missing tragedy

cock-and-bull……¡

望み ②

 ノアよりも早くフェリクスの言葉に応えたのは、甲高い鳥の鳴き声だった。
 ノアの表情は険しい。フェリクスから聞いた話は、一抹の不安が現実になってしまった事を裏付けていた。
「サラさんは……」
「わかってる」

 苛立ちを抑えようと努めたが、抑揚のない冷たい声が口をついて出た。震え上がるフェリクスを前に、ノアは唇を噛む。

「取り違えたのかもしれません……」
「そうかもね」
 理由などどうでも良い。問題は想定外の人物が直接関わってきた可能性が高い事と、恐らくそれにより想定していた場所に捕らわれなかった事。
 万が一にも備え、最善の対策を取ったとは言え、嫌な動悸は鳴り止まない。
 一刻も早く彼女を救い出したい。焦る心を見透かすように悪魔の提案が脳裏を過り、ノアは深く息を吐いた。

「あ、いたいたノア!」
 駆け寄る友の声にノアは振り向く。ぎょっとしたようにシンハの表情が強ばったのを見て、慌てて俯いた。

(落ち着け……考えるんだ。僕がすべき事を……)

「ノア! しっかりしろって!」
「わっ⁉ っ⁉」
 ばしんと背中を叩かれ、危うく転びそうになる。よろめきながらも踏みとどまったノアに、真面目な面持ちに戻ったシンハの声が届いた。
「エリスとノアが言ってた例の人、それぞれ屋敷には居なかった。室長のお墨付き」
「……ありがとう。シンハ。恩に着る」
 唇を引き結び、ノアは顔を上げる。
(そうだ……僕は……)

「シンハ。予定は中止。代わりにもう一度男爵家の門の近くに行って、フリーダーさんって男性と合流して欲しい。僕の仲間なんだ。茶色の髪に金色の瞳、笑い方が綺麗で独特だからすぐわかると思う」
「わかった。そっと行かなきゃな……。その後の事はその人に?」
 ノアは頷く。頼もしい友は白い歯を見せ、にっかと懐かしい笑みを見せた。
「ありがとう、シンハ。室長も。宜しく頼む」
「おうよ! じゃ」

 シンハの後ろ姿を見送り、ノアは囁くように呟く。
「確認を頼みます。兄さん達にはバルト卿の居場所も伝えてありますから出来ると思います」
 ノアが言い終わるや否や、突如として闇から溶け出したように現れたのはエリオットだ。
 驚きに目を白黒させるフェリクスをよそに、エリオットは綺麗で独特と評された笑みを浮かべ、わざとらしくため息を漏らす。

「それって急に予定変更した挙句、先輩である僕に主君を動かせって事?」
「はい。すみませんが、控えている兄さんどちらかに僕の名前を使って協力を仰いで下さい。どちらもきいてくれるはずです」
 口早にノアは告げた。
 兄達が断ることはないだろう。このような万が一の時の為にではなかったが、それだけの借りと恩と関係性は既にあると思っている。

「……君って仕事ができないんだかできるんだか。ま、職権乱用と職務怠慢の責任と、超過労働分は請求するから良いけどね」
「すみません。後は手筈通り、こちらで」
「あはは、猟犬なんて何年ぶりかなぁ? 君さぁ、僕やお兄ちゃん達のことなんだと思ってるの」
「尊敬し、信頼してます。宜しくお願いします」
 逸る心を必死で隠し、駆け出そうとするノアを、
「ちょっと待って」
 エリオットは俊敏な動作で制止した。

 肩を掴む手を除け、ノアは彼を一瞥する。
「離して下さい。僕は行きます」

 誰が止めようとも無駄だと、ノアは暗に言い放つ。気圧されたようにエリオットは一瞬だけ押し黙り、しかし直ぐに続きを告げた。
「サラにはもう言うよ? 何かあった時に君だけじゃ、心許ないだろ?」
 ノアの唇が悔しげに歪み、苦い笑みへと変わっていく。
「お願いします。先に僕は行きます。サラ姉には、エリスの安全を最優先に、と」
「ああ」
 会話が終わる前に、エリオットは再び闇へと溶けていった。
 間を置かずに。ノアは呆然とするフェリクスに近付く。
 鋭い視線で射抜くと、フェリクスは明らかに身を強ばらせた。

「ベークマンさん……最後のお仕事をしましょうか?」
 努めて穏やかに。決して嫉妬や怒りが滲み出ぬよう細心の注意を払って、ノアは美しい笑みを作る。
 ノアの手がフェリクスの肩に触れ、低く短い悲鳴が闇に響いた。


 三十分後。ノアはようやく、目星をつけた屋敷の潜入に成功した。
 募る不安を煽るように、悪魔の魅惑的な提案が耳の奥で木霊する。
 逸る心に対して、心と頭を始めとした全身が冷えていく感覚は、奇妙な高揚感とも似ていた。


〇〇〇


「手を貸してやっても良いんだぜ?」
「……」
 脳内に直接語りかけてくる悪魔に対し、エリスは気付かぬふりをし、無言を貫き通していた。

 意味深長な言葉を残し消え去ったナールは、意外にもすぐにエリスの傍へと姿を表した。彼が提示した契約を結ぶ見込みは薄いと踏んだのか、物騒な取引は持ちかけてこないものの。構って欲しい飼い猫や子供のように、エリスの周りを飛び回っては、頻繁に話しかけてきている。
(ナールさんの言う事がどこまで本当かまだわからないけれど。私と手を組みたがってるって事は……)

 エリスは室内を調べながら、ノアから渡された紙を思い出す。初代ブラッドと結んだ契約内容には【両継承者各々の能力の使用・新たな契約の提起】とあった。
 またナールやノアは、新しい契約を結ぶ際には、互いにそれ相応のリスクがかかる事を仄めかしている。
 それらは、現状が多大な労力を割いても手を組む必要性がある危機的な状況だという可能性を示しているように思える。

(ならば結界の話が本当か……もしくは、新契約の話そのものがナールさんの嘘……?)

 思えばノアのメモには【契約はナールの魔力を元とした魔法による期限付き契約であり、効力の証を互いに創り、一定期間持たねばらない】ともあった気がする。
 今回の契約に期限は設定されていない。書斎にあった本にも、『リオンの竪琴』の引用から始まる箇所の総括は”特定の魔法契約の成立には内容及び期間、双方の契約者名が必要”だったはずだ。

(彼は最初から契約を結ぶ気が無かった……?)
 浮かんだ一つの推論にエリスは戸惑う。
 無意味と理解しながらも目を凝らし、本棚に並ぶ書物の題を呟いたが、効果は薄かった。
 仮定の話ではあるが、ナール側に一切旨味のない新契約の提案も、感情のみに訴えかけた誘いも、何か別の意図があって起こした行動だというのなら一応は辻褄が合う。
 また、数々の些細な違和感や現在の状況へと繋がった度重なる偶然にも説明がつくだろう。

(でも、どうして……?)
 悶々とした気持ちを持て余しながら、エリスは辺りを見回した。
(まだ、そうとは限らない……。とにかく次に繋がることを今はしていかないと……)

 エリスのいる部屋の扉は一つだけ。窓は天窓と合わせて大小三つあるが、天窓以外は大きな本棚で塞がれている。
 幸運にも背の高い本棚を利用すれば天窓に手は届きそうだが、小さな窓を破壊し抜け出す事は難しい。大声で助けを呼ぼうにも、屋敷が森の中や大邸宅の住宅街でない場合は、全く意味を成さないばかりか一層危険になるだけのように思えた。

(今のところ結界の存在は否定しきれない。指輪の探知機能を使ったとしても、こちらの居場所がわからない事だってあるのよね……)
 当面はノアの指示通りに、甘んじて捕まっているつもりだ。しかし彼が助けに来れない可能性が濃厚となった時には、迅速に他の手を打つしかないだろう。

 冷えきった室内は静まり返っている。フクロウの鳴き声などの外の音は一切聞こえず、扉の外や隣接する部屋に人が居る気配さえも感じられなかった。
 エリスはそっと嘆息する。
(もし自力で脱出するとなったら、見張りの人が単独や少人数で来てくれるとか、魔法がうまく発動して全員倒れてくれるとか……偶然が重ならないと難しそう。せめてナールさんの言っている事の真偽が確かめられれば良いんだけれど……)
 暇を持て余したナールは、ふわふわとクラゲのように宙を漂っている。

「あの……」
「なんだ?」
「ナールさんとは、さっきの内容でしか新しく契約できないんですか?」
「は?」
 片眉を上げた悪魔を見て、慌ててエリスは言い直した。

「その、先程の暴力的な破壊行動はなるべく避けたいんです……ノアを疑うような事も。ですが、冷静に考えて現状私一人での脱出は難しいと思ったんです……」
 先程から一転、手のひらを返したようにも感じられる言葉に、思わずエリスは俯く。
 しかし一人で全て対処できるほど自分に力が無い事は自覚している。偶然と奇跡に頼りきる事はできない。
 ナールはこちらを見透かすようにニヤリと笑うと、
「内容にもよるな。俺が納得するような契約内容ならば、考えてやっても良い」
 意外にも乗り気な様子で身を乗り出してきた。
「本当ですか! ありがとうございます!」
 手を取ろうとしたエリスのそれは、呆気なく空を切る。
「あっ」
「ハハッ。基本俺の存在は曖昧だからな。言っただろ? 力を使って他の奴になれば触れるが、この姿じゃあ集中して、ものの一、二秒さ」
「……あ、はい……」
 上手い合いの手が思いつかず、唇から苦さの残る愛想笑いが漏れた。

(自分そのものが曖昧で、他の人を装えば認知されるって事なのよね……。考えたらそれって、少し寂しいわ……)

 人ならざる者の気持ちは計り知れず、他者の気持ちも全ては想像である。それでも侘しさを感じてしまうのは、エリスのエゴなのかもしれないが。
 ひんやりとした室内の空気に反して、こみ上げる思いからなのか胸はじんわりと熱い。

「ナールさん。一時、力を貸してくれませんか。何もかもではなくて、限定的で構いません。それにその方が、契約の時の負担も小さい気がして」
 エリスは改まって、ナールへと頭を下げた。
「……嬢ちゃんは目が良いな。良いぜ? でもその前にお前は何をかけてくれるんだ?」

 ほんの少し困ったように笑う悪魔にエリスは条件と報酬、保障を耳打ちする。

「……どうです?」
「まあ良いぜ。なかなか面白ろそうだしな」
「あと……」

 そしてもう一つ。エリスは一つの私案も付け足した。今度はナールの眉根にしわが寄り、小鳥のように首が傾げられる。

「それは、人間の間でまた流行ってるのか?」
「そう、ですね……? 私の周りでは」
 どのような答えをすべきか図りかね、エリスもまた首を傾げた。

「良いぜ。嬢ちゃんの提案を全面的に飲もうじゃねぇか」
「ありがとうございます」
 ナールと取り決めを交わし、エリスは安堵の息をついた。
「では私は……」
 不意に、胸元がじんわりと温かくなる。明確な熱に反応するかのように、目の前を浮遊していたナールの姿が消えた。
 異変を確かめられる間も与えられずに、部屋の扉が開いて。眩い光が薄闇を割く。
「え……?」

 見上げた先、扉から入ってきた男の瞳は感情の灯らない冷たい色をしていた。