め共に居て欲しいと願っていた師への気持ちにも、時折もやもやした得体の知れぬ苦しさが混じるようになったのを機にフォルクハルトは薄らと自覚するが、認めたくはない。
 兄弟弟子から好敵手となった十五の時に、「愛情や恋情を抱くのは生物として正常である」という理屈付けをするまで、結局は苦悩し続けた。

 その後、師は自身の研究のために遠い国へと旅立ち、二人は養成所を出て就職することとに。勇気を出して告白に至り、彼女からの色良い返事を受けるも、歓喜に涙して抱き締めるなど羞恥心が許さない。
 それでも慎重に少しずつと思っていた矢先だ。エルゼの父が横領事件に巻き込まれた事でエルゼたち父子は窮地に立たされてしまった。

 気持ちを確かめ合い、距離を縮めるのは後で良い。問題を解決することこそが彼女への愛情の証となる――そうフォルクハルトは心に決め、必死に事件を調べ、あまりにも時期尚早な伯爵位の剥奪の話に疑念を深め、真相追究の為に就職先を変えようと画策して。
 そして、別れを切り出された。

 意味を咀嚼できないまま、フォルクハルトはエルゼの呪いのような言葉に対して幸せになる旨を約束する。覚束無い足取りで帰宅し、フォルクハルト・グラーツではなく抜け殻がただ布団に転がっているような一晩を過ごした後に、彼女は王都から姿を消した。

 何故、彼女は逃げたのだろうか。

 実利を求めて事件の真相を突き止めないことを決めた? フォルクハルトの為に身を引いた? フォルクハルトの愛情の重さに嫌気が差した? 一部の世間の陰口に耐えられなかった? ……考え出せばきりがない。

 それでもフォルクハルトは内定を断り、騎士団への就職を決めた。真相を白日の下にさらしたいなどという正義感からではない。

 真実が明らかになれば伯爵位の剥奪が無効となり、コルネリウス伯爵家の評判も快復、エルゼの父も復職となる。親子関係も元に戻り、ひょっとしたら彼女がフォルクハルトの働きに気付いてくれるかもしれない。そうでなくとも調査中の再会を装えば自然と情報を共有する流れとなり、互いの気持ちを確認し合う機会も増え、関係修復ができるかもしれない。
 そんな都合の良い望みを捨てきれなかったからだ。

 己の下心に嫌悪しながらも、フォルクハルトは騎士団へ魔術師として就職した。
 そして間もなくして、エルゼの居場所を知り、運良く旧友に誘われた時にようやく、愚かなフォルクハルトは気付く。
 エルゼの呪いの本当の意味を。

 側仕えとなったは運でも、己の実力でも、王子の気まぐれでもなく、エルゼ・コルネリウスの地道な尽力に依るものだった。

 王都を出ると決めた彼女は周囲に頭を下げ、教授や上官にさりげなくフォルクハルトを売り込み、あろう事か密かにレオンへ嘆願の手紙まで書き、届かないと見込んでいたのか王子の耳にフォルクハルトの失恋と現状が入るよう手まで回していた。
 北星の魔女となった後も城のメイドを娘に持つ夫人から情報を聞き出したり、貴族の客にフォルクハルトの手腕を仄めかしたり。
 兎角、無自覚に人心を操るに長けた彼女の労は、本人が何の意味もないだろうと思い込んでいた一方で、思わぬ人物を経由して絶大な効果を発揮したのである。

 彼女の気持ちを知ったフォルクハルトは悩んだ末に、いよいよ事件を明るみにし、真犯人に法の裁きを受けさせることが近道だと結論付けた。

(エルはずっと苦しかったはずだ……森で誰かの幸せを手伝う仕事をして、遠くから俺を見守って、それでも人との深い関わりを恐れて……)

 フォルクハルトはエルゼの髪を撫でる。

「俺だけ助けて、エルは……? 真相を知った時に俺がそれでも君を信じられなかったら、一体どうするつもりだったんだ……」

 答えは明白だ。きっと、どうするつもりもなかったのだ。フォルクハルトが幸せに暮らせているならば構わないと腹を括っていたのだろう。

(エルはあの言葉に含みを持たせたことを……些細な未練を込めたことさえ、本来自分には許されないことだと思っていそうだ……)
 フォルクハルトに比べたら、エルゼの淡い期待など可愛いものだ。
「エル……」
 フォルクハルトは昨夜の熱が灯る体で彼女を抱き締めた。

 
 できることならば、恩ある王子夫妻を憚り、彼女の責任感と罪悪感を利用し、死に物狂いで準備を進めたことは隠しておきたい。

 可能ならば、事件の真犯人を血眼になって探し出したことも、証拠の在処を聞き出す為に多少手荒い真似をしたことも。その結果、東部を支配していた竜との停戦盟約と国内外二つの犯罪者組織の壊滅とを助け爵位を得たが、隣国の市場が一時荒れ、外交問題に発展しかけたとレオンに注意を受けたことも知られたくはない。

 それから。エルゼの居場所を知った頃から、こっそり結界に手を加えて盗視しようとしたことや、近隣の街で買い物中のエルゼを尾行したことや、それらに度々失敗していることなども恥ずかしいので隠しておきたい。

 すべては彼女と再会する為に。生涯を共に過ごす為に。

 夜明けは近い。

 曖昧にぼかした報告書の提出に、エルゼへの正式な婚約申し入れ、屋敷についての相談、教会の予約、レオンへの報告等々。やらねばならぬことも、やりたいことも山のようにある。
 まずはエルゼと共に城へ行き、友人夫妻の仲や夜のあれこれを気遣うという何とも居た堪れない仕事をこなさねばならない。
 こちらは少々気が重いが、エルゼと二人の仕事と考えれば楽しくなりそうである。

(……お義父さんへの挨拶も早めに行きたいな)

 誠意を示す為にも、フォルクハルトはダニエル・コルネリウス伯爵彼良い報せをエルゼに伝えに来る前に策を練り、挨拶に参じたい。

「……あ……うぅん、フォル、おはよう」
「エル、おはよう」
 寝ぼけ眼で見上げるエルゼにフォルクハルトは口付ける。

 永き眠りにつくその日まで。何のことはない、平凡で幸せなやり取りが続きますようにと願いながら。


 
 ところで。
 どう振る舞えば、猫と離婚した男を婿として認めてくれるか――この最大の難問に対して、フォルクハルトが策を立てるも、講じる必要などなかったと知るのは少し先の話。愛の館の主人の父、ダニエル・コルネリウス卿が娘とそっくりの愛情深い人物だと知る時である。


終わり